第五話「夜の番人」
夜の街を、影が走る。
屋根から屋根へ。音もなく、気配もなく。
人々はそれを恐れ、同時に期待した。
奪われるのは、決まって“悪い者”だったからだ。
「またやったらしいぞ」
「ああ、あの連中だ。“夜の番人”」
「貴族の金庫が空になってたって話だ」
「でも孤児院に寄付が増えてるってさ」
誰が言い出したのかは分からない。
だがその呼び名は、いつの間にか広がっていた。
夜の番人。
闇の中で、不正を正す者たち。
その中心にいる男は、静かに息を吐いた。
「……撤収だ」
短く告げる。
仲間たちは従う。
迷いのない動き。
男――団長は、最後に振り返る。
奪った金。
それは、明日には別の場所へ流れる。
必要としている者の元へ。
「……これでいい」
小さく呟く。
情報は、教会から得ていた。
神父は町の事情に詳しい。
融資、孤児院、施し。
人の流れと金の流れを把握している。
「この商人はどうだ?」
団長は問う。
神父は静かに答える。
「裏でかなりのことをしているようです」
「……そうか」
「ただ、証拠は表には出ません。だからこそ、あなた方のような存在が必要なのです」
団長は頷いた。
それで十分だった。
翌日。
団長は、人目を避けて孤児院の近くにいた。
壁越しに、子供たちの声が聞こえる。
「ねえ、またパン増えたね」
「うん。でもね、シスターが言ってた」
「?」
「ほとんど教会に納めなきゃいけないんだって」
団長の指が、わずかに止まる。
「なんで?」
「分かんない。でも、そういう決まりなんだって」
笑い声。
何も知らない、無邪気な声。
「……」
団長は、その場を離れた。
数日後。
団長は街を歩いていた。
その時、足元の影がわずかに揺れた。
風もないのに、形が歪む。
視線が、自然とそこに引き寄せられる。
(……あいつは)
例の商人を、遠くから見つけた。
大柄で、顔つきは厳しい。
確かに、印象は良くない。
「今月は無理だろう。来月でいい」
低い声。
だが、言葉は穏やかだった。
「でも……」
「いいと言っている。無理をして潰れられても困る」
相手は何度も頭を下げている。
団長は、動けなかった。
頭の中で、神父の言葉がよぎる。
『裏でかなりのことをしているようです』
「……」
何も、断定できない。
ただいつものように奪い、必要としている者の元へ流していくのみ。
夜。
仕事を終えいつもの場所で、団長は一人座っていた。
影も、そこにあった。
柱の陰。壁の隅。
形を持たないそれが、静かに揺れている。確かにそこにあるのに、何故か警戒心が湧かなかった。
商人を見つけた時と同じあの影だと直感した。
「……お前も、見てたか」
団長は視線を向ける。
「俺たちのやってること」
影は何も答えない。
ただ、そこにある。
「……なあ」
視線を向ける。
「俺たち、間違ってないよな」
沈黙。
「……違うって言えよ」
苦笑する。
「いや、違うな」
首を振る。
「違うって言われたら、困る」
影は、何も返さない。
翌日、団長は神父の元を訪れた。
「……あの商人のことだ」
神父は穏やかに微笑む。
「何か?」
「噂を聞いた。あいつは……」
言葉が詰まる。
神父は、ゆっくりと口を開く。
「人は、見たいものしか見ません」
「……」
「善人に見える者が善人とは限らない。逆も同じです」
「あなたは、どちらを信じますか?」
団長は、答えられない。
「あなたはこれまで、多くの者を救ってきた」
神父の声は、柔らかい。
「その事実は、変わりません」
「……ああ」
小さく頷く。
「迷いは、刃を鈍らせます」
団長は目を閉じる。
(……そうだ)
(俺は、間違ってない)
そう思うことにした。
その夜。
屋敷の裏口で、団長は足を止めた。
中から、声がする。
「最近、やり方が雑じゃないか?」
「団長、大丈夫か?」
自分のことだと分かる。
「……」
何も言わず、その場を離れる。
影は、すぐ後ろにある。
「……聞いたか?」
振り返らずに言う。
「俺、ズレてるらしいぞ」
返事はない。
「……そうかもしれないな」
それでも、足は止まらない。
別のある夜。
団長は、教会の裏で足を止めた。
扉の前に立つ。
中には、神父がいるはずだった。
手をかける。
その瞬間。
足元の影が、わずかに伸びた。
靴先に絡みつくように、細く、長く。
それは、引き止めるようにも。
あるいは、押し出すようにも感じられた。
「……」
一瞬だけ、迷う。
だが、手は止まらない。
わずかに開いた隙間へ、視線を落とす。
「……ええ、問題ありません」
神父の声。
「ええ、彼らはまだ使えます」
団長の呼吸が、止まる。
「資金も順調に集まっています。孤児院の件も含めて」
それ以上は、聞こえなかった。
「……」
(……気のせいだ)
そう思うことにした。
いつのまにかいつもの場所へと辿り着いていた。
「なあ」
影に向かって言う。
「俺は……」
言葉が続かない。
「……やってること、間違ってないよな」
影は、ただそこにある。
「……」
団長は、目を閉じた。
疑問は、消えない。
だが、行動は変わらない。
歪みは、確実に積み上がっていた。
そして。
その夜は、静かすぎた。
「団長」
仲間が呼ぶ。
いつもの場所。
いつもの顔。
だが、何かが違う。
「最近のあんた、信用できねえ」
一人が言う。
「判断がぶれてる」
「このままだと、全員巻き込まれる」
団長は、ゆっくりと周囲を見渡す。
逃げ場はない。
「……そうか」
小さく頷く。
「分かってた」
影が、すぐそばにある。
「もう、違うな」
一歩、前へ。
「俺は――」
言葉を探す。
「夜の番人なんかじゃなかった」
視線は、影へ。
「……あんたが、そうなんだな」
影は、何も答えない。
ただ、そこにある。
次の瞬間。
刃が振り下ろされる。
その直前。
団長の足元の影が、わずかに広がった。
自分の影と、そこにある“それ”が重なる。
境界が、曖昧になる。
抵抗する理由が、どこにも残っていなかった。
団長の体が崩れ落ちる。
夜は、静かなままだった。
影は、その場に残る。
呼称を受け取る。
だが、それは意味を変えない。
守るためでも、裁くためでもない。
ただ。
静かに、均す者。
夜の番人……




