第37話 エントロピーの掃除屋
奈落の主が、お目覚めだよ。
ボブの警告と同時に、岩盤のさらに下層からせり上がってきたのは、おぞましいまでの質量を持った「不定形の何か」だった。
半透明で巨大なアメーバ状の粘液。スライムの高位変異種だろうか。だが、その巨体から発せられる魔力の密度は、先ほどの飛竜や甲虫の比ではない。
「なんだこいつ、気持ちわりぃな!俺が斬り伏せてやる!」
リックが先陣を切って飛び出し、セラミック剣を大上段から振り下ろした。
スライムの表面に刃が深々と食い込む。だが、次の瞬間、リックの顔が驚愕に歪んだ。
「なっ……抜けねぇ!?それに、斬ったそばから傷が塞がってやがる!」
「リックさん、下がってください!私が吹き飛ばします!」
アリスが八木・アンテナ杖を構え、圧縮した風と雷の魔法をスライムの中心に向けて放った。
轟音と共に魔法が直撃する。しかし、スライムはダメージを受けるどころか、その魔法エネルギーを丸呑みにするように吸収し、さらに一回り巨大に膨れ上がった。
「ひゃうっ!?私の魔法が、食べられました!」
「二人とも攻撃をやめろ!リック、剣から手を離して後ろへ跳べ!」
私の怒声に、リックは慌てて剣を手放し、後方へ飛び退いた。
私の眼には、黄金の糸を通してこの空間のエネルギーの流れがはっきりと見えていた。あの魔物は、リックの斬撃の運動エネルギーも、アリスの魔法の熱エネルギーも、すべて自身の質量へと変換しているのだ。
「あれはただの魔物じゃない。このダンジョンが熱死しないための免疫システム……過剰なエントロピーを回収する掃除屋だ」
「エントロピー……?つまり、どういうことだい?」
ボブが魔導書を構えながら問う。
「力や魔法で攻撃すればするほど、相手にエネルギーを与えて強大化させるだけだということだ。物理的な衝撃も、熱も、光も、すべて奴の餌になる」
「じゃあどうやって倒すんだよ!このままじゃ丸呑みにされちまうぞ!」
リックの叫びの通り、巨大化したスライムは私たちのいる岩盤全体を飲み込もうと、津波のように押し寄せてきていた。
だが、私は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、焦る気配すら見せずに鼻で笑った。
「簡単だ。エネルギーを与えられないなら、奪えばいい。アリス」
「は、はいっ!」
「奴を直接狙うな。奴の周囲の空気を、一気に外側へ引っ張って空間を広げるんだ」
「空気を、引っ張る……?」
「気体は急激に膨張すると、周囲から熱を奪う性質がある。断熱膨張だ。お前の杖の指向性を使って、スライムを中心とした空間の空気を、全方位に向かって猛烈な勢いで引き剥がせ!」
「わ、わかりました!やってみます!」
アリスが杖を高く掲げ、魔力を全開にする。
彼女の不確定なマナが、私の指定した物理法則の枠組みの中で完全に制御され、周囲の空気を強引に外側へと引っ張り広げた。
ピシィ──────ンッ
空間が鳴った。
熱エネルギーを急激に奪われ、断熱膨張を起こした空間は、瞬時に絶対零度に近い超低温領域へと変貌した。
エネルギーの吸収体である巨大スライムは、熱を根こそぎ奪われたことでその不定形の構成を維持できなくなり、波打つ形のままカチンコチンに凍結した。
まるで、巨大なガラス細工の彫刻のようだ。
「……Q.E.D.(証明終了)」
私はスライムだった氷の像を見上げた。
「すげぇ……あんなバケモノが、一瞬で氷のオブジェになっちまった。よし、俺の剣を取り返して、粉々に砕いてやるぜ!」
リックが意気揚々と凍りついたスライムに歩み寄り、突き刺さったままの自分の剣の柄を力強く握ろうとするが、私は即座に鋭い声で制止した。
「待てリック。壊さないように細心の注意を払え」
「え? なんでだよ。とどめを刺すんだろ?」
「そいつが死んだら、このダンジョンは熱暴走を起こして崩壊するぞ。いや、この階層の過剰なエントロピーが行き場を失えば、地上にまで影響が及び、世界的な気候変動に繋がる可能性すらある」
私の言葉に、リックの動きがピタリと止まった。
「マ、マジかよ……」
「さっき言っただろう、そいつはこの空間の熱暴走を防ぐための免疫システムであり、巨大な冷却装置だ。今は超低温で冬眠しているような仮死状態になっているだけだ。じきに解凍されて、またダンジョンのエントロピーを吸収して過剰な熱を掃除してくれるだろう」
私はリックの強張った背中を見つめた。
「だから、絶対に砕くなよ。待て、ただ引っぱるだけじゃ割れるぞ。物理的なアプローチをとれ」
「ぶ、物理的ってどうすんだよ!?これ、ちょっとでもミスったら世界が終わるってことじゃねぇか!」
「今の超低温状態の氷は極めて脆い。少しでも横方向への力、つまりトルクが加われば、お前の剣の鋭い刃先に応力が集中して全体に亀裂が走る」
「とるく!?応力!?もっと分かりやすく言ってくれ!」
私はため息をつき、具体的な動作を指示した。
「手首を絶対に返すな。剣の刃の軌道に対して、完全に平行な力だけをかけろ。そして腕の力で引くのではなく、肩と背中の筋肉を使って『等速直線運動』で引き抜くんだ。急な加速は結晶構造に衝撃波を生む。一定の速度、ゼロのねじれだ」
「一定の速度で、真っ直ぐ……」
「安心しろ。お前の剣のセラミック・コーティングは金属と違って氷と癒着しない。摩擦係数も極めて低いから、真っ直ぐにさえ引けば引っかからずに必ず抜ける。僕の計算とお前の剣を信じろ」
「……おうよ。信じるぜ、お前の理屈」
リックは滝のように冷や汗を流しながら、息を殺して剣の柄を両手でそっと握りしめた。
私の指示通りに手首を完全に固定し、背中の筋肉だけを使って、ミリ単位の慎重さで刃を等速で後退させていく。
ピキッ……。
微かな氷の軋む音が響くたびに、リックだけでなく、見守るアリスやボブの肩までビクッと跳ね上がる。
永遠とも思える数十秒の後、ついにセラミック剣の切っ先が、氷の摩擦を滑り抜けて完全に外へ出た。
「ぷはぁっ……!抜けた、抜けたぜ……!」
リックがその場にへたり込み、荒い息を吐く。
無傷のまま残された巨大な氷の像は、静かに冷気を放ちながら機能停止している。
「完璧な等速運動だったぞ。これでおそらく数日は仮死状態のままだ。後顧の憂いなく進めるな」
私は緊張から解放された三人を促し、魔物が塞いでいた岩盤の大穴の先を覗き込んだ。
そこには、重力異常地帯の喧騒が嘘のような、不気味なほどの静寂に包まれた漆黒の空間が広がっていた。
「ここから先は、未知の領域だ。人類未踏の深層へ降りるぞ」
私たちは顔を見合わせ、深く頷き合ってから、静寂の底へと足を踏み入れた。
(続く)











