新たなる命とその危険
救世暦3988年3月13 日
少し肌寒い空気に時折暖かい風が吹くようなそんな日。
いつものようにツムギ達が過ごしていた朝だった。
食事を終えた後にエリスがお腹を抑えた。
「……う」
「ど、どうしたんだ、エリス!」
椅子から立ち上がろうとしたところを突然、痛みは襲った。
痛みに思わず椅子に座った。
レイドはエリスの様子に怯んで、いつもツムギの前では意識して「お母さん」とエリスを読んでいたが、今回はそんな余裕はなかった。
エリスはかなりお腹が膨らみ、いつ産まれてもおかしくない『臨月』だからだ。
「だだだ、大丈夫かっ!」
「うっ……今は揺らさないで……」
「お、落ち着いて下さい!」
レイドはエリスの肩を持って軽く揺らした。
それを見て落ち着くようにツムギは言ったが、今のレイドはパニックになっていて聞く耳を持たない。
「な、何か欲しいものあるかっ、ほら、水とか! ちょっと今持ってくるから座ってな」
特別水は欲しくないがあまりのレイドの勢いに押されたエリスは、眉を寄せながらコクコクっと頷いた。
ーーガシャン、とコップの割れる音
「うわぁッ! コップが!」
シューーー……、と水を注ぐ音
「すぐに持っていくからな!」
ーードタドタドタッ!! バタッッ!! パシャッ!! と急いで転び水を溢す音
「うああああーーー!!! 急ぎ過ぎて転んだーーーっっっ!」
「あのッ! ほんとに落ち着いて下さいッ!!!」
「ハイィィッッ!!」
この世界に来てから一度も声を荒げたことのないツムギが、このとき初めて声を荒げた。
ツムギの大声にレイドは勢いのまま返事をした。
「とりあえず痛みが一時的に収まったら、寝室に連れていきましょう!」
陣痛は痛みに波があるもの。そのくらいは知っているので、そう提案する。
「それから水は僕が持っていきます! それからレイ……夫はこういうとき妻の手でも握って、少しでも安心させるものです!」
「っ! ああ!」
ツムギの叱責が滅法効いたのか、レイドは表情を引き締めた。
▽
痛みが一時的に収まったエリスを寝室に連れて、レイドはエリスをベッドにゆっくり下ろす。
ツムギは水を汲んで来てエリスに渡した。
「つ、次はどうすればいい!?」
「とりあえず落ち着いてお父さん。アルドーに指示を仰ぐのはどう考えても、お母さんおかしいと思うわ」
エリスは意外と落ち着いているらしい。
子供に指示を任せることはおかしいことだ、と指摘した。
子供ができるのは初めてのことだが、エリスよりレイドの方が慌てふためいていた。
「はい。僕も妊娠のことなんてよく分からないので、まずはフィリスさんを呼びましょう。僕は家の場所を知らないので、呼んできて貰えますか?」
自分がいるため産婆なんかは呼べないのでツムギはそう提案した。
「……アルドーに指示を仰ぐのはおかしいといったけれど、そんなこともなさそうだわ……! お父さんはアルドーの指示を聞いた方がいいかもしれないわね……!」
「……ああ! それなら猛ダッシュで呼んでくる」
子供より役に立たない俺って……。レイドは情けない表情をしそうになったが、今は落ち込んでいる暇はない、と玄関に向けて早歩きした。
玄関を抜けたレイドは、魔力を体に纏いながらフィリスのいるネールの家まで走った。
▽
「エリスさん、きたわ!」
「ごめんなさい、急に呼んでしまって……」
「いいっていいって、こういうときは助け合いよ!」
レイドはフィリスを呼んできた。
ネールは仕事が入ったようで居なかったが、フィリスとリーネはいた。
大体の状況をレイドが伝えたら、フィリスはすぐに来てくれた。
リーネは学習塾が終わってからくるそうだ。
当初、災厄を齎すといわれている黒髪黒眼の少年を匿っているレイド達の家に、行き来なんかしたらリーン村で生活ーー仕事が出来なくなるかもと危惧していたネール。しかし、そうはならなかった。
魔道具職人なんてこの村にはネール以外いないかったので、ネールの需要が高かったのだ。
もちろん、魔道具は自分で直せたりもするのだが、専用の液体が必要でそれに必要な魔石がこの村では採れない。
魔石は魔物が持っているのだが、この村付近はそういった存在がいないのだ。
それはともかく。
フィリスは弟と妹が合わせて10人いた大家族だそうで、6人目の出産から手伝っていたらしい。
なので、ある程度の知識を持っている。
「何か必要なものはありませんか?」
「飲み水や片手で食べられるようなたべもの。パンあたりでいいわよ! それと、赤ちゃんを取り出すときに使う綺麗な布や、細くて丈夫な糸、へその緒を切るための刃物なんかも欲しいわ! あと布は汗を拭くためにも多く用意してくれる?」
「はい」
「産湯は後でいいわ」
ツムギはレイドの裾を引き、「一緒に用意のしましょう?」といった。
その後、承諾したレイドとともに清潔な布や糸、刃物は熱湯で消毒をし、用意し終えた。
「そ、それで、いつ頃産まれるのか分かるか?」
「あらー、そんなにすぐには産まれないわ。初めての妊娠だと特にね」
「そうなのか……!」
初めての妊娠は特に大変。
知らない事をレイドはひとつ知った。
▽
時間はどんどん経過し、リーネは学習塾が終わったようで、出産を人知れず迎えるレイド達の家に来た。
エリスも陣痛は辛いが、だんだんと範囲が拡がる強くなる痛みと、短くなる痛みの間隔に確かな生命の鼓動を感じている。
「赤ちゃんもう少しで産まれるの、ママ?」
「人によって時間が変わるけど、エリスさんはまだかかりそうだわー」
「そうなんだ。産まれるの楽しみだね、アルちゃん」
「はい……」
経過は順調。
段々と赤ん坊との対面の時は刻一刻と近付いていた。
ーーどうして家に誰もいないんだッ!?
そう。
仕事から家に戻った、何も知らないネール以外は。
▽
遠くの太陽のある空は茜色。
日が沈む。
闇を引き連れて夜は来る。
家の中も暗くなって来ているので、ランプの魔道具に明かりを灯す。
魔力を陣に込めると明かりが付き、止めるときは再び魔力を込める。
この魔道具は安物なので、セット出来るのはONとOFだけで明かりを調節する機能がない。
一つでは光が心許なく感じたので、幾つか持ってきて灯す。
昼間のようにとは思わないが、寝室は灯りで満ちていた。
「うぅぅうううぅうううぁッッ!!! ハァ……ハァ……ううっ! あああぁぁあぁッッ!!!」
「エリス! 大丈夫か!」
「頑張ってください!」
妻の手を握り心配するレイドと、励ますリーネ。
妊娠するのは鼻からスイカを出すような痛みと、日本ではいっていた。けれど、これは本当に妊娠による痛みだけなのか。
汗を滝のように流れて、張り上げる声は大きく数日間は普通に話せなくなりそうな程だ。その表情を見れば苦しげに歪んでいる。
エリスの状態に疑問を抱いたツムギは、フィリスを窺い見る。
「……こ……これはもしかして……」
唖然。
フィリスは声を震わせていた。
この状態は異常なのか、エリスは大丈夫なのか。
「……何か、問題があるのですか?」
ツムギが聞くと、手を握ったままのレイドとリーネの注目もフィリスに集まった。
フィリスは冷や汗を流し、思い出すように告げた。
「【魔力暴走】……ってあるでしょう……?」
「ああ! 感情が昂った状況で魔法を使い、その魔法に多量の魔力を注ぎ込んだとき起こる"魔力が勝手に暴れ出す"って現象だろ? それがどうしたんだ!」
例を上げるなら怒っているとき、感情のまま魔法を使い多量の魔力を込めると、魔力が暴れ魔法が制御出来なくなり暴走してしまう。
そして、暴走した魔法は通常使用している魔法より強力なものになりやすく、【魔導師】なんて呼ばれる人が起こしたら冗談抜きで街一つ壊滅する。
また、魔法を失敗したときの反動もこの現象の亜種だと主張するものもいる。
「その【魔力暴走】をエリスさんが起こしているのかも……」
「どういうことだ……? 【魔力暴走】は魔法を扱っていなければならない筈だろう?!」
「ええ! ええ、そうなのよ。普通ならならないの。
けれど、こういう妊娠するときに体の中から魔力を乱されると、魔力が制御出来なくなるわ。
荒ぶる魔力は魔法という体をなしていなくても、体におかしな身体強化を齎して、体に負荷がかかることがある。エリスさんは多分その状態よっ!」
自然と口に分泌していた唾をゴクリとレイドは飲み込む。
「そ……その状態が、長く続くとどうなるんだ……?」
「母子ともに命が危険になるわっ……!」
絶句した。
今も苦しげに喘ぐエリスの手を命を繋ぎ止めることを祈りながら、レイドは強く握った。
「し、死んじゃうの……」
身近な人の死を知らないリーネは、死ぬという想像がつかない。
しかし、さっきまで子供が産まれるということを喜んでいた気持ちは凍り、まだ知らない人の死を想像した。
体はあるのに意識がない。
口はあるのに喋れない。
手はあるのに握れない。
足はあるのに歩けない。
目はあるのに開かない。
そこに存在するのに愛しいと伝えることが出来ない。
知っている人の見た目をした精密な、それは人形。
足下の地面がなくなったような錯覚をリーネは起こした。
歯を食いしばり、エリスの手を両手で包むように握って、押し黙るレイド。
表情を暗くし、いいようのない恐怖に堪えるリーネ。
忙しなく焦りながら、改善策を考えるフィリス。
どうにか出来ないものかと、下を見て苦しがっても状況は好転しない。
ーーだから、
「……方法は、【魔力暴走】を治める方法はないのですか!」
だから、ツムギは方法を聞いた。
"大切な人を助けたいから……。"
予定では村での生活編はまだ中盤くらいだったのですが、ちょっと早めることにします。
後5話くらいかな……。(それでも長くてすみません)




