第38話 深海の幽霊船
人類未踏の深層に降り立った私たちの目の前には、上層のような自然の洞窟ではなく、奇妙な赤茶けた残骸が山のように積み重なる不気味な空間が広がっていた。
アリスやリックが、見たこともない形の滑らかな岩や巨大な筒を不思議そうに観察している。
私はその残骸の山の中から、鈍く光る真鍮製の物体を見つけ出した。表面の泥を拭い去ると、そこには明確なアルファベットの刻印があった。
『USS CYCLOPS』
「間違いない。一九一八年にバミューダ海域で消息を絶った、アメリカ海軍の巨大給炭艦だ」
「ばみゅーだ……?なんだいそれは?」
ボブが首を傾げる。
「僕の故郷の海域だよ。乗組員三百人以上とともに忽然と姿を消し、残骸の欠片すら見つからなかった歴史的ミステリーの答えが、ここにあったんだ」
私は戦慄とともに、このダンジョンが地球の特異点と繋がっているホワイトホールであることを確信した。
(間違いない。やはりこの世界は地球と対をなす『双対宇宙』だ……!)
私の脳髄を、かつてない知的な熱狂が駆け巡る。
この残骸は、特異点が単なる情報の消失点ではなく、過剰な収縮圧力が限界を超えて対の世界へと貫通した『接続口』であるという、私の『汎・量子もつれ宇宙論』の仮説が完璧に正しかったことを証明する何よりの物的証拠だ。
質量を持った巨大な艦船が、流体力学的な圧力差によってこちら側の宇宙へと押し出されてきた。私という観測者が異世界に墜ちたことすらも、ただの事故ではなく、双対宇宙同士を縫い合わせる量子もつれの張力によって引き寄せられた必然的な事象であると数式で記述できる。
そして何より、物質が地球からこちらへ到達できるということは、私の最終目的……この世界から地球へ向けて重力波の観測データを送信し、理論の最終証明を果たすことが絶対に可能であるという揺るぎない事実の現れだった。
胸の奥から湧き上がる歓喜が、泥のように重く、熱く、私の理性をドロドロに溶かしていく。
「れ、レイ様……なんだかお顔が、すごく怖いですぅ……」
アリスが怯えたように私の白衣の裾を掴む。
どうやら私は、目の前にある物的証拠という確かな事象に興奮を押さえきれず、自分でも気づかないうちにひどく歪んだ、狂気じみた笑みを浮かべていたようだ。
「……ふっ、気にしなくていい。少しばかり、世界を繋ぎ止める真理に触れて感動していただけだ」
咳払いを一つして冷静さを取り繕う。
だが、圧倒的なスケールの現実に浸っていたその時、周囲の濃密なマナが急激に収束し、サイクロプス号の残骸が不気味な音を立てて動き出した。
「リック、三秒後に右頭上から鉄のパンチが来るよ!」
ボブの警告と同時に、船のスクリューや錨、赤錆びた艦橋が融合して立ち上がり、数千トンもの質量を持つ超巨大な鉄のゴーレムが姿を現した。ビルほどもある巨大な右腕が、容赦なく振り下ろされる。
「任せろ!確か……三十度で逸らせばいいんだろ!」
リックが不敵に笑い、セラミック剣を斜めに構えて受け流そうとする。
「リック無理だ!逃げろ!その質量を剣で逸らすのは物理的に不可能だ!剣と一緒にお前もミンチになるぞ!」
私は叫んだ。三十度の角度で力を逸らせるのは、あくまで相手の質量が自分の筋力や体重で拮抗できる範囲内の話だ。数千トンの鉄塊の運動量を、人間が剣一本でどうにかできるわけがない。
「なにっ!マジかよ!」
リックは悲鳴を上げ、構えを解いて横へ大きくダイブした。直後、彼が立っていた岩盤が鉄の拳によって粉砕され、轟音とともにクレーターが穿たれる。
「駄目だね……僕の演算でも、アリスさんの魔法出力じゃこの鉄塊を融解させるにはエネルギーが圧倒的に足りないと出てる」
ボブの冷静な計算に短く同意し、私はゴーレムの構造を分析する。表面を覆う赤錆、すなわち酸化鉄を見て、化学的な弱点を見出した。
「鉄は切るんじゃない。燃やすんだ」
「はぁ!?鉄が燃えるわけねぇだろ!頭がおかしくなったのか!」
リックが混乱して叫ぶ。魔法使いの常識でも、金属をドロドロに溶かすことはできても、紙や木のように燃やすという概念はない。
しかし私は構わず、指示を出した。
「アリス、O2だ。風の魔法で空気中から酸素だけを分離しろ!奴の周囲を、純度百パーセントの酸素ドームで包み込むんだ!」
「さ、さんそですね!わかりました!」
アリスが杖を掲げ、魔法でゴーレムの周囲に高濃度の酸素領域を形成する。
「ボブ!あの装甲にセラミックを衝突させて、鉄の発火点である約千度の火花を散らすにはどれくらいの初速が必要か計算してくれ!」
「了解!質量と反発係数から逆算する……秒速三百メートル、いや、空気抵抗を考慮すればもっとだ!」
「わかった。リック!ゴーレムに関節部の分厚い鋼鉄に向かって、お前の剣を投げろ!空気抵抗の摩擦を緩和するために、刃先から真っ直ぐだぞ!」
「剣を投げるぅ!?お前、そんなことしたらあの硬てぇ装甲にぶつかってセラミックが砕け散っちまうだろ!」
「そうだ!セラミック・コーティングは硬度は高いが、衝撃に対する靭性、つまり粘り強さは極めて低い!鋼鉄に高速で激突させれば間違いなく砕け散り、極大の火花を生む!」
「この野郎、俺の最強の相棒を火打ち石代わりにしやがる気かよ!」
文句を叫びながらも、リックは一切の躊躇なく自身の剣を上段に構え、渾身の力で鉄の巨人へ向かって投げ放った。
「僕が加速させる!」
私は金色の糸──重力魔法をコントロールし、投げられた剣の運動ベクトルに強烈な引力を上乗せした。
セラミック剣は空気を切り裂き、弾丸のような速度でゴーレムの鋼鉄の装甲へと激突した。
パキィィィンッ!
甲高い破砕音とともに、セラミックのコーティングが粉々に砕け散るとともに、ゴーレムの表面の赤錆を吹き飛ばす。
同時に、鉄と鉄との超高速の激突による極度の摩擦と衝撃が、これまでにない巨大な火花を生み出した。
その火花が、純酸素の環境下で見事に引火する。鉄は高熱と高濃度の酸素に触れると、激しい光と熱を発して急速に燃焼するのだ。
「ゴァァァァァッ!?」
数千トンの鋼鉄の怪物は凄まじい急速酸化反応を起こし、まるで太陽のように真っ赤な炎を上げて燃え上がった。
自重を支えきれなくなったゴーレムの巨体は、リックの相棒と共に炎の中でただの脆い赤錆の塊へと変質し、ボロボロと音を立てて崩れ落ちていく。
やがて炎が収まると、そこには元の船の面影すら残っていない、黒焦げた酸化鉄の山だけが残された。
「うそだろ……あのデカい鉄のバケモノが、本当に燃え尽きちまった……」
「紙切れみたいに燃えて、ボロボロの灰になっちゃいました……」
リックとアリスが、信じられない物理現象を前に目を丸くして言葉を失っている。
(僕の宇宙論を裏付ける最高の物的証拠だったが……完全に形を失ってしまったな。まあ仕方がない、証明する術は他にもあるさ)
私は黒焦げになった残骸の山を見つめ、静かに息を吐いた。少しの惜しさはあったが、私たちの命には代えられない。
「あーあ……見事に燃えて、もうどれが俺の相棒なのかもわかんねーや」
リックが、酸化鉄の山の眺め深く肩を落とした。
「気にするな。最高の代用品なら、すぐそこにあるはずだ」
私が崩れ落ちた酸化鉄の山の奥を指差す。
空間が極限まで圧縮された大迷宮の最深部。そこから漏れ出す神々しい白銀の光、超高純度ミスリルの鉱脈が、静かに私たちを待っていた。
(続く)









