第三四話天文十二年七月中旬『貪欲なるもの』
蒲原城――
富士川右岸、東海道を見下ろす小山の頂きに築かれた城である。
その周辺は高い山地と駿河湾に挟まれ、平野部は極めて狭く細い。
関東から遠江に抜けるには、ほぼほぼその足元を通過するしかないという、まさに要衝中の要衝である。
そして現在、富士川を境目とし、対北条最前線の城でもある。
その城主を務めるのは、蒲原氏徳。
蒲原家は駿河今川氏の初代当主、今川範国の三男・氏兼を祖とする由緒正しき家柄で、今は亡き父、蒲原満氏は、将軍足利義晴の直臣であり、伊勢盛時(後の北条早雲)とともに朝敵、足利茶々丸を討ち、堀越公方を滅亡させるなど功も挙げている。
また氏徳の姉は今川家現当主、義元の実母であり、つまり氏徳は義元の義理の叔父に当たる。
まさに一門衆の重鎮中の重鎮ともいうべき人物なのだが……
彼にあるのはその尊き血筋のみ。
それに見合う器量がないことは、当の氏徳本人がよくわかっていた。
武名を挙げることにも、地位や名誉にも興味はない。
「人生、楽しんだ者勝ちよ」
それが氏徳の座右の銘である。
ゆえに仕事の大半は、有能な城代に任せ、本人は酒に女、双六などすっかり遊興に耽る日々を送っている。
そしてそんな日々に満足もしていた。
とはいえ、どうしても彼にしかできない仕事というものが時々は舞い込んでくるものだ。
今日もそうだった。
「当主御自らお越しいただき、恐縮至極にございます」
その若武者を氏徳は大手門まで足を運んで出迎え、深々と頭を下げる。
若いとはいえ、相手は同盟国の正当な当主である。
しかも、動員できる兵力の大半を西に傾けている中、対北条への抑えとして三〇〇〇もの兵を率いて後詰めにきてもらったのだ。
万が一にも失礼があってはならない。
出迎えるとなれば、こちらも相応の格というものが必要であり、名義だけとはいえ、城主であり家格も高い氏徳の出番と相成ったのだ。
(まったく面倒くさい限りよ)
礼儀作法は一通り修めているが、堅苦しいことこの上ない。
さっさと終わらせて、最近可愛がっている妾と酒でも酌み交わしながらくんずほぐれつしたいところである。
頭を下げつつ、そんな不埒なことを考えていた氏徳であったが、
「ふふっ、義兄上たっての頼みだ。馳せ参じないわけには参るまい」
「ありがとうございます。当主義元に成り代わり、厚く御礼申し上げますぅ!?」
顔を上げ、その若武者と視線があったその瞬間だった。
ぞくぅっと背筋が冷たく凍りつき、語尾が甲高く跳ね上がってしまう。
落ち着いた耳心地の良い玲瓏とした声だった。
顔立ちは整っており、その表情も柔和、目も涼やかで深い知性の光をたたえている。
いかにもな好青年なのだが、氏徳が直観的に感じたのは、人の形をした猛獣がそこにいる、というものだった。
「どうなされた?」
「い、いえ、どうも体調がすぐれないようでして……」
まさか貴方が怖くて仕方ないのですとは口にできず、氏徳は言葉を濁す。
若武者は納得したように頷き、
「そんな中での無理を押しての出迎え、心より感謝する。役目は、もう十分に果たした。疾く休まれるがよい」
優しさに満ちた言葉を述べてくる。
声も温和で慈愛をたたえ、こちらへの敵意など一切感じない。
だというのに、氏徳の心音は落ち着くどころか加速を続け、顔から脂汗がだらだらと次から次へと噴き出してくるのだ。
「は、ははっ。も、申し訳ありませぬが、お言葉に甘えさせて頂きます。おい、そこの。後の事は任せたぞ」
氏徳は一も二もなく若武者の申し出に飛びつき、一目散にその場を後にする。
歓待さえろくにできないのか、と家中の評価がさらに下がりそうだが、そんなことはもはやどうでもよかった。
氏徳は今でこそ楽隠居を決め込んでいるが、伊豆討ち入りや花倉の乱、河東の乱と、死線だけは幾度もくぐってきている。
だからこそ、わかるのだ。
危険の臭いが。
この男からは、これまでくぐった修羅場以上の、かつてないほどの超特大な危険を感じるのだ。
(あれが武田の若き新当主、武田晴信か……っ!)
氏徳は足早に足を進めながら、ごくりと唾を飲み込む。
実の父である信虎を策を弄して国外に追放し、力づくで甲斐の国主の座を奪い取ったような男だ。
一見柔和そうに見えても、そんな男が只者であろうはずがない。
君子、危うきには近寄らず。
とっとと退散するのが吉というものだった。
……。
…………。
「ずいぶんと怯えさせてしまったな」
案内された城内の一室で、若武者――武田晴信は嘆息する。
「なかなか勘の鋭い御仁でござる。御屋形様の漏れ出でる覇気を感じ取ったのでしょう」
そう答えたのは、まさに異形と呼ぶしかない小男である。
鼻は低く、ネズミのような出っ歯が目立つ。
顔には無数の刀傷があり、右目は潰れている。
残った左目も達磨のごとくぎょろっとしていて、見る者を威圧する。
総じて気味が悪く醜悪といっていい容姿ではあるが、晴信は気にせず小男を見据えて言う。
「これでもできる限りは抑えたつもりなんだがな」
「御屋形様の覇気は尋常ならざるものなれば。抑えたところで抑え切れるものではござりませぬ」
「そうか。まだまだ修行が足りぬな」
「いえ、隠形自体はなかなかのものだったかと。並みの者ならば気づきますまい」
「それならばよいのだがな」
やれやれと晴信は苦笑をこぼす。
彼の治める甲斐国は、四方を高山に囲まれた内陸国である。
可耕地は中央に広がる甲府盆地ぐらいであり、農業の収穫量は決して高いとは言えない。
その上、度々、河川の氾濫に見舞われがちなため、安定もしない。
一応、対等な同盟を結んではいるが、二カ国の太守である今川家との国力差はいかんともしがたいものがある。
なにより――
晴信は立ち上がり、スッと障子戸を開け放つ。
その先に広がる光景に、晴信は惚れ惚れと感嘆の吐息をつく。
「やはり壮観というしかないな。海は……っ!」
蒲原城に登るかたわら、生まれて初めて目にしたが、とんでもない広さである。
彼が知る富士五湖などとは比べることすらおこがましい。
改めて見ても、その威容には、ただただ息を呑むしかない。
しかも、だ。
「あれら全てが塩の元なのだろう? どれだけでも採れるではないか。少しでいいから分けてほしいものよ」
狂おしいほどの羨望とともに、晴信は忌々しげに言う。
内陸国である甲斐では、塩が採れない。
ゆえに沿岸国からの輸入に頼らざるを得ない。
今は今川家からの輸入にほぼほぼ頼りきりだ。同盟国ということで、安く卸してもらってもいる。
だが言い換えるならば、今川家の機嫌を損ねれば、塩の値を吊り上げられたり、最悪出荷を止められるかもしれない危険をはらむ。
それは武田家としては非常に困る。死活問題とさえいえる。
塩は人が生きていく上で必要不可欠な戦略物資だからだ。
ゆえに過度に警戒されるのも、不興を買うのも晴信の本意ではなかったのだ。
「分けてほしいといえば、我が国にも鳳雛が生まれてくれぬものか」
織田の鳳雛の雷鳴は、すでに甲斐国まで轟いてきている。
人の噂には尾ひれはひれが付くものであるが、それを差し引いてもとんでもない。
鳳雛が開発したという器具のいくつかを入手したが、どれも画期的すぎる代物であった。
素戔嗚の神託を得た、という話もあながち法螺ではなさそうである。
かの人物ならば、きっと貧しい甲斐国さえ豊かにする術を知っているに違いない。
海と同じぐらい、喉から手が出るほど欲しい人材だった。
「はははっ、武田家には御屋形様という鳳雛がすでにお生まれではありませぬか」
隻眼の小兵が言うも、晴信はつまらなさげに眉をひそめる。
「世辞はいらぬ」
「決して世辞ではござりませぬ!」
語気を強めて、隻眼の小兵はきっぱりと言い切り、
「以前にも申し上げた通り、拙者、日ノ本の北端から南端まで渡り歩きましたが、御屋形様ほどの器量の持ち主には、ついぞ出会うことはできませなんだ。御屋形様の器量はこの日ノ本さえ呑み込み平らげるほどと拙者は見込んでおりまする!」
もしこの場につやがいたならば、この者の慧眼に瞠目したに違いない。
武田晴信、入道してからの名は武田信玄。
軍神上杉謙信との五度に渡る激戦は、二一世紀でも語り草となっている。
じわじわとではあるが、北への領土を広げた事実を鑑みれば、軍神にも競り勝っていると言えよう。
史実において二〇万石足らずの大名から最晩年には一二〇万石にまで版図を広げ、もし越後に上杉謙信という希代の名将が立ち塞がらなければ、あるいは信長に代わり天下を獲ってさえいたかもしれぬ。
人呼んで甲斐の虎。
後世では戦国最強とも評された漢である。
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