第二十二章 見えない過去
月界の浅い領域を、一行は調査しながら進んでいた。
術式盤に表示された観測結果を確認して、リゼットが足を止める。
「……このあたりね」
「何かわかった?」
レイが覗き込むと、リゼットは表示を指でなぞった。
「時間方向の変動が確認されている地点よ。今のところ、以前の観測結果と大きな違いはないけど」
「ミアのことも何かわかるかな」
「まだ関係があるかどうかもわからないわ。でも、調べてみる価値はあると思う」
「そっか」
レイは頷き、少し先を歩くミアへ目を向けた。ミアはエリアと手をつなぎ、地面に落ちていた小さな石を眺めている。
「エリア、これきれい!」
「あら、本当ね。でも、持って帰るなら1つだけよ」
「はーい!」
ヴァンが口の端を上げた。
「ずいぶん楽しそうだな。調査に来たって自覚はあんまりなさそうだけど」
「怖がっているよりいいじゃない」
エリアが返すと、アデルが穏やかに頷く。
「ミアちゃんも自分のことを知りたくて来たんですから」
再び歩き出してしばらく、少し離れた場所に見慣れない装置が見えてきた。
周囲の景色に紛れるように置かれたそれは、現在の境界院で使われているものとは明らかに形式が違う。リゼットが目を凝らした。
「……これは?」
装置のそばには1人の男がいた。灰色がかった淡い金髪は少し無造作で、白い研究衣の下には濃紺の服を着ている。一行に気づいた男が顔を上げた。
「あれ、また会ったね」
「あっ、前に会った人!」
レイが声を上げる。
「覚えていてくれたんだね」
男は嬉しそうに目元をゆるめた。ヴァンも片手を上げる。
「どうも。こんなところでまた会うとはね」
「そうだねえ。君たちも調査に来たのかな?」
「ええ。最近、このあたりで異常な観測結果が出ているので」
リゼットが答えた。
「あなたも調査を?」
「うん。最近、月界の状態が少し変わってきているからね。いくつか装置を確認しているところなんだ」
リゼットは男のそばにある設備へ目を向ける。
「こちらも、あなたが管理しているんですか?」
「そうだよ。僕が作ったものだから」
「……ご自分で?」
「そう。ずいぶん前だけど」
改めて装置を見る。古い形式であることは確かだが、目の前の男はどう見ても30代ほどだった。
「失礼ですが、研究者の方ですか?」
「うん、そうだね」
「どちらに所属されているんでしょう?」
「今は特にどこにも所属していないよ」
「そうですか。では、お名前を伺っても?」
「ああ、そういえば名乗っていなかったね」
男は穏やかな顔のまま名乗った。
「セイン・エルディアです。よろしく」
リゼットの手が止まる。
「…………はい?」
「セイン・エルディア。君は?」
「……リゼット・ノアです」
「リゼットだね。よろしく」
当たり前のように頷く男を、リゼットはしばらく無言で見つめた。
「……今、何とおっしゃいました?」
「セイン・エルディア、だけど」
「その名前がどういう名前か、ご存じですか?」
「僕の名前だよ」
「そういうことを聞いているんじゃありません!」
突然の大声に、レイが驚いて振り返る。
「リゼット?」
「セイン・エルディアは、100年以上前の境界研究に多大な功績を残した人物です! その名前を軽々しく名乗るなんて!」
「ああ、そういうことか」
男は納得したように頷いた。
「確かに100年以上経っているからね。信じてもらえないのも無理はないなあ」
「……本気で、ご自分が本人だとおっしゃるんですか?」
「うん。そうだよ」
「…………」
ヴァンがレイに顔を寄せ、声を落とす。
「……なあレイ。これ、長くなりそうじゃね?」
「うん。そんな気がする」
リゼットは男をまっすぐ見据えた。
「では、1つ伺います。初期の境界接続術式について、どの程度ご存じですか?」
「初期の?」
「ええ。100年以上前に使われていた形式です」
「ああ、懐かしいね。今でも使われているのかな?」
「現在ではほとんど使われていません。構造上の問題が多く、改良が進んでいますから」
「そうなんだ。それはよかった」
「……よかった?」
「当時はまだ、わからないことが多かったからね。今ならもっといい方法があるんだろう?」
リゼットは少し言葉に詰まる。
「……そうですね。現在では観測技術も進歩しています」
「へえ。どんなふうに?」
「え?」
「昔は境界の状態を測るだけでも苦労したんだ。今の装置なら、もっと細かく調べられるのかな」
「……はい。現在の術式盤なら、複数の観測値を同時に確認できます」
「それは便利だね!」
男の目が輝いた。
「よかったら、少し見せてもらってもいいかな?」
リゼットはためらったあと、術式盤を差し出す。男は表示をじっと眺めた。
「なるほど。こんなに小さくなったんだね」
「……この形式をご存じないんですか?」
「初めて見るよ。でも、基本的な考え方は変わっていないみたいだね」
男は表示の一部を指す。
「ここの値は、境界の変動を補正したものかな?」
リゼットの表情が変わった。
「……わかるんですか?」
「うん。昔はこの補正が難しくてね。別々に測ってから比較していたんだけど」
「そうです。その方法では誤差が大きくなるので、現在は術式盤の内部で補正するようになっています」
「へえ! それはすごいなあ」
そこから、2人の会話は止まらなくなった。
古い術式の設計意図。実際に運用して初めて判明した問題。記録には残っていない、当時の試行錯誤。リゼットが疑問を口にすれば男は当時の事情を交えて答え、男が現代の改良点を尋ねれば、今度はリゼットが説明する。男はそのたびに興味深そうに耳を傾ける。100年以上前の研究に直接携わっていなければ知り得ない話が、男の口から次々と出てきた。
リゼットがふと言葉を切り、男の顔を見つめる。
「……まさか」
だがすぐに小さく首を振り、術式盤へ視線を戻した。
「……さっきまで怒ってたのになあ」
ヴァンが小声で呟く。
「でも、楽しそうだね」
「だな。すっかり夢中じゃん」
研究者2人の話はその後も続いていた。
「まだ帰らないの?」
ミアがエリアの服の裾を引く。
「そうねえ。もう少しかかりそうね」
エリアが振り返ると、リゼットは術式盤を指し示しながら男と熱心に話し込んでいた。
「リゼットさん、楽しそうですね」
アデルの言葉にエリアは頷く。
「ええ。あんなに夢中になっているんですもの。もう少し待ってあげましょうか」
エリアはミアの手を取った。
「ミアちゃん、向こうで休憩しましょう」
「うん!」
やがて男が、リゼットの術式盤に表示された観測結果へ目を戻した。
「ところで君たちは何を調べに来たのかな?」
「最近、この周辺で時間方向の異常が観測されているんです」
「時間方向の?」
「はい。境界の変動だけでは説明できない結果が出ていて、原因を調べています」
「ああ、そのことか」
男が頷く。
「僕も気になっているんだ。最近は時間の乱れが目立つようになってきたからね」
「そちらでも観測されているんですか?」
「うん。月界側の変化は調べているよ。でも、最近の現界の観測はできていなくてね。今どうなっているのかな?」
「現界でも異常の報告が増えています。境界院で観測を続けていますが、月界側との関係はまだ十分にわかっていません」
「そうか。やっぱり両方の結果を比べてみたいね」
男は興味深そうに術式盤を眺める。
「現界の観測資料は、今は境界院でまとめているのかな?」
「はい。各地の結果を集めて分析しています」
「それなら、ぜひ見てみたいな」
そこで、休憩から戻ってきたレイが口を開いた。
「なあ、セイン。俺たち、もう1つ調べたいことがあるんだ」
「何かな?」
「ミアのこと。……あ、俺はレイ。レイ・アルヴェイン」
「レイくんだね。よろしく」
レイは隣に立つミアへ目を向ける。
「この子、月界で見つけたんだ。でも、それより前のことを何も覚えてなくて」
「ミアはミアだよ!」
自分の名前が聞こえたらしく、ミアが胸を張っている。
「そうか。ミアっていうんだね」
「そう!」
「かわいい名前だね」
ミアは嬉しそうに頷く。リゼットが説明を続けた。
「この子には、本来あるはずの過去の記録が確認できないんです」
男の表情が変わる。
「……記録が?」
「はい。境界院でも調査しましたが、原因はわかっていません」
「それは不思議だね」
男は少しかがみ、ミアと目線を合わせた。
「ミアは、ここに来る前のことを覚えてる?」
「ううん。気づいたらここにいたの」
「そうなんだ」
「でもね、今はみんなと一緒にいるよ!」
「ふふ。そうみたいだね」
男はミアからレイへ視線を移す。
「君たちが見つけたの?」
「そう。俺たち、姉さんを探して月界に来てたんだ」
「お姉さんを?」
「うん。でもちゃんと一緒に帰れたよ。……また戻されるかもしれないんだけど」
レイがエリアを見ると、エリアは静かに頷いた。
「ええ。今のところは」
男は2人を見比べる。
「……そうなんだ。戻される原因はわかっているの?」
「いいえ。まだ何もわからないんです」
「そうか……」
「で、今回はミアのことも何かわかればと思ってさ」
男は顎に手を当てて考え込んだ。
「記録が見つからない子か……。それで、君たちは開口部から来たの?」
「いや、なんか俺、自分で入る道を作れるみたいなんだ」
「……自分で?」
「うん。何もないところに手を伸ばすと、道ができるんだよ」
男は少し考えてから、興味深そうにレイを見た。
「もう少し詳しく聞かせてもらえるかな」
レイは、エリアを連れて帰ったときのことを話した。男は途中で何度か質問を挟む。どうやって道を作ったのか。境界の状態は変わったのか。開いた道はどのくらい維持できたのか。話が進むにつれて、男の声が少しずつ弾んでいく。
「なるほど。おもしろいね」
それから男は少し考え込んだ。
「……それなら、できることが増えるかもしれない」
「何かわかる?」
「まだわからないよ。でも、調べてみたいな」
男はリゼットへ向き直る。
「現界側の観測結果も確認したいし、君たちの話ももう少し聞きたい。よかったら僕も一緒に調べていいかな?」
「一緒に?」
「うん。僕が持っている月界側の資料も、君たちの役に立つかもしれないしね」
リゼットは少し間を置いた。
「……私としても、ぜひ詳しくお話を伺いたいです。あなたが本人かどうかは、まだ判断できませんが」
「それで構わないよ」
男は満足そうに頷く。
「それじゃあ、僕も現界へ行こうかな」
「いいの?」
レイが尋ねた。
「ああ。ちょうど向こうの状況が気になっていたところなんだ」
「やったあ! 一緒に行こ!」
ミアが声を上げると、男は手を振って応える。
「よろしくね。ただ、その前に置いてきた資料を取ってこないと。少し待っていてくれるかな」
男は少し離れた岩陰へ向かい、ほどなくして何冊かの資料を抱えて戻ってきた。
「ずいぶんたくさんありますね」
アデルが資料の山に目を丸くする。
「見回りに必要だったものだからね。ああ、そうだ」
男はその中から1冊を抜き出した。
「リゼットには、これも役に立つかもしれない」
「何でしょう?」
「深層の時間について調べたものなんだ」
「深層の?」
リゼットは差し出された資料を受け取り、ページをめくる。
そこには、月界の深度ごとに観測された時間の経過と、現界で経過した時間の比較がまとめられていた。浅い領域では差が小さい。だが深層へ進むほどその差は大きくなる。さらにページをめくると、現界で数十年が経つ間に、深層ではわずかな時間しか経っていないという観測結果まで記されていた。
「……これ、本当に実測値なんですか?」
「うん。何度も現界へ出て時間を照らし合わせたんだよ」
リゼットは資料から目を離さない。
「境界院にも、ここまで長期にわたる比較記録はありません。深層での滞在期間と、現界で経過した年月まで対応させて……」
ページを押さえた指先が止まる。
「……100年以上前の方が、30代の姿のままでいる理由。この時間差なら説明がついてしまいます」
「そうだね」
「……あなたは、そんな深いところにいたんですか?」
「普段はもう少し奥にいるよ」
ヴァンが横から資料を覗き込んだ。
「そんな奥まで行って大丈夫なの?」
「時間はあったからね。滞在するための方法も見つけたよ」
「……簡単に言うなあ」
リゼットはゆっくりと資料を閉じる。
「……本当に、セイン・エルディア先生なんですね」
「うん。さっきもそう言ったでしょう?」
「そういうことではありませんよ……」
セインは不思議そうに首をかしげた。リゼットは小さく息をつく。
「……失礼しました、先生」
「気にしなくていいよ。100年以上前の人間が突然現れたら、驚くのも無理はないからね」
「驚くどころではありませんよ……」
そう言いながら、リゼットは再び資料を開いた。
「先生。この深度で観測された時間差について、もう少し詳しく伺ってもよろしいですか?」
「もちろん。どのあたりかな?」
セインはリゼットの隣に立ち、資料を覗き込む。
「この結果なんですが、現界との比較はどの程度の間隔で?」
「ああ、それはね――」
再び研究の話が始まりかけたところで、エリアが声をかけた。
「リゼット、セインさん。そろそろ戻りましょうか。続きは現界でもできるでしょう?」
「あっ……そうですね。すみません」
「いや、僕もつい夢中になってしまったよ。現界には、もっと新しい資料もあるんだよね?」
「はい。先生にもぜひ見ていただきたいものがたくさんあります」
「それは楽しみだなあ」
ヴァンが小さく吹き出した。
「……さっきまで偽物扱いしてたのになあ」
「本物だとわかった以上、当然でしょう!」
「はいはい」
「その返事、腹が立つわね」
セインが2人のやり取りを楽しそうに眺める。
「仲がいいんだねえ」
「どこが!?」
リゼットとヴァンの声が重なった。
*
現界へ戻った一行は、宿で今後の調査について相談した。
セインが持ち込んだ月界側の資料と、境界院が集めている現界側の観測結果。それぞれを突き合わせれば、異常の原因について新しいことがわかるかもしれない。
「気になる場所がいくつもあるんだ」
セインが資料を広げる。
「現界の観測結果も確認したいし、月界の装置も引き続き調べておきたい。少し人手があると助かるんだけどね」
「それなら、境界院にも相談してみます」
リゼットが答えると、アデルも頷いた。
「調査に協力してくださる方が増えれば、私たちとしても助かりますね」
「そうだね。みんなで調べたほうが、いろんなことがわかりそうだ」
そのやり取りを聞いていたヴァンが、ふと何かを思いついたように顔を上げる。
「……そういや、ちょっと用事があったんだ」
「用事?」
レイが尋ねる。
「ああ。少し出てくるよ」
軽く手を振って、ヴァンは宿を出た。
向かった先は教会だった。用を済ませて外へ出ると、ヴァンは高い屋根を仰ぐ。
「……センセー、喜ぶかな」
呟きは、通りのざわめきに紛れて消えた。
*
ヴァンが宿へ戻ったあとも、机の上にはセインの資料と境界院から借りた観測記録が広がり続けていた。リゼットはセインの隣を離れず、その向かいでレイが2人の会話に首をひねっている。窓の外はいつの間にか暮れかけていた。
「先生、この補正は?」
「ああ、それは昔のやり方だね。今ならこう書くのかな」
「……俺、1言もわかんない」
「放っときな」
ヴァンが欠伸まじりに返し、エリアが新しいお茶を机の端に置いていく。
夕食が済んだ頃、教会からの使いが宿を訪ねてきた。ヴァン宛ての短い書付に目を通すと、ヴァンは何も言わずに上着を取る。
「ちょっと出てくるよ」
「また?」
「また。すぐ戻る」
町の入口へ向かう通りまで出ると、見覚えのある姿が目に入った。
「お、姉さん!」
緋月が振り返る。足元にはいつもの猫がいた。
「久しぶり」
「いや、こないだまで一緒だっただろ」
緋月は特に気にした様子もない。ヴァンはしゃがみ込み、猫の頭を軽く撫でた。
「お前も相変わらずだな」
猫が尻尾を揺らす。
「人手が足りないんでしょう?」
「話が早くて助かるよ。ちょうど調査を手伝ってほしくてさ」
「そう」
「みんな宿にいる。案内するよ」
猫を連れた緋月と並んで歩き、宿に着くと、ヴァンは先に扉を開けた。
「おーい! 姉さん連れて来たぞ」
声を聞いて、レイたちが顔を上げる。
「緋月!」
ミアが駆け寄ると緋月は小さく頷いた。アデルも穏やかに声をかける。
「来てくださったんですね」
「ええ。手伝いが必要だって聞いたから」
その声に、奥からセインが顔を出した。
「おや、お客さんかな?」
セインは緋月の前まで歩み寄り、軽く手を挙げる。
「やあ、はじめまし――」
言葉が途中で止まった。
緋月も、目の前の男を見たまま足を止める。
セインの目がわずかに見開かれた。緋月は声もなく立ち尽くす。
2人はただ、互いの顔を見つめていた。




