第36話 無重力のお姫様抱っこ
メキョッ、という嫌な音が空間に響いた直後だった。
アリスの足場となっていた巨大な浮遊岩が、突如としてその浮力を喪失した。
「あ……れ……?」
彼女の小さな呟きは、直後に訪れた猛烈な重力落下によって掻き消された。
「きゃあぁぁぁっ!?」
アリスの悲鳴が、上下の概念が崩壊した異常空間に吸い込まれていく。
周囲の重力ベクトルがデタラメに反転し渦巻いているため、アリスの浮遊魔法では到底姿勢制御が追いつかない。彼女の小さな体は、底なしの暗黒へ向かって真っ逆さまに落ちていく。
「アリス!」
リックが弾かれたように岩の縁に飛び出し、手を伸ばす。しかし、その指先は虚しく空を切った。
「くそっ!ボブ、なんとかならねぇのか!」
「駄目だ!カオス理論的な重力変動の前じゃ、未来予測の演算が全く収束しない。救出成功率、ゼロだ……!」
ボブが魔導書を握りしめ、絶望に顔を歪める。
「計算を止めるなボブ。変数は僕が固定する」
私は白衣を翻し、迷うことなく奈落の虚空へと身を投げ出した。
これまで、私はあくまで司令塔としての役割に徹し、自身の魔力出力を最低限に抑え込んできた。だが、今は出し惜しみをしている場合ではない。
私は重力魔法──空間を縛る金色の糸の操作を、完全に解放した。
自身の周囲の重力定数を一時的に負の数へと書き換える。
鼓膜を破らんばかりの風切り音と共に、私の体は弾丸のような速度で垂直落下を開始した。黄金の糸を引きちぎり、歪んだ重力場を力任せに突破してアリスへと肉薄する。
「レイ様ぁっ!」
恐怖で固く目を閉じ、空中で手足をバタつかせるアリス。
私は自身の速度をアリスの落下速度と完全に「同期」させると、その華奢な腰に腕を回し、力強く引き寄せた。
「目を開けろアリス。お前が信じているのは、不確かな神か、それとも僕の計算か?」
耳元で囁くと、アリスがハッと目を開いた。瞳に涙を浮かべた彼女の視界に、私が映り込む。
私は彼女をしっかりと抱き寄せたまま、私たちの周囲の重力ベクトルを完全に相殺した。
直前まで全身を打ち据えていた猛烈な風圧が、嘘のように消え去る。
擬似的な無重力状態。激しい落下はふわりと止まり、私たちは光り輝く重力異常地帯の空間を、まるで水の中を漂うようにゆっくりと降下し始めた。
やがて眼下に、安定した巨大な浮遊大陸のような岩盤が近づいてくる。
トン、と音もなく、私たちはその岩盤へと着地した。重力を元に戻す。
「軽いな、ちゃんと食べてるか?」
私は着地の衝撃を計算する過程で導き出された彼女の質量を、物理学的な事実としてそのまま口にした。
だが、腕の中にいるアリスは、私の胸に顔を押し付けたまま、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染め上げていく。
「ひゃうっ……あ、あの、レイ様、その……!」
彼女の体温が急激に上昇し、不確定なマナがポコポコと周囲で弾け始めた。
私はアリスをそっと地面に下ろし、はるか上空の岩場からこちらを見下ろしているリックとボブに向かって大声で叫んだ。
「こっちは無事だ!この岩盤の重力場は安定している!図らずもショートカットになったな、二人とも飛び降りろ!」
「正気かよ!俺たちはレイみたいに重力をいじれねぇんだぞ!」
はるか上から、リックの半泣きのような抗議の声が降ってくる。
「アリスの風魔法で下からクッションを作る!僕の計算を信じて跳べ!」
「ああもう、どうにでもなれぇぇぇッ!」
リックがヤケクソ気味に叫びながら虚空へ身を躍らせた。ボブも深くため息をつきながら、冷静に落下軌道を計算して後に続く。
「アリス、二人の落下地点に上昇気流の層を何枚も重ねろ!流体力学的なブレーキをかけるんだ」
「は、はいっ!お任せください!」
アリスが赤い顔を両手でパパンと叩いて気合を入れ直し、アンテナ杖を構える。
幾重にも重なる高密度の空気のトランポリンが展開され、リックとボブの体がそれに何度も弾かれながら安全な速度まで減速し、見事に私たちのいる岩盤へと着地した。
「死、死ぬかと思ったぜ……」
リックが地面に大の字になってへたり込む。
ボブは乱れた襟元と眼鏡のズレを直し、いまだに顔を赤らめてそわそわしているアリスと、平然としている私を交互に見比べて、やれやれと肩をすくめた。
「現在のアリスさんの心拍数上昇は、落下の恐怖によるものか、あるいはレイ君の腕の中にいたことによる吊り橋効果か……わざわざ計算するまでもないね」
「ぼ、ボブさんっ!?何を言ってるんですか急に!」
アリスが杖を振り回して慌てふためく。
そんな平和なやり取りを遮るように、周囲の空間が異常な揺らぎを見せ始めた。
肌を刺すような、圧倒的なプレッシャー。
「……救出劇の祝杯を挙げている暇はなさそうだぞ」
ボブも魔導書を開き、顔を強張らせた。
重力異常地帯のさらに下層から、これまでの魔物とは比較にならないほど巨大で濃密なエントロピーの塊が、凄まじい速度でこちらへ接近してきていた。
「同感だね。……奈落の主が、お目覚めだよ」
(続く)











