30章 決壊
最悪の不快感も、街の入口である門を潜る頃には大分良くなっていた。記憶に近い風景と、懐かしい潮風が出迎えてくれたお陰だ。
元職場にいた見知らぬ衛兵に会釈し、メインストリートを進み始める。
「折角ここまで来たんだし、先にバーモン氏に面会しとく?余裕ある内の方がいいでしょ」
傷害容疑で捕縛された保護者は、現在この街の頂上。丘の上に建つ元職場、プルーブルー刑務所に拘留されていた。そう。皮肉にも、かつての僕の家が建っていた場所に……。
「良いアイデアです。行きましょう」
元妻のリリアさんは度々訪れているようだが、僕は事件以来会うのは初めてだ。元気にしているだろうか?
「ところで、行く当てはあるの?」
緩やかな上り坂を行きながら、女王陛下が尋ねる。
「取り敢えず、図書館で『蛇』や人魚の伝承について調べてみましょう。封印するにしても、まずは遺跡の場所を特定しないと」
マリアと会えれば話は簡単なのだが、あの過去が果たして何年前か分からない以上、まずは自力で探すしかない。
「面会が終わったら昼食にしましょう。今朝は早かったですし」
船内販売のクリームパンとコーヒーを口にしたきりで、そろそろまた腹が鳴りそうな気配だ。レストランに行けば、クオルには無い新鮮で美味しい冬魚が食べられるだろう。
「賛成。私、久し振りに海鮮丼が食べたい」
「ええ、いいですよ。今日は僕の奢りです。何でも好きな物を頼んで下さい、ボビーも」
「くーん♥」
口の端から涎を出して喜ぶ飼い犬に、今日だけだからね、女主人の注意が飛んだ。
中腹まで来た所で振り返り、記憶とほぼ同じに広がる街と海を見下ろした。
「今日みたいに曇っていなければ、水平線までくっきり見渡せるんですけどね」
「ふーん」
毎日飽く事無く眺めていた景色。なのに何故、僕は大好きなこの街を忘れてしまったのだろう……?
ふと、視界の端に黒い物が映る。無意識に眼球が動き『それ』を認識した瞬間、正反対の思考が同時に働いて強い眩暈を起こした。
幻覚だ、あの人がここにいる筈が無い!
いいや、現実だ!今映ったあの人は、きちんと質量と影を持っていた!!そして、
―――見つけた!相変わらず運の悪い奴ね!!
―――さあ、今度こそあの心臓を抉り出せ!そして永遠を手に入れるんだ!!
今までに無い必死な『蛇達』の大号令に、僕は思わず両耳を塞いでその場に蹲った。
「っ!?―――さん!!?しっかりして下さい!!」「ああ、―――!急にどうしたの!?」
嵐のような暴言に耐える僕の目の前に、夢と服装だけが違う彼が跪く。隣には二十程年齢を重ねたマリアと―――血を分けた、実の父親がいた。
「ラベルグ、伯父さん……!」
「ああ。また『妄執』共が何か言っているんだな?大丈夫だ。意識を保つ限り、奴等は手出し」
―――早くこいつ等を殺せ!!
―――罪深きお前に、最早救いなど無い!私達と堕ちる以外はな!!
僕の意志に反し、両掌がゆっくりと耳を外れていく。
両腕の痙攣が止まらない。見慣れた十本の指が、今にも細く白い首をへし折り、肋の奥深く目掛け閃かんとしていた。
「わあああぁぁっっっ!!!!」
絶叫。恥も外聞も捨て、僕は蘇った父と主へ助けを求めた。
「早く、早く僕を殺して伯父さん!女王様!!『蛇達』が取り返しの付かない事をする前に、急いで!!!」
歪む視界に映る、鋭く先端の研がれた槍。普段は別空間に仕舞われている少女の舞剣も、今の無抵抗な自分の息の根を止めるには充分だ。
「いけません!あなたを『また』殺すなんて、出来る訳が……!!」
「とにかく落ち着くのよ。家に戻って―――きゃっ!?」
「っ!?」
一瞬の隙を付いて操られた左手の爪が、伸ばした実父の手の甲を切り裂く。赤い血を滲ませながら、彼は苦痛に眉を顰めた。
「俺は平気だ。これぐらい何でもない」
刑務官さんと全く同じ台詞を言い、その後ぎこちなくはにかむ。
「ラベルグさん、私が診てみます」
「済まん。頼むぞ坊主」
下がった彼の手を叔母が取り、魔術を使って傷を癒すのが見えた。代わりに傍に座った彼が、低体温の手で僕の手首を掴む。
「まずはゆっくり深呼吸して、氣を落ち着けましょう……大丈夫です。症状の一時的な悪化は、治療が上手くいっている証拠ですから」
陽光のような温かさが指を伝わり、体内へ入って来る。ところが、
―――止めろ!!
―――俺達にその忌々しい力を使うな、異教徒め!死ね!!
激しい拒絶反応を起こした雌雄の『蛇』は、聞く者の精神をズタズタにするような雄叫びを上げた。
「っあっ、駄目です……は、早く逃げて下さい……!僕がまだ、こいつ等を抑えていられる内に……!!」
彼の後ろでは、女王陛下が静かに事の趨勢を見守っていた。
きっと彼女には全てお見通しなのだ。僕の抱える苦しさも、与えられている痛みも、そして―――これからどうなってしまうのかさえも。
「そんな事、出来る訳ありません!私はあの時、あなたを救えなかった……だから……」
瞬時に走る、細胞が凍ったのかと思うぐらい酷い悪寒。まるで変温動物である『蛇』、その冷たい体内へ放り込まれたかのような感覚に、全身が激しく身震う。
そして驚いた彼の手が離れ、再び差し伸べられた時、
―――今だ!!殺せ!!!「うわああああっっっっっ!!!!」
怪物と僕の意志が運動神経の上で激しくぶつかり合い、一瞬だけ争いに勝利した。自由を得た両手を全身全霊で引き戻し、そして、
ブシュッ!!「ぐっ!!」「きゃああぁっっっ!!」
胸から飛び散った血が顎に掛かる、熱い濡れた感触。突き刺さった指の何本かが、皮膚を裂いて直に触れる肋骨の硬さと脆さを伝えた。
「あ、あ……!!」
ショックで崩れ落ちるマリアを支えた伯父もまた、信じられないと言った表情でこちらを凝視。当然ながら冷静なのは、『万里眼』を持つ女王のみ。その事に、少しだけ安堵する自分がいた。
「よ、かった……僕、今度はあなたをちゃんと、守れたんですよね……?」
ああ、お願いですから泣かないで……僕は最後の最後になって、やっと奴等に打ち勝ったのだから……。
「ええ、ええ!だから喋らないで下さい!出血は多いけれど、幸い肺や心臓には達していません。急いで傷を塞いで、一緒に病院へ行きましょう!!」
倒れた僕の傍へ膝を着き、硬直した血塗れの両手を自身のそれで包み込む。
「こんな事になるなら……エルに止められても、もっと早く会いに行けば良かった……!!」
ぱたっ、ぱたっ。冬にも関わらず、頬に当たる液体は何時までも温かいままで。
「どうか、僕なんかのために泣かないで―――がはっ!」
喀血。どうやら胃を損傷していたらしい。
瞼が急速に重くなっていくと同時に、身体全体を背後へ引っ張られるような感覚が襲う。そうか……僕は『蛇達』のテリトリーへ、死の世界へ連れて行かれているんだ。奴等の望み通りに……。
―――さあ、おいで。私達と永遠を共にしましょう。
―――『あれ』を手に入れられなかったのは残念だが、もう誰にも俺達の邪魔は出来ない。
ボチャン。引き摺り込まれるまま、底の見えない昏き水中に堕ちる。
ああ、そうだ。僕はこの水こそが怖かったんだ。せっかく這い出して、光溢れる世界へ戻って来られたのに……でも、
―――もう二度と逃がさない。
仮令一時でも言葉を交わせた、あの人を思えば……水底に沈む恐ろしき真実を見せ付けられる事に、不思議と恐怖を感じなかった。




