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生死の案内人  作者:
第一章 日常の変化
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Chapter8 リリス

通勤途中で妹と別れ、弟を保育園に預けたら一日の始まりだ。同時に、これから仕事が始まるという憂鬱の時間でもある。

駅のホームで大して意味もなくスマートフォンを眺めながら、電車が来る音に顔を上げる。

電車の扉が目の前まで到着すると、窓に自分や後ろの列の人が映り込む。そこでふと、後ろの列にいる人と目が合った。

特徴的な長い薄紫色の髪。窓越しに目が合った女性が微笑む。驚いて後ろを確認するが、それらしき人物は見当たらなかった。

首を傾げつつ再び前を向くと、窓の方にも先程の女性の姿はなかった。気の所為だったんだろうか。


満員電車に暫しの間揺られ、目的の駅で雪崩れるように降りる。都会は人が多く、電車の乗り降りも一苦労だ。

既に会社に着くまでに大分気力を削がれている。会社の近くに引っ越した方がいいと言われた事もあったが、それをしたら本格的に社畜になってしまう。何より妹の小学校が今以上に遠くなるのはまずい。

此処は変えられない。だから通勤時の不満は我慢するしかないのだ。


何と無く見上げた空は憂鬱な気持ちとは反対に雲一つない晴天だった。降り注ぐ日光が黒いスーツに熱を齎す。

額にじんわりと汗が滲んだ。まだ春なのに、こんなに暑いとは。会社までもうすぐだからそれまでの辛抱だと、自分に言い聞かせて歩道を辿っていく。

然し、直ぐに響哉の身に異変は起きた。動悸を感じ、息切れしたように浅い呼吸を繰り返す。身体がふらついて電柱に手を突こうとした刹那、誰かによって支えられる。


「大丈夫です? 救急車、呼びましょうか?」


ふわっと、仄かに香水の香りがした。

声がした方へ視線を向けると、其処には薄紫が特徴の女性が立っていた。

白いブラウスの上に黒いジャケットを羽織り、短めのセーラータイプのスカートと、学生…にしては若干大人びているような。

黒いニーハイにパンプスを履いた女性。その姿は何処かで見覚えがあった。


「一先ず、座るか横になった方がいいですね。このままゆっくりと腰を落としてください」


優しく促されて、鞄を抱えながらずるずると崩れるようにその場でしゃがみ込む。

……めまいがする。気持ちが悪くて、立ち上がるのも難しい。

同時に手足が震え始め、びりびりと痺れる感覚と息苦しさでぎゅっと目を瞑った。今までにこんな症状が一遍に起こった事はなかった。内側から溢れる恐怖感に蹲り、視界が真っ白になりそうだ。

それを見た女性は地面に膝を突いて正座すると、徐に響哉の身体を引いて横向きに寝かせ、頭を膝の上に乗せた。


暑かった筈なのに、今はとても寒気がする。血の気がなくなり白くなった指先をぼんやりと見つめた。

頭の上に温もりを感じて僅かに安心し、繰り返された短めの息も徐々にだが落ち着きを見せ始める。

緊張感が解れ、全身の力を抜いて響哉は目蓋を閉じた。


それから暫くの間、誰かが頭を撫でていた気がする。

身体の中に蓄積されていた負荷が全部吐き出されたかのようで妙にすっきりした気分になった。

曖昧な意識で思考を巡らす。あれからどれくらい時間が経った?

そもそも頬に当たっている柔らかい感触と、頭を撫でるこの温もりは一体誰なのか。

其処まで考えて鉛のように重たい身体を起こそうとする。


「あ、目が覚めました? それは良かったです。足が痺れて結構大変なんですよ」

「! うわぁっ!?」


思わず悲鳴を上げてしまった。そうだ。倒れたところを見知らぬ女性に助けられて、それで…。

膝枕をしてもらっていた。改めて認識すれば頬が熱くなる。女の子に膝枕をされるなんて初めてだった。

真っ赤になっている自分を面白そうに眺める視線が痛い。


「全く、リリスちゃんのこんなサービスは二度とないんですからね?」

「た、頼んでいませんけど……!」


動揺し過ぎて声が震えてしまった。普通の人はラッキーと思いそうで、こういう時の返答は自分でも真面目過ぎるのかもしれないと思えてくる。


「あれから三十分程経ちましたが、少しは症状も和らぎましたか?」


眠ってからの時間を報告する声にあ、と声が漏れ出る。


「…ッ、会社、行かないと……!」


そうだ。まだ出勤の途中だった。このままじゃ遅刻する。

焦燥感に突き動かされて鞄を手繰り寄せ、無理矢理立ち上がろうとするものの、肩を掴まれて目の前の女性に阻止されてしまう。


「無理ですって! そんな身体で出勤しても何も出来ませんよ!」

「でも…」

「でもじゃありません! 携帯は持っていますか? さっさと会社に休む旨を伝えましょう」


そう告げるなり彼女は響哉の持つ鞄を取り上げた。鞄の中を漁り、藍色の手帳型ケースに入ったスマートフォンを取り出すとダイヤル画面を突き出してきた。

止むを得ず従う事にした響哉は、痺れる指先で会社の番号を入力していく。数回コールが鳴った後に中年の男の声がした。幸いにも上司が電話に出たようだ。


「…お、お疲れ様です…。一条です」

『ああ、一条か。朝礼にいなかったが、どうかしたのか?』

「っ、その……あ、ちょっと…!」


何とか事情を口にしようとしたところで、彼女に携帯を奪われてしまう。


「一条さんが苦しそうなので、私が代わりますね。偶々居合わせた者なんですが、彼が道端で突然倒れてしまいまして…。とても体調が悪そうなので、本日はお休みにさせていただけませんか?」

『ああ…そういう事なら構わん。彼には一日安静にしておくよう伝えてくれ』

「はい。ありがとうございます! それでは失礼します」


手短に済ませて通話を切った。彼女は上機嫌でスマートフォンを返してきた。


「今日一日安静にするように仰っていましたよ。良かったですね」

「はぁ……」


結局家に帰る事になり、ぐったりと項垂れた。


「唇もまだ血色が悪いです。症状は三十分くらいで落ち着いてきましたから、恐らくはパニック障害ですね」

「パニック障害……?」

「ストレスによる突然の発作です。我慢にも限界はあるんですよ?」


ストレス。我慢…。思い当たる節は幾つかある。心因性のものだと知ればどうしようもなく、受け取ったスマートフォンを鞄に仕舞い込んだ。


「助けていただいて、ありがとうございます…。家には、一人で帰れますので」


漸く重い腰を浮かせて立ち上がる事に成功した。彼女に軽く頭を下げたなら、来た道を戻ろうと踵を返す。

其処で響哉の足は止まった。前方に黒く霧がかかっている。間違いなく悪霊の気配だった。来る時はなかったのに、何故今になって。

あの黒い霧が見えるのは今のところ自分だけだ。後ろの彼女に不審がられる前に、一気に駆け抜けた方がいいのか。

でも、あの霧がどれだけ危険なのかは、既に体験済みだ。簡単に通してもらえるとは思わない。

そんな時だった。買い物袋を提げて横断歩道を渡る一人の主婦が、あの靄に向かって歩いているのが見えた。


「危ない……!」


慌てて止めに入ろうとするが、主婦は何事もなく霧の中を通り過ぎていく。


「あ、あれ…?」


襲われる事もなく、ごく自然に渡り切った主婦に驚きを隠せずに数回瞬いた。

嫌な気配はあるのに、何故。立ち止まった響哉の横に彼女が並んだ。


「大丈夫です。お互いの波長が合わない限り、悪霊は見えませんし、悪霊も人間が見えません」


──悪霊も、人が見えない?


「どうやら一条さんは、あれが見えるようですね」

「君も見えるのか?」

「ええ。悪霊を狩るのも、私のお仕事ですから」


気付けば彼女の手には短めの鞭が握られていた。すると前方の方から何かが這いずる音が聞こえ、曲がり角から黒い腕が見える。

人型の悪霊が這いずっている。ホラー映画を彷彿とさせる姿にゾッとした。彼女が一歩前へと出る。


「ここは私が何とかしますから、下がっていてくださいね?」


鞭の先端が輝き始め、彼女は空中に赤色の魔法陣を描いた。発光した陣より突然炎が噴射される。正に架空の世界で見るような魔法のようだった。

一直線に放たれた火は悪霊に向かって飛んでいく。然し地面の影から伸びた大きな人型の腕が本体に直撃する前に炎を握り潰した。

作られた拳がその侭彼女目掛けて振り落とされた。迷わず後方に飛び退き、轟音が鳴り響く。先程彼女がいた場所は大きなハンマーで叩いたかのように地面が罅割れていた。


「動きが遅い分、パワーがありますねぇ!」


這いずる悪霊から伸びる無数の腕を鞭で払い落とし、僅かな隙が出来たところで彼女は新たな陣を描く。

描かれた紫色の陣は悪霊の周囲四箇所にも現れ、其処から伸びた鉄の鎖が悪霊を縛り上げた。


「アッ、…ァアッ!」


言葉にならぬ呻き声を上げて鎖から逃れようと抵抗するが、何重にも巻かれた鎖はそう簡単には外れなかった。

不意に上空に大きな扉が現れる。人の手もなく自然に開いた扉の先は、光に包まれていて何も見えない。

すると鎖と一緒に悪霊が扉の中へと引っ張られていくのが見えた。


「さあ、あの世に帰りなさい! ここは貴方の居場所じゃありませんよ!」


扉の奥へ放り出された悪霊が足掻いて地上へ手を伸ばす。だが、無情にも扉は閉められて、悪霊と共にその場から綺麗に消え失せた。


「今のは……」

「霊界への門です。あの世とか、冥府とか言った方が分かり易いですかね? 現世に残る死者の魂をあの扉から送り届けるんですよ」


それは、つまり──。


「……君も、死神なのか」

「ハイ、ご名答! 説明の手間が省けて助かります」


花丸をあげましょう、と揶揄う素振りで鞭の先で花を描く。軽快な歩調で響哉の下へ戻ってくると彼女は改めて向き合った。


「リリスって言います。年齢は秘密。生きた時代も秘密。気軽にリリスちゃんと呼んでくれても構いませんよ?」

「リリス…さんじゃダメかな?」

「さんは何だか距離を感じますね…。それでしたら呼び捨てで結構です」


妥協して呼び捨てという形で落ち着いた。鞭を仕舞い、彼女はにっこりと微笑を浮かべている。


「僕は…、一条響哉です。二度も助けていただいて、ありがとうございました」

「生きた人を救うのは当然ですから。そ、れ、よ、り、も、"君も"って事は、私以外にも死神をご存知で?」

「あ、いや…それは……」


しまった、迂闊だった。

死神と判ったところで、以前の死神のように味方とは限らないからだ。

身構える響哉を前に彼女は上を向いて考える素振りを見せた後、一人納得したように肯いた。


「まあ、積もる話しは追々でいいでしょう。まだ体調も優れないようですし、ここはタクシーにでも乗りましょうか」


ほらほら、と両手で背中を押される。車通りのある道路まで辿り着けば、リリスが手を挙げて白いタクシーを止めてくれた。


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