崖っぷち温泉
賑やかな朝食に反して、夕食については何事もなく無事に終わり、今日こそはと、露天風呂にワカと向かうことにする。
同じ部屋にいた望さんは、残念ながら少し気分が悪いそうで、このまま休みたいということだった。
彼女の顔面は蒼白で、本当に辛そうに見えた。
付き合えなくてごめんなさいと口にされたが、これは彼女が悪いわけではない。
本音を言えば、昨日の温泉と同じように案内をしてほしかったけど、具合が悪いなら仕方がないと思う。
ゆっくり休んで無理なく一緒に帰りたいよね……。
わたしは素直にそう思った。
少し話しただけだけど、わたしは彼女のことを嫌いじゃない。
来島の妹だからかな?
さて、今日は来た時と異なって露天風呂である。
それはやや奥の隠れたところにあり、周囲に明かりも少ない。
木々が生い茂り、静かなこともあって必要以上に暗く見える。雰囲気重視のためだろうけど、これでは怖がりな人にはかなり辛いかもしれない。
因みに旅館や男風呂からも大分離れていると言うことだった。
その点に関してはありがたい。
「でも……、『危ないからこの先立ち入り禁止』って札が傍にあるのってどうよ?」
ワカが指差す方向を見ると、そこには確かにそんな看板があった。
しかも、木製の板に手書きの文字。
手作り感、満載だった。
「崖っぷちだね」
わたしも少し覗き込んで確認する。
下はよく見えないけれど、温泉のお湯とは別に何かが流れているような音が聞こえた。
「落ちたら川? この音はそんな感じだけど……」
「景色は良さそうだけどね……」
「絶景ポイントならぬ絶叫ポイントじゃない。それに……、肝心の景色は暗くてよく見えないし」
そこは夜だから仕方ない。
「でもお求めの天然石だよ?」
「それだけが救いだわ。ここまでタイルで造られていたらへこむとこよ」
女同士でも、流石に露天風呂なのでそれなりの対策はしていたりする。
分厚いタオルをしっかり巻き付けて、お湯に浸かった。
お湯の温度も丁度良く、気持ちが良かった。
芯から温まり、ワカもわたしも心と身体が癒されていたのだ。
念願叶っての温泉に、わたしたちは声も出ない。
ただゆっくりと心が和んで、うっかりと眠くなりそうなほどに心地良かった。
―――― しかし、現実ってやつはホントウに残酷だったのだ。
最初に聞こえたのは声だった。
『くつろいでいるところ悪いな』
その声の冷たさにゾッとする。
温泉だと言うのにその声は周囲に響くこともなく、確実にわたしを射抜いた。
それは聞き覚えのある声だったから。
そして……、ここで聞こえるはずの無かった声でもあった。
何より、わたしにとっては一番聞きたくなかった声とも言えた。
「誰!? 」
ワカが当然の反応をする。
女湯に男の声がどこからともなく響いたのだ。
普通の神経なら驚かないはずがない。
だけど、わたしは、別の意味で驚いていた。
温泉の熱も手伝って、先ほどから汗が止まらない。
『お前に姿を見せる道理はない』
その声は淡々と答える。
「覗き?」
ワカが一番、確率の高そうな回答を口にしてみる。
『そんな育ってもいない身体で興奮できんな』
「……でも、やってることは覗きよね~?」
ワカが同意を求めるが、わたしはそれどころじゃなかった。
本来なら止めなきゃいけないのに、何故か言葉が出てこない。
分かっている。
この声が聞こえてきたってことは、普通じゃないってことぐらいは。
このまま、何事もなく平和的に終わってくれるとは思っていないのだ。
『ほう。今回はそれなりに分かっているようだな』
その声は感心したように言った。
『じゃあ、俺がこれから行おうとすることも予測は出来ていただろう?』
姿が見えないまま声がそう言うと、いつものように黒い炎が宙に現れた。
そして……。
「え……?」
そして、わたしにはいつものように考える間など与えられなかった。
現れたと同時にその炎は、叫ぶ間もなくワカを包み込んでしまったのだから。
何が起きたかも理解できない。
ただ、目の前に黒い炎があるだけ。
さっきまでその場所にいた友人の姿も声もない。
彼女は先ほどまでそこにいて。
わたしとずっと会話だってしていたのだ。
それなのに、それなのに?
何が起きたか、分からない。
わたしは、今、目の前で起きたことを認めたくなかった。
現実として認めるわけにはいかなかった。認めてしまえば、考えるしか無くなるじゃないか。
これは、わたしが引き起こしたことだって。
いつまでもぐずぐずして、結論を先延ばしにした挙げ句、卒業旅行だなんて自分の都合のいいことしか考えてなかったことを。
少しでも、わたしはここにいたかったからという自分勝手な感情で。
自分の中で渦巻くような「なんで? 」の嵐。
自分の中にここまで激しい感情があったことを知らなかった。
繰り返されていく「なんで?」の言葉。
ただそれだけが、わたしをゆっくりと支配していく。
もうその言葉以外考えられないぐらいに。
じわりじわりと確実に、わたしの中で激しくシンショクしていく。
さっきまでいつものワカの姿があったのに、なんでなくなった?
なんでワカはいなくなった?
なんで? どうして? 何故? どうして? なんで?
ただ、それだけの単純な言葉しかなかった。
血や酸素のように全身を駆け巡る、強く猛烈な感情。
『これだけの衝撃に勝るものはないだろう』
どこかから再び声が聞こえてきた。
その言葉に少しだけ、意識が戻される。
―――― ああ、そうか。
わたしの大事な友人は、この声が消したのだ。
わたしと関わったばかりに巻き込まれた少女。
それは今のわたしにだって理解はできる。
どこかで聞いたことがあるこの声が全て悪いって。
『随分と手こずらせてくれたものだな』
うるさい、少し黙って。
その声は妙に頭に響いて腹が立つ。
わたしのことなんかもっとずっと放っておいて。
今までずっと構わなかったのに、なんで今さら関わろうとするの?
『ああ、今日はナイトを呼ばないのか?』
その声が何のことを言ってるか、何を意味しているのかも分からない。
分かるのは、わたしの中で逆巻く激しい感情の渦。
それが怒涛のように起こり、内側から食い破るように爆ぜようとする。
それを懸命に押し止めようする何かがある気がしたが、思考が泡立ってよくまとまらない。
さらに、何故か左手首からドス黒い感情が勢いよく流れ込んできて、わたしの思考が正常ではいられなくなっていく。
『さあ、変化しろ。この前のように』
聞こえてくるその言葉に、反省も謝罪の色はなかった。
ただそこに見えるのは歓喜の感情。
それがわたしを余計に苛立たせていく。
闇色の感情がわたしに近付いてくるのが目に見えなくても感じられた。
―――― ああ、そうだね。
そんなに簡単に無関係な人を消してしまうのなら、あなた自身も簡単に消される覚悟もしていることでしょう?
なんでそんな結論になったのかは分からない。
でも、流れていく竜巻のような感覚は、もう止められそうになかった。
せっかく今まで我慢してきたのに、これでおしまい。
ワタシの覚悟なんて小さなものは、昔から簡単に消されてしまうものなのだ。
押さえつけていても良いことなんて何もない。
結局こんな風に見つかって、そして、連れ戻されるんだ。
『そうすれば、我は…………』
聞こえてくる声の種類が変わった気がする。
でも、もう無理だ。
これを人間の力で止められるものか。
「――――っ!!」
自分でも何を言ったかが分からない。
『――――っ!!』
そして、それに対して、相手がどう答えたのかも分からない。
ただ分かるのは…………、分かるのは――――?
―――― ああ、良かった。
アレは「あなた」じゃなかったんだね。
何故か、そんな不思議な感情だった。
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