兄妹の会話
「高田はどうだって?」
俺はロビーにいた妹に声をかける。
「若宮先輩の話では湯あたりしちゃったんだって」
そう言って困ったように妹は笑った。
「露天風呂から運ぶ時は、笹ヶ谷先輩がいたから大丈夫だったみたいだよ。細いように見えて力持ちなんだね」
「風呂から?」
その言葉で、俺はなんとなく面白くない気分になる。
「着替え自体は若宮先輩がさせてるから、問題ないでしょ。それに、もし、何かあっても他人よりは彼氏の方が女性側としても気分的に安心だと思うよ、おに~さま?」
呆れたように言う妹。
いつの間にか、そこらにいる女みたいな反応をするようになったものだな。
これが成長というものか?
「大体、既に振られた男は素直に退場したら? みっともないよ?」
「ぐっ! な、なんでそれを……?」
妹の冷ややかな言葉と視線に俺の心は大打撃を受けた。
心臓が痛い。
「せめてどっちかに絞れば良いのに。それが見え見え透け透けだから、若宮先輩だって嫌がるし、高田先輩だってお断りするよ。ついでに私がその立場でも嫌だって言う」
妹が言葉で殺しに来る。
勘弁してくれ。
「あまり責めてくれるなよ。俺だって堪えてるんだ」
「少しぐらい反省すれば良いのよ、おに~さまは。あれでうまくいくと思っているのが、女をなめすぎだわ」
「俺だって言いたくて口にしたわけじゃねえ!」
どちらかと言うと、言わされたのだ。
こんな所で勝算もなしに告げる気なんて本当になかったのに。
「大体、彼氏持ちに手を出そうというのが間違いなの。どんな根拠があって、あの笹ヶ谷先輩に勝てると思うのよ?」
「……お前はとどめを刺しに来たのか?」
俺だって、競う相手が悪いことぐらい分かっている。
「せっかくの良い機会だから。五寸釘ぐらい刺しておこうと思って」
「も、もう少し細めでお願いします」
こんなことで妹に頭を下げることになるとは思わなかった。
俺がそう言うと、妹は両手を腰に当てて満足そうに笑った。
本当に、言うつもりはなかったんだ。
仮に言ったとしても、軽いノリでさらりと流せるようにしようと思っていた。
でも、あの日、バッティングセンターにいた高田が、「笹ヶ谷先輩」と楽しそうに笑っていたことに苛立ったのは事実だった。
さらに、「笹さん」を彼氏だと、駅で照れくさそうに紹介された時は、本当に叫びだしたかったのだ。
我がなら狭量とは思う。
それでも、本気で悔しかったのだ。
これは単に独占欲に近いものだと思う。
高田の周りに、それだけそんな対象がいなくて安心していたのに、突然現れた男に掻っ攫われたのだ。
迷っていた自分が悪いのは承知だが、それでも、この湧き上がってくる黒い感情にどう始末をつければ良いのか。
「今更、悩んだって仕方ないじゃない。実際、高田先輩は、既に笹ヶ谷先輩を選んだんだから」
「笹さんじゃなければ、もっとすっきりしたんだよ」
笹さんの本命は別にいる。
一番があの元彼女ってわけではないだろうけれど、高田はせいぜい、二番目か三番目ぐらいの扱いだ。
そして、それを高田自身も承知しているみたいだから余計に腹が立つ。
「笹ヶ谷先輩ほどかっこよければ仕方ないんじゃない? 先輩に彼女ができたって話を聞いた時、私のクラスにいた子、本気で泣いちゃったぐらいだから」
「……兄の方じゃなく?」
あの笹さんが人気があるのは知っていたけど、どちらかと言えば同性にモテるタイプだ。
だから、知らない女を泣かせてしまうほどだとは知らなかった。
「笹ヶ谷先輩のお兄さんについてはあまりよく知らないな~。私が入学するのと入れ替わりだったみたいだから」
妹が首をかしげながらそう言う。
確かに学年が3つ違うからそうなるか。
「でも、笹ヶ谷先輩は十分、格好いいでしょ? 顔良いし、性格良いし、優しい。それに高田先輩……、自分の彼女に対してあれだけ尽くしてくれる男なんてそういないよ? あれは初めて見た。卒業前にあの面を出していけばもっと人気出たのに。いや~、良いもの見たわ~」
そうやって、妹が頬を染める。
色恋沙汰に興味を示すとは色気づいたものだな。
そう言えば、気付けばそろそろそんな年頃だったか。
「笹さんが良い男なのは認める。俺も好きだから」
「あら、素直ね、おに~さま」
だから、余計に悔しいのだろう。
「ま、それでも、隙は大きそうだから気長に行くか」
「……? おに~さまは……、若宮先輩の方じゃなかったの?」
「それはそれ。これはこれ。二兎追っても手に入らないだろうから、確率が高い方を狙うほうが良いだろ?」
「……最低」
呆れたように妹がそう言った。
「自覚はある。なんとでも言うが良い」
「高田先輩も若宮先輩も、厄介な人間に目を付けられたものだわ。ちょっと他人事ながら同情しちゃう」
自分の考え方が、一般からずれている自覚はある。
だが、男の欲望と浪漫の結晶、ハーレムを造りたいとか願っているわけじゃないのだ。
二人ぐらいまでならそこまで嫌悪の対象になるとも思えない。
いずれにしても、二人同時に手に入るわけがないのだ。
それに願っても手に入る存在じゃないから、手を伸ばしたいだけ。
少しでも、足掻きたいだけなのだ。
それと同時に、振られた時に知ったこともある。
自覚のなかった部分。
彼女の強さは知っているつもりだったのに、まだまだ知らない面を見せつけられた。
「良いんだよ、俺はこれで」
一途な想いしか武器にならない男でいたくはない。
「それにすっげ~良いものももらった。これがあれば、大丈夫だ」
「? 何もないけど?」
何もない両手のひらを見つめる俺に、怪訝な表情を見せる妹。
誰にも見えない、俺にしか見えないもの。
それはやがて、いつか薄れて消えてしまう程度のものだったかもしれないけれど、それでも確かにあの瞬間、ここにあったもの。
俺は初めて自分の意思で誰かをこの手で抱きしめたのだ。
無理矢理でも、与えられたものでもなく、自分だけの力で手にしたもの。
そのことに対して、気持ち悪いとか夢見がちだと思われても良い。
それでも、あの瞬間があったからこそ、これから先もなんとか頑張れる気がするのだ。
「なんか、自己陶酔の顔してるわよ、おに~さま」
「うるさい」
少しぐらい酔わせてくれ。
それほど俺が嬉しかったことなのだ。
ただ、あちらからは手を回してくれなかったのは少しだけ寂しくはあったが、そこは仕方がないだろう。
彼女は俺の気持ちを受け止めてくれただけで、受け入れてくれたわけではないのだから。
「ところで、さっきから気になっていたんだが、なんでさっきから『おに~さま』なんだ?」
これまでそんな風に妹から呼ばれた覚えはなかった。
「おに~ちゃん、って歳でもないでしょう?もう、私も15歳が間近なのだから、そろそろけじめをつけろって、おと~さまが言うの」
「あのクソ親父が言うのはそう言った意味じゃないと思うんだが……」
最近、親父が、俺たち兄妹が共に行動することを嫌がるようになってきた。
「けじめ」とは、つまりそう言った意味だろう。
「母親違いの私を育ててくれた恩はあるのだけど、やはりあの人のこと、好きになれないのよね」
似てない兄妹と言われることにももう慣れた。
母親が違うのだから、似てないのは仕方がないのだ。
そもそも同じ母親から三ヶ月違いで生まれるはずもない。
俺は今月生まれで、妹はもうすぐだ。
それも、親父がクソである証明にしかならないけどな。
「好きにならなくても良い。あんなヤツ」
寧ろ、妹だけはアイツから逃げて欲しい。
俺は多分、逃げられないから。
「高田先輩みたいに白馬の王子様でも現れないかしらね? そうしたら、救われるかもしれないのに」
「高田の彼氏は白馬の王子じゃねえよ」
「あら、悋気?」
「そんなんでもねえ」
本当にそんなんではない。
単にイメージの話だ。
「笹さんはどう見たって王子様でも、当然ながら騎士様でもない。あの人は……、泥臭いまでに愚直なただの男だよ」
俺はそう言って肩を竦めたのだった。
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