第六話「夜の番人の遅延」
その男は、人を救うことを生きがいとしていた。
名を、スフェン。
若い薬師だった。
傷を癒やし、病を和らげる。
彼の作る薬は確かで、多くの者に頼られていた。
だからこそ。
その日、彼は初めて“救えないもの”に出会った。
恋人だった。
冒険者として各地を巡っていた彼女は、ある日戻らなかった。
代わりに運ばれてきたのは、“それ”だった。
石。
人の形をした、ただの岩。
呼びかけても、動かない。
触れても、温もりはない。
呪いだった。
スフェンは、諦めなかった。
あらゆる薬を試した。
古い文献を漁り、未知の調合にも手を出した。
だが、何も効かなかった。
「……まだ、足りない」
そう呟いた時点で、何かはもう歪んでいた。
やがて彼は、禁忌に手を出す。
生き血を使う薬。
最初は、患者から少量を分けてもらった。
治療の延長として。
誰も疑わなかった。
だが、効果はなかった。
量が足りない。
そう考えるようになるまで、時間はかからなかった。
次第に、要求は増える。
少しずつ。
確実に。
やがてそれは、“治療”ではなくなっていた。
人が減り始める。
原因は分からない。
だが確実に、何かが削られていた。
それでもスフェンは止まらない。
「……もう少しでいい」
「あと少しで……」
石となった恋人の前で、何度も繰り返す。
影は、そこにあった。
最初から。
ずっと、見ていた。
歪みは、十分に蓄積している。
本来であれば。
即座に、処理されるべき対象だった。
影は、動く。
だが。
わずかに、止まる。
視線の先。
スフェンが、石に触れている。
「……必ず、戻す」
その声には、迷いがなかった。
純粋だった。
歪みの原因でありながら。
同時に、それは“守ろうとする意志”でもあった。
影の中に、わずかな遅延が生じる。
処理対象。
排除。
均衡維持。
それらの判断に、微細なノイズが混じる。
――夜の番人。
呼称。
定義には存在しないはずの概念。
守る者。
見張る者。
それは、均衡とは無関係のはずだった。
だが。
処理は、遅れた。
影は、観測を続ける。
選択肢は、存在していた。
スフェンという存在の消去。
石となった対象の消去。
原因となる執着の消去。
いずれも、均衡へ至る手段。
その中から。
影は、一つを選択する。
スフェンに、触れる。
何も起きない。
変化は、目に見えない。
ただ。
何かが、欠けた。
「……」
スフェンの動きが、止まる。
ゆっくりと、顔を上げる。
そして、石を見た。
「……これは、なんだ?」
そこにあったはずの感情は、もうない。
困惑だけが残る。
理由は、分からない。
ただ、そこに“あるもの”として認識する。
部屋の隅に置かれた石。
それ以上の意味を持たない。
スフェンは、背を向ける。
やるべきことを思い出す。
薬師としての役割。
それだけが残った。
影は、それを見ている。
処理は完了した。
均衡は、保たれた。
だが。
わずかな遅延が、確かに存在した。
影は、その事実を認識する。
原因は明確だった。
――夜の番人。
その呼称は、判断に影響を及ぼしている。
均衡とは無関係の要素。
だが、無視できない変化。
影は、静かに観測を続ける。
わずかなズレを抱えたまま。




