第27話 カリーヌ=サルヴェールという人形
これはまだ、第二次世界大戦にて日本とドイツが同盟を結ぶ前の話。
―フランス、パリ―
平和の雲行きが怪しくなってきたその日、日本から出張でフランスへと渡っていたとある日本人の商社社員が一人の日本大使館職員と話をしていた。
場所は彼らが行きつけのカフェ。そこで出された朝食を食べていた。
「いつも悪いな鎌田」
「いや、いいってことさ。古森。俺とお前の仲じゃないか」
二人の日本人は幼馴染であり、親友であった。
古森と呼ばれた男はフランスの日本大使館に勤めており、鎌田と呼ばれた男から受け取った梅干し入りの瓶を愛おしそうに眺めていた。
「日本の食文化とは違い新鮮さを味わえるのはいいが、それを感じられるのは最初の頃だけ。
そのうちこういった食い物が本気で欲しくなるんだ」
「あぁ、わかるよ。日本に居た頃はそんな感覚全くなかったのにな。人間の欲望ってのは身勝手なもんさ」
「くははっ、違いない」
二人はコーヒーを飲みながら笑ってそんな話をしていた。
「そうだ。忘れないうちに大切なことを言っておく」
「ん? なんだ?」
急に真面目な顔になる古森の様子に、何事かと鎌田は身構える。
「最近ドイツが勢いづいているだろ?」
「あぁ、そうだな。オーストリアとなんやかんやあってヨーロッパ中がにらみ合っているって話だ。
まっ、日本も人の事は言えないが……。俺の娘が生まれる前に起こったあの件もこっちで相当騒がれたんじゃないか?」
「満州の事か? その時俺はまだこっちに来ていなかったが、先輩から聞いた話じゃあの時の日本人に対するフランス人印象は……なぁ。
あ、いや。それはいい。その件の話じゃない。
話は戻るが、ドイツが近々フランスと戦争をするかもしれないって話なんだ」
古森は小声で周囲に気を配らせながら鎌田にそう言った。
「えっ? 宣戦布告はもうしているじゃないか」
と、鎌田は自分の記憶ではすでに戦争状態だと思っていたので不思議に思い聞き返す。
「いや。本格的な戦闘が始まるかもしれないんだよ。当然そうなると戦火はどこまで及ぶかわからん」
「おいおい。それって機密情報じゃ……」
いくら親友だからと言って平然と機密情報を教えてくる古森に対し、呆れ顔を見せる鎌田。
「いいから聞け。ほとんど確定情報なようなもんだ。
と言ってもまだ日本人に退避勧告が出るような状況じゃない。
だけど、危ないのは事実だ。お前だけでもさっさと出国して日本に帰れ」
この時、フランスには日本人が百人以上住んでいた。
大使館だけではなく、芸術を学んだり、鎌田のように貿易関係の会社の都合で滞在している者もいたのだ。
当然、結婚等の理由でフランスに永住を決めている者も居た。
「だが、本社から指示がなければ勝手に……」
「言ってる場合じゃないんだよ。まぁ、猶予はまだあるとしてもだ。
本格的に侵攻が始まってからじゃ脱出なんて難しいかもしれないんだぞ?」
「そうは言ってもだなぁ……」
「煮え切らないでいると大変だぞ」
そう忠告してくる親友古森ではあるが、
「わかった。なら、準備をしておく。
だが、帰国はギリギリにしておくよ。
出世間違いなしとされている自慢の友人が情報漏洩を疑われないギリギリを狙ってな」
と、一気にコーヒーを飲み帰り支度をする鎌田。
「馬鹿。俺の事なんか気にしている場合じゃないだろ!?
この前また子供が生まれたんだろ」
「あぁ、男の子だ。名前は源吉。今まで生まれた子供たちと違って一番よく泣く子だよ」
「ならその子のためにも早く帰ってやれ」
「ははっ。はいはい」
鎌田はクスクスと笑いながら帽子をかぶり席を立つ。
「貴重な情報をありがとう。今日の支払いはこちら持ちだ」
「おい。俺は真剣に言っているんだぞ……」
鎌田の態度に腹を立てる古森であったが、そういったやり取りはいつもの事。
むしろ昔から変わらんという事に気づき、怒りが収まる。
「真面目なのはいいことだが、身を滅ぼすほど仕事にのめり込むんじゃないぞ」
その古森の言葉を聞いているかいないのかわからないが、鎌田は手を振りながら店を出て行った。
やがて、世界情勢は悪くなる一方となる。
その暗い雰囲気の中で、日本大使館ではとあるやり取りがされていた。
「は? 私が帰国……ですか?」
「あぁ、古森は3日後帰国の為に船に乗れ」
「そんなっ! 何故です。なぜ今私が帰国せねばならないのです!? 今のドイツとフランスの情勢を見れば――――」
「だからだ! 今お前に死なれたら困るんだ。それにお前だけじゃない。大使館内の何人かも一緒だ」
日本大使館では、古森が上司から帰国の命令を受けることになった。
しかし、それは到底受け入れがたい内容である。
古森は今フランスを離れるなど理解しがたい事だった。
現在の国際情勢の収集は人手がどれだけあっても足らない状態だ。
特に戦渦に巻き込まれると予想されるフランスでの情報収集は必須。更に予測ではヨーロッパは前回の世界大戦並みに混迷を極めると考えられていたからだ。
「それは誰だって一緒ですよね!? 皆かけがえのない存在だ。こう言ってはなんですが、我々は精鋭だと自負しております。だというのに、私達だけおめおめと逃げ帰れと言うのですか?」
「違う! 情報を確実に伝えるため。そして、もし我々が何かしらの事情で全滅した場合この国の事を知っている者が再度駐在員として復帰する為だ!
お前には後続の要員育成も期待されている」
「そんな……そんな事って」
上司の言葉を愕然としながら聞く古森。
確かに納得はできない。だが、これは誰かがやらなければならないこと。
もしかしたら明日にでもドイツが誤って大使館に砲弾をぶち込むかもしれないという恐怖もある。
ならば今後の事を考えるというのも致し方がないのかもしれない。
「俺の事を理解しなくていい。恨んでくれてもいい。だが、日本の為に……この話を素直に受けてはくれまいか」
「……わかり……ました」
上司の説得により力なく頷く古森。
そして、顔を青くした彼は、急いで在留邦人のリストが書かれた書類保管室へと飛び込んだ。
「うわっ! どうしたんですか?」
「すまない。現在フランスに居る日本人のリストを見せてほしい」
「……知り合いでもいるんですか?」
「あぁ。頼む」
「わかりました……」
資料を管理していた職員に話を通し、古森は急いでチェックをする。
幸いこの時代数万人規模で日本人がフランスに旅行などをしているわけではなかったので、資料はすぐに読み終えた。
「――――くそっ。あの馬鹿!」
そして、目的の人物がまだフランス国内に滞在していると知ると、乱暴に机を叩きながら叫んだ。
「……大丈夫ですか?」
「ん、あぁ。すまない……」
次の行動は電話である。
別の場所へと移動した古森は電話を手に取るとダイヤルを回し、目的の商社へと電話をかける。
商社に繋がると、
『はい、こちら――――』
と、日本人の声が聞こえてきた。
「こちら日本大使館の古森と申します。"鎌田"殿はいますか?」
『鎌田ですか? 鎌田は現在――――あぁ、戻ってまいりましたので、少々お待ちください』
しばらく待つと、電話の相手が代わり、
『あぁ、古森か――――』
「お前! あれだけ言ったのにまだ帰ってなかったのか! いったいあれからどれだけ日が経ったと――――」
『あーあー、その件なんだが、すぐに話すことができないか? 場所はそうだないつものカフェで。時間は1時間後でいいか?』
「チッ。わかった」
古森は乱暴に受話器を叩きつけ、息を整える。
近くに居た同僚たちが心配そうに見てくるので、大丈夫だというジェスチャーをしつつその場を後にした。
「やぁ、待ったかい?」
いつものカフェで鎌田が冷めたコーヒーをテーブルに置きながら座っていた。
それを見た古森は、いつも通り声をかける。
「待ったかい? じゃない。いったいどういうつもりだ」
と、睨みながら古森は言うが、「はははっ」と困ったように笑いながら鎌田は古森の正面の席に座る。
すぐに近寄って来た店員にコーヒーを頼むと、古森も冷めたコーヒーを一気飲みし、もう一杯注文する。
店員がテーブルにコーヒーカップを二つ置く頃には、古森の怒りもほんの少し。本当にほんの少しだけ下がり、小声で話すだけの理性を取り戻していた。
「で? 話ってのは言い訳か?」
そう切り出す古森に、鎌田はやはり困ったように笑い、
「あぁ、うん。まぁ、そうなるかもね」
と言って熱いコーヒーを一口飲む。
「実は僕も帰れるようにいろいろと努力したんだよ。営業先との打ち合わせ。在留する日本人同僚との調整。一応これでもそれなりの立場にいるからね。一人だけ真っ先に逃げ帰るわけにもいかなかったんだよ」
そう言われてしまえば、彼がそれなりの地位にいることを思い出す古森。
「そういえば、課長補佐か」
「まぁね。会社からはそれなりに貰っているから、その分働かないとな?」
平社員ならば戦争となれば直ぐに避難可能だろう。
だが、これから戦争になりますなんて言っても上は良しとしない。
だが、上になれば上になるほどいざというとき動けない。
係長と言う上と下のやり取りを繋げるための微妙な立場は古森をフランスに縛り付けていたのだ。
「ある程度の人材は既に帰国させつつある。
後は……俺を含めた課長や支社長達くらいか」
「間に合うのか? 時間はないぞ。なにせ俺も帰国命令を出されたんだからな」
「あとどのくらい時間があるかは君が分からなければ僕もわからないよ。だけど、君が帰国命令を出されたなら、もう時間は無いのだろうね」
「あぁ。そうだろうな……」
やがてコーヒーを飲み切った鎌田が、テーブルに少し大きめの袋を置いた。そこで初めて古森は鎌田がそんな袋を持ち歩いていたことに気づく。それほどまでに彼は視野が狭くなってしまっていたのかと、少し反省した。
「なんだ? それ」
古森は遠慮なくその袋はなんだと質問をする。
「ちょっと荷物になるだろうけど、一足先に帰るお前に荷物を頼みたい」
「荷物?」
「あぁ、俺の妻や子供たちへの土産だ」
そう言って袋から取り出された品物は、どれも見事なものであった。
宝石が付いたネックレス、万年筆、フランス人形、鉄道模型。そして、一封の封筒であった。
「ネックレスは妻に。万年筆は上の息子に。娘には人形、この前生まれた息子には鉄道模型を。お前が帰国する頃には、下の息子も分別つく位だろうからな」
「……そういうのは一家の大黒柱自らが直接渡せ。それじゃぁまるで――――」
まるで最期のプレゼントかのようだと言い切ることができなかった。
「別に俺はあきらめてなんかいない。ただ、帰国する時会社の荷物で溢れかえっていそうでな……。ほら、突然帰国の為に着の身着のまま借りている部屋を飛び出すなんてこともあるかもしれないだろ?
せっかく買った家族への土産が行方不明になるなんて勿体ないじゃないか」
「そう言う事なら……」
しぶしぶ了承する古森だったが、最後に鎌田から差し出された瓶詰のものに興味を示す。
「ほら、これが送料だ。船の中で食べていけ」
「おまえ……。わかったありがたく受け取っておく」
梅干しだった。
古森の好物であるため、感謝しながら受け取ることになる。
「じゃぁ、俺はもう行く。俺の後に絶対に帰るんだぞ?」
「もちろんだ。母国で会おう」
こうして握手をしながら去ろうとしたが、ふと疑問が頭を過る。
今聞かなくてもいい事であるが、どうしても気になったのだ。
「そういえば、頻繁に日本とフランスを結ぶ船なんて来ていないよな?
なんでこうもこいつがこまめに手に入る?」
と、受け取った瓶詰の梅干しを鎌田に見せつけながら質問をすると、
「あぁ、それか? 一度に大量に仕入れて部屋の中に置いてあるんだ。
で、お前に一度に渡すよりも事あるごとに渡せば印象は強くなり、よくなるだろ?」
「やっぱり賄賂目的かよ……」
別れ際にそんな事実を知りたくなかったと呆れる古森。
「いやー。親友とはいえ、大使館職員と継続的に仲良くできるのならばそれに越したことは無いだろう?」
「ちっ。だったら渡した情報はちゃんと活かしてもらいたいものだな」
こうして今度こそ二人は別れ、古森は店を出たのであった。
それから古森は帰国後、すぐに鎌田の故郷である田舎に預かった土産と封筒を送った。
鎌田は出稼ぎで妻子は故郷の田舎に置いてきているという話は前々から聞いていた。
住所は手帳に書いてあったので、難なく遅れた。
古森もその村出身であり、中学卒業まではそこに身を置いていたので村の面々とは顔なじみである。
荷物などを送ると共に古森自身も手紙を書き、彼を最後に見た様子を事細かく書き送り出した。
「何もなければいいのだが……」
そう言った鎌田であったが、彼の願いも空しく、ドイツ軍がフランスへ侵攻。
鎌田の脱出を願う古森であったが、ドイツと日本が同盟を結んだ後でも帰国する様子もなく、後に届いたものは彼がまだ日本がドイツと同盟を結ぶ前の脱出時に攻撃に巻き込まれ死亡したという訃報だった。
※フランスでのトメの父である鎌田と古森のやりとりは、古森が帰りの船の中で愚痴のように一緒に乗り込んだ同僚に話していたのを聞いていたためカリーヌは覚えていました。
※少し調べましたが歴史的に辻褄が合うかわかりません。間違っていたらすみません。