31 研究
春の草花亭での食事の後、ズールはホテル・ブルーノに戻るやすぐに調理に取り掛かった。
何しろ、今までに食した事のない初めての味だ。あの味を忘れない内に再現する必要がある。あの味を忘れろと言われても、それはそれで難しいことであるのは、何となく理解していたが。
そして、時は既に深夜。あの味の再現が予想以上に難しいことを思い知る。
なんとかなるだろうという見込みは、見事に外れることになったのだ。
「くそっ! 何なのだ、あの味は!」
苛立ち紛れに、調理台に拳を叩きつけると、調理台の上に載った様々な試行錯誤の結果である皿が、がちゃりと音を立てた。
まず、ズールは味噌汁の再現に取り掛かっていた。
調味料を組み合わせたり、更にはそれに食材を組み合わせて煮込んでみたりと、思い付いた事の殆どを試してはみたが、未だにそれは叶わなかった。
まだ幾つかの案があるにはあるが、それらが実を結ぶことは難しいと、これまでの試行錯誤の傾向からして間違いはないと分かっている。
幾らかの収穫はあったものの、今成すべきことは、あの料理の再現なのだ。茶色く濁った、香り高く複雑な味わいのスープの。
「…やはり、未知の調味料か」
思い至るのは、やはりそれだった。
しかし、これまでズールはバルーム伯の伝手を利用出来るだけ利用しており、大陸に存在するあらゆる食材をその手にかけてきた。
それであるから、まだ自分の知らない調味料があることが些か信じられない様であった。
ましてや、未知の調味料を平凡な宿屋が有しているなどとは、思いたくなかった。それ以上に、自分の知らない調理法を以ってして、あの料理を作っているのだとは、絶対に考えたくもなかった。
「…まだ、思い付いていない調理法があるかも知れない」
だから、すぐにその考えを振り切って次の調理法を思索する。どうすればあの味が出来るのか。ただその味を再現するために、手を動かしていく。
結果として、味噌汁の味は再現できなかった。味噌がないのだから当然な事であるのだが、ズールにそれを知る由はない。
彼の目の下には隈ができており、夜を徹して作業を行っていたのが見て取れる。
日は既に登り始めており、窓から差し込む陽の光が彼には眩しかった。
調理台の上には、やはり試行錯誤の結果が載っていた。
「おはようございます…。っ!?」
そんな時、厨房のドアが開かれた。ホテル・ブルーノの料理人の1人である男性がそこから入ってくると、目の前の惨状に目を見開く。
「ああ、おはよう」
「一体どうしたんですか? これは」
「なに、新たな料理を一つ作ってやろうと思ってな」
彼は、ズールがバルーム伯との繋がりを持つ事を知らない。
下手な詮索を受けたくないズールは、そう答えるに留めた。自分がやろうとしていることは、他の店の料理の真似事であるなどとは口が裂けても言えない。
「なるほど、それは楽しみですね。それでは朝食の作成に入りますね」
「ああ、頼む」
ズールは調理台に載る多数の皿の後処理に掛かる。
もう少しすれば、彼の他に何人かの料理人が厨房に姿を現すはずだ。ひとまず、今日は彼らに料理を任せてしまっても良いだろう。
昨日に引き続いてとなるが、2日くらいなら大丈夫だ。
そこまで考えると、ズールは昼に備えることにした。
「済まんが、今日の料理もお前に任せる」
「分かりました。ズールさん、新メニューの開発とはいえ無理だけはいけませんよ」
彼は笑いながら、自身の目の下を示す。
隈ができて、よほど酷い顔をしているのだろうなと、思わず苦笑してしまう。
「じゃあ頼んだ」
そう言いながら厨房を後にすると、ホテル内にある自室へと歩き出した。春の草花亭での昼食まで、少しでも休むために。
昼の鐘が鳴って少し経った時、エミリアは次の客の案内のために、外の行列へと足を向けていた。
宿屋のドアを開き、次の客の案内をしようとすると、そこに昨日知ったばかりの顔があることに気が付いた。
「あ、いらっしゃいませ。また来て頂けたんですね」
「ああ…」
昨日、味噌汁のことを泥水だと形容したズールのことは、強い印象に残っていた。その後も、神妙な顔をして食事を続ける彼を見ていたため、彼の顔を覚えていたのだ。
どうやら料理を気に入ってもらえたらしいと、内心で安堵するエミリア。料理の再現のための研究であることは知らないので、実際は見当違いである。
「では、こちらへどうぞ」
そう言われ、ズールは黙って案内を受ける。
昨日と同様に2人用のテーブルへと案内されると、そこに腰掛けた。
昨日と違い、従業員がすぐに離れないことに、彼は訝しむ。
「何か用でもあるのか?」
「あ、はい。実は、当宿のランチタイムは今日が最後なんですよ」
「何?」
ズールは少々の焦りを感じた。春の草花亭の料理は、料理人である彼にとって大変興味深いものである。
何日か店を開いていたことからも、まだ料理の引き出しが存在することはわかっている。もう食べられないとなると、それらの研究の機会が失われてしまう。
そこまで考えて、これでは料理の開発を他人任せにしているのと一緒だということに思い至り、自己嫌悪に陥った。
顔を歪めたズールを見て、エミリアは申し訳なさそうに次の言葉を告げる。
「申し訳ありません。その代わりではないのですが、今日はデザートもお付けしていますので、楽しみにしていてください」
そう言って、腰を折って一礼すると、他の客の食器を下げに行った。
ズールは一時自己嫌悪に陥ったものの、今は既に、この宿屋のデザートがどの様な物なのかに興味が向いていた。
バルーム伯に命令され料理の再現のために遣わされたが、春の草花亭の料理は彼には良い刺激となった。結果としては良い方向に向かっている。それとは逆に、田舎者だと蔑んでいる者の料理を再現できない事に苛立ちを覚えているし、プライドまで傷ついてしまっているが。
今度はそんな葛藤をしていると、いつの間にかエミリアが料理を手にしてこちらへ向かって来ていた。
「お待たせしました。親子丼と味噌汁、デザートのクレームブリュレです」
テーブルの上へと食器を並べていきながら、メニューを告げる。
親子丼とデザートのクレームブリュレの組み合わせは、なんともチグハグな印象を受けてしまうが、これらの料理を食べたことのない人にとっては違和感などは全くない。
底の深い食器には、ご飯が盛られ、その上には鶏肉と葱を卵でとじた物がたっぷりとかけられていた。
「では、ごゆっくりどうぞ」
そう言って去っていくエミリアの事は、既に頭の中にはいない。今の関心事は、目の前にある料理である。
ズールは木匙を手に取ると、早速とばかりに親子丼へとその手を向けた。
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