55章 浮上開始
ギィィィィッッッ……。
重い扉を押し開け、僕は百年の時を経てようやく帰還した。呪われた『蛇達』の巣へと。
常にねっとりした湿り気を帯びる、ひんやりと冷たい空気。だが、現在進行形で極寒のクオル王国に比べれば何でもない。漂う潮の香りも、こう澱んでさえいなければ懐かしい限りなのだが。
「あら、まだ動けたの?」「そんなに慌てなくても、こっちから迎えに行ってやったのに」
半透明の爬虫類が無数に絡み合う、体長三メートル以上の二匹の巨蛇。頭の代わりに人の裸の上半身を接合した一対は、しぶとい獲物の登場にけたたましく嗤った。
そして―――怪物達の奥。一メートル程爪先を浮かされた彼が、頑丈な鉄鎖で折れそうな手首を囚われていた。現世と同じ黒服を纏った彼は気を失っているのか、長い睫毛を伸ばした瞼は閉じられている。
「全部思い出してくれたんでしょう、私達の事?」
「なら流石に分かるよな。兄貴の居場所はここにしか無いってさ」
ずるずるずる……粘着質な音を立て、二人がこちらへ這い寄ってくる。
「ここが魂の最奥。どんなに足掻いても現世へは帰れないぞ」
「さあ、もっと良く顔を見せて」
優しいサンチャ姉さんに、同性から見ても格好良い弟のイエリ。大好きな二人の変貌振りに、未だショックは抑え切れない。その責の一端が僕にある事も。だけど、
「―――御免、でも帰るよ。その人を連れ戻すために、僕はここまでずっと潜って来たんだから」
槍を構え、姿勢を低く突進する。呆気に取られた雌雄の横を通り、穂先を痛々しい束縛へ垂直に突き立てた。
ガッ!バキッィンッ!!「ぅ………」
戒めを解かれ、重力に従う細身を左腕一本で支える。至近距離で見るあの人、いや―――小晶 誠さんは、夢の中でも凄く綺麗だった。
「立てますか?」
こくん。幼子のように頷く想い人に胸を熱くしつつ、自分の半分の太さしかない手首を取った。
「大丈夫そうですね。じゃあ、逃げますよ!!」
右腕のみで槍を持ちつつ、僕は転進して開いた扉へ駆け出す。勿論捕らえていた希望を奪還され、『蛇達』も黙ってはいない。
「「待てぇっ!!」」「っ!?」
先に追い付いて来たのは、矢張り体力のある『雄蛇』だった……そうだ、今思い出した。以前もこうやって、夢の世界で二人に散々追い回されたんだ。尤もあの時は、何故か知り合いのラフ・コリーの姿だったけれど。
「闇へ去れ、怪物共!そして二度とこの人に危害を加えるな!!」ザシュッ!
目の前を塞ぐ腕を一閃。切断された肘から先が半透明な蛇に変わり、数瞬で海水となって床に零れ落ちた。
「って!そんなに嫌がらなくてもいいだろ?姉弟三人、ずっと仲良くやってきたじゃないか」
「仲良く?冗談じゃない。本当に僕を思い遣っていると言うなら、何故大切な人達を次々と殺めた!?どうして『蛇』なんて飲ませたんだ、答えろ!!」
「我儘言わないで、クアス。さ、おいたは止めてこちらへ来なさい。今度こそ上手くやりましょう」
そう言い終えた姉は、徐に魔術の詠唱を始める。拙い!僕は素早く急ブレーキを掛け、小晶さんを先行させて庇う。
「行け、フレイム!」ゴオッ!!「っ!!」
吐き出された火炎を、槍の高速回転で以って弾く。持ち手が些か熱くなったが、まだ全然耐えられる温度だ。
「それだけじゃない。お前達は刑務官さんや女王様、無関係なプルーブルーの人達まで傷付けた―――もう姉弟でも何でもない。どけ!邪魔するなら全力で排除する!!」
あっはははは!!一対の哄笑がホールに響き渡った。
「何がおかしい?」
「俺達と戦うだって?優しい優しい兄貴が、冗談だろ?」
「そんな偶像は後生大事に守って、あなたを想い続ける私達は消すの?ああ、可笑しい!」
『妄執』は僕の気を引こうと、交互に囁きかけてくる。
「酷いなあ。一度死んだぐらいで、俺達の事を綺麗サッパリ忘れようとしている。そのくせその子だけは大事とか、不公平極まりないぜ」
「どうしてそこまで守ろうとするの?可愛いから?従順だから?でも、そいつは単なるあなたの記憶なのよ。私達とは違う、意志の無いただの人形。幾ら必死になった所で、何も返してやくれない」
「―――そんな事無い」
現実の彼は、今でもこんな僕を覚えていてくれた。それに仮令虚構であろうと、この背に庇う者が闇に立ち向かう勇気を与えてくれる事実に変わりは無いのだ。
怯えて震える冷たい手を一度放し、再び掴み直す。
「ぁ………」
「遅過ぎますけれど、帰ったらきちんと謝らせて下さい」
その言葉に応えるかのように、白磁の首が微かに横へと振れた。
「っ!?」
彼が空いた手を自身の胸の前へ当てると、繋いだ指から無形の淡い光が流れ込んできた。『蛇達』が嫌がっていた例の力だ。
全身を包む温かさと共に、精神の奥底から不思議な高揚感が沸き起こる。あんな怪物達など恐るに足りない、そう強い自信に満ち満ちて。
「これは、一体……!?」
未経験の変化に問うも、彼は小首を傾げるだけだ。―――そうだ。そんな事は、現実に帰ってから幾らでも訊けばいい。
「ありがとうございます。―――では行きます、龍閃衝!!」
衛兵時代に先輩から習い、長く忘れていた奥義を『雌蛇』へと繰り出す。横一直線の真空波に、裸の肩から上が切断された。仰け反った隙に扉の外へ出、階段目指して疾走。
「折角たっぷり可愛がってあげようと思ったのに、小賢しい真似を!いいわ、本気を出してあげる!!」
気炎を上げる姉に対し、並走する弟はケラケラ嗤った。
「ただ獲物を追い掛けるのもつまらねえなあ。なあ姉貴、先に捕まえた方がしばらく好き勝手出来るってのはどうだ?その方が燃えるだろ」
「賛成。あんたにしては良いアイデアだわ」
「伊達に姉貴の輪廻転生してないからな。―――さあ、狩りの始まりだ!!」
その宣言を合図に、左右へ展開した『腐水の御蛇』は本格的に追跡を開始した。




