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最終章 『今、隣にいる女の子』

過去がズタズダのボロボロでも。


人々に髪の毛から足の爪先まで否定されてても。


死ねと言われても。


死ねと言いたくなっても。


この憎たらしい世界に対して。


好きな人が隣にいるならば、もう何も言うまい。


最終章 『今、隣にいる女の子』


タイムマシンの電源を切って、過去改変の内容を書いた手紙を男性は破り捨てた。


君は、そのままで大丈夫。


未来は、未来の僕が変えるから。

Every Jack has his Jill.(全てのジャックにジルはいる。)


/


後輩「モテ期を小中高時代に使いきり、大学生になってからは付き合っても長続きせず、自分が社会不適合者であることを悟った僕は何を糧に生きていけばいいんでしょうかね」


後輩は飲んでいたビールを飲み干すと、ドンとテーブルに置いた。


いつぞやの誰かを見ている気がして心配だった。




仕事を終えた帰り道、後輩と居酒屋で二人で飲んでいた。


素直な人柄で、文章もいつも丁寧に書くような新卒の青年で、年上からかわいがられるタイプだった。


ただ、プライベートで何かあったのか、どうも荒れた様子だった。


後輩「教えてくださいよ。人生の先輩でしょ。僕は何を信じて生きていけばいいんですか?」


男「……言えることは1つだけだよ」


後輩「なんですか」


男「がんばろいっしょに」


後輩「…………」


/


男「俺と一緒にがんばるんだよ。がんばるっきゃない」


後輩「…………ええー。ええー」


男「今、頭の中に100人のヲタクが並んでいるのを想像してみてくれ」


後輩「なかなか嫌な想像をさせますね」


男「このうちの9割が、小学・中学・高校・大学時代のいずれかに、美少女といい感じになったことがあるって言ってるところを想像してくれ」


後輩「僕と一緒にしないでくださいよ。それはさすがに勘違いでしょう」


男「いや、それが違うんだ。彼らは本当に、美少女と結ばれる寸前かと思うような、いい雰囲気の時間を過ごしていたんだよ」


男「でも、みんな、何も起きなかった。そこで何かが足りなかったと後悔する」


男「『あの時ああしていれば』『告白してさえいれば』。みんな過去に目を向ける」


後輩「そういう過去に足元を救われた人はどうすればいいんですか」


男「今を、幸せにするんだよ」


後輩「……はぁー」


男「違うと思う?」


後輩「過去が不満だから今を幸せに感じられないんですよ。あの時手に入れたかったものを、今手に入れても駄目なんです。あの時手に入れたかったものは、あの時手に入れなければいけなかったんです」


後輩「そんな自分だから、今何も手に入れられないんです。仮に今何かを手にしても、過去に手に入れられなかったものを嘆くに決まってます」


男「嘘なんだ、それ全部。びっくりするだろうけど、それ全部嘘なんだよ」


後輩「何を根拠に」


男は思考を整理した。


/


後輩は、最近まで付き合っていた人と別れることになり、そのことで悩んでいるだけに見えた。


本人も今一時的に沸いている感情の愚痴をちょっと聞いてほしかっただけなのだろうとも想像した。


でも男は、平成最後の夏にレンタル彼女から教わった、今までの自分に起きた経験で学んだことを話したいと思った。


今は、支離滅裂な、的を射てない回答に思えても。


これから話すことは、きっと今後、心の支えになると信じて。


男「100%の異性なんていないんだ」


男「過去から現在まで満たしてくれるような、完全な女の子なんていない。運命の人なんていなくて、運命を思わせる容姿を持つ女の子がいるだけだ」


男「それに、限りなく完璧に近い女の子がいたとしても、結ばれるには自分が過去から現在まで異性を満たしてあげられるような、完全な男の子でなければならないんだ」


男「だから、せめて、今、自分が100%を目指す男の子になるんだよ。運命の人を探すんじゃない。自分が誰かの、運命の人にふさわしい人になるように努力するんだよ」


男「それは決して、自己犠牲を意味するんじゃない。自分が見下すような異性に尽くすことじゃない。自分自身を尊敬している自分と、自分自身を尊敬している異性と出会うことだ」


男「『自分を救ってくれる運命の人なんていない。だから、自分が誰かにとっての運命の人になろう』。そう思ってひたすら自己を磨き続けた二人の男女が出会った時に、始めて運命の出会いになるんだ」


後輩「お互い磨きあっていく関係なんて嫌ですよ。疲れてしまいそうで」


男「そんなことはないよ。出会うまで自分を磨いたお互いは、もう相手に要求することはないから、一緒にいて疲れないんだ。満たした状態で出会うんだから」


後輩「筋肉フェチの女の子と結ばれてしまったら、一生筋トレしなくちゃいけないんじゃないですか」


男「自分が一度でも達成できたことは、女の子にもてる云々関係なしに、自分を好きになり続けるために一生やっていくことだと思うよ」


男「それにさ、いやいや受験勉強を乗り越えた人、いやいや運動を乗り越えた人、いやいや恋愛を乗り越えた人は、それでも身体の中にそれを乗り越えた痕跡が一生残り続けるものだよ」


男「過去の100%の異性を求めて生きるんじゃない。未来の100%の自分を求めるんだよ」


/


男「この会社に転職した頃さ。一時期休日にボランティア活動をしていたんだ」


男「そこで俺のことを好きになった女子大生がいた。華道や書道に通じていて、やさしい性格だ。おまけに顔もスタイルもよかった。過去に男の子から2回告白されたことがあるけど断ってた。まだ誰とも付き合ったことがないって言ってた」


後輩「その子のこと、好きになったんですか」


男「逆だった。好きになられた。俺がその当時付き合ってた彼女と別れたことを知ってからは、一層激しく好意を示された」


男「その子は一人で美術館に行くような子だった。美術館からの帰り道、俺を思い出すだけで泣いてしまったと言っていた。ボランティアの予定も全部俺にあわせた。読書を好まない子だったけど、俺が勧めた分厚い本を全部読んだ」


男「俺はその子と何回かデートをした。他のメンバーの女の子も俺らを見てからかってきた。その子も、俺に告白されるのは間近だと思っていたと思う」


男「でも、俺は仕事や他のプライベートが忙しくなったこともあって、そのボランティアをやめた。それきり連絡さえ取らなくなった」


後輩「なんで、付き合わなかったんですか?」


男「運命じゃないと思ったからだ。会話に惹かれるものがなかった」


後輩「さっきの先輩の話と矛盾してるじゃないですか。その子は努力家なのに、先輩と結ばれなかった」


男「努力に見合った出会いがあるんじゃない。魅力に見合った出会いがあるんだ。努力は魅力をあげるための手段にしか過ぎない。そして俺は、その子を魅力的には思わなかった」


男「俺みたいに全然モテなかった男でさえ。顔もスタイルも育ちもいい女の子が相手でも、付き合うのはなんか違うと思ったんだ」


後輩「どこが不満だったんですか」


男「会話に満足がなかったんだ。この子が俺を腹を抱えて笑わせたり、俺を感動させる言葉を吐くことは一年に一回もないと思ったんだ」


/


男「一年ほどして、偶然ボランティアの人達と出会った。みんなで飲むことになったけど、その子は全然俺の顔を見ようともしなかった。とてもつらそうだった」


男「でも俺は、罪悪感とか、同情心とかわかなかった。だって、運命の子じゃないからだ」


男「その時思ったよ。俺が過去に特別な感情を抱いていた女の子たちも、きっと同じだったんだって」


男「女の子にとってはたったそれだけのことが、男の子にとってはすべてだったりする。男の子にとってすべてだったことは、女の子にとってはたったそれだけのことにしか過ぎなかったりする」


男「彼女にとっては訳がわからないだろう。美しくて、育ちも良いその子と一緒にいるときの俺は笑顔だったんだから。俺からデートに誘ったこともあった。俺が弱音を少し吐いて、頭をその子の肩にもたれかからせたこともあった」


男「プレゼントもした。手はつないだけど、胸や尻は安易に触ろうとはしなかった。バレンタインのチョコを満面の笑みで受け取った」


男「人は人から嫌われるのを恐れる。人は人から好意を受け取るのを喜ぶ。俺もその当たり前の本能に従ったにすぎないんだ」


男「過去が100%足り得るのは、それが100%自分の所有物だからだ。誰かと分かち合っているものじゃない。試しに、本人に答え合わせをすればいい。あの時君はどう思っていたかって」


後輩「……救われないですよ。仮に、当時好意があったことを否定されようが。仮に、肯定されようが」


男「でも俺はこう思うんだ。今、俺が当時いい感じの雰囲気になっていた子に当時のことを聞いても、そんな特別に思っていなかったって否定するだろうけどさ」


男「でも、当時のその子は、本当に自分を特別に思ってくれたんだって。こんなのストーカーの思考みたいかもしれないけどさ。でも、やっぱり結ばれていた可能性は0ではなかったと思う」


男「女の子は、今を生きるために思い出を修正するんだ。その才能があるんだ。当時好きだったことをさっぱり忘れて、今となりにいる人を好きになることを考えるんだ」


男「だから、俺たち男もがんばるんだよ」


後輩「何を?」


男「今をだよ。俺もいっしょにがんばるからさ」


後輩「先輩は彼女いるじゃないですか。付き合って3年目でしたよね」


男「先月振られたよ」


「ええー!?」


/


これだけは譲れないってことを譲ろうとすることは、絶望だって思われがちで。


自分より高学歴なのが気になるだとか。


処女じゃないと嫌だとか。


他人にとっては些細なことでも、本人にとっては致命的に重要なことはたくさんあって。


やっと出会えたと思った人が、その基準を満たしていないばっかりに、ストレスの頭痛で駅のプラットホームで倒れるくらいに苦しむこともあるかもしれないけど。


でも、これだけたくさんの異性がいる世界で。


それでも、この人じゃなきゃ嫌だと思える人と出会って。


そして、そこまで愛しく思った人と別れる日なんかも訪れて。


数年前に自分が抱えていた不幸の尺度なんか、この世界を覆うもっと巨大な不幸から極一部を切り取ったものに過ぎなかったっていう絶望だと気付くことがある一方で。


ここからここまでが全部だって勝手に決めつけていた幸福の尺度が、この世界に隠れているもっと巨大な幸福の極一部を切り取ったものに過ぎなかったっていう希望に気付くこともある。


毎日頭を掻きむしるほどに恋人に対して悩んでいることが、3年後にはなんともなくなっていることもあれば。


あの頃は当たり前だと思っていた恋人のやさしさが、3年後にはどんなに有り難いことだったか悔やむこともある。


人生だ。


僕らが生きてるのは、ハッピーエンドかバッドエンドの決まった物語ではなくて。


1秒1秒、自分に感情の降り注ぐ、誰かと繋がっている命の時間だ。


10代の青春を救うなんてこと、不可能だったのかもしれない。


だけど、20代後半になってから、10代の不幸にまるごと感謝できるような、大好きな異性や、自分と出会えるかもしれない。


素直に幸福に憧れを抱いて、ちゃんと求め続けていれば。


高い木から、いつか葡萄は落ちてくる。


/


男「電車止まっちゃったみたいですね」


電光掲示板を見て、男と、協力会社の女性は困った表情を浮かべた。


「動き出すまでまだ時間がかかりそうですね。男さんは確か、東京駅方面でしたよね」


男「ええ。しょうがないですから、近くのカフェで休憩でもしませんか」


「カフェですか?」


男「ええ。あっ、でも奢りませんよ」


「別に期待してないですよ。そうしましょっか」


男は混雑する駅から出て、女性と会話しながら喫茶店を探した。


女性にこういった提案をすることにもはや何の抵抗もなくなっていた。


本気の恋心を数多の女性にぶつけては拒絶されてきた男にとって、女性をお茶に誘うくらい大した意味を持つ行動ではなかった。


下心の積み重ねの結果、下心無しにこういう文句を言えるようになったのはなんとも皮肉なことだった。


/


男「江川海岸に行ってきたんですか。聞いたことあります。確か、時期が合えば南米のウユニ塩湖みたいな景色が見られる場所でしたよね」


「はい、そうなんです!男さん、本当に観光名所にお詳しいんですね。旅行がお好きなんですか?」


男「ええーっと、友達が旅行好きで、よく話を聞いてたりしたので……」


「男さんは、休日は何をされているんですか?」


男「休日は」


美術館に行ったり、映画館に行ったり、展示会に行ったり、割とどこにでも行きますよ。


という、何十回も使い古したルーティンのセリフを思わず言いかけて、男は飲み込んだ。


男「何もしていないんです。土曜日も日曜日も、家でごろごろしています」


「そうなんですか。私も少なくとも1日は家でゆったりしないと疲れちゃいます。でも、ずっと家に閉じこもってると煮詰まっちゃいませんか?」


男「一時期、土曜日も日曜日も、平日の夜もほとんど、社外の人と会っていた時期があったんです」


「まあ、熱心ですね。社外交流会ってやつですか」


男「あはは。そんな感じかもしれないです」


女「でもそれって疲れちゃいませんでしたか?」


男「正直疲れちゃいました。色々壁にもぶつかって、頭痛がやまない時期もありました」


女「そこまでなるくらいなら、早くやめちゃえばよかったのに」


男「ええ。きっとそれが正解なんですよね。頑張るのをやめること。手に入れる気持ちを手放すこと。今の時代は、こういう価値観を肯定してくれる風潮もあるように思います」


「あら、なんだか大きな話ですね」


男「でも僕は、今までないがしろにしてきたものを大切にしようと思ったんです。」


/


男「ずっと欲しかったものって、実は大してほしくなかったものなんじゃないかと思います」


男「だって、本当に欲しかったら、多分僕はそれをとっくに手に入れていたんです」


男「努力をしてまでは手に入れたくなかったり、世間体を乗り越えてまでは手に入れたくなかったり、プライドを傷つけてまでは手に入れたくなかったものなんです」


男「でも僕は、本当に欲しかった人間関係があったんです。だから、それが本当に手に入るという希望があることを自分に示してあげるためにも、ちゃんと一度は手に入れようと頑張っていたんです」


「苦労されたんですね。その人間関係は手に入れられたんですか?」


男「はい、手に入れました。そしてそれは、自分が思い描いていたものより、素晴らしいものでした」


男「理想はこの辺で、現実はこの程度なんだろうなと予想していたのですが、理想の予想を上回るくらいに素晴らしい日々だったんです」


「今は続いていないんですか?」


男「終わってしまったんです。輝かしい日々を当たり前のものだと思うようになった頃、僕の浮気が」


「うわき?」


男「あっ、僕の気分が浮ついて、だめにしてしまったんです」


「もったいないですね」


男「本当に愚かです。どうかしていました。今は心底反省して、休日は引きこもりになったくらいです。欲望を求め続けた僕のバブル時代の話でした」


「平成も終わったのに、昭和に戻ったみたいですね」


/


しばらく男と女は会話をし続けた。


女は楽しそうに過去の出来事を語っていた。


男は携帯電話を開いた。


男「電車の運転再開しているみたいですね」


女も携帯を開いて、驚いた。


「嘘っ、もうこんな時間。あはは、私、なんで小学生時代の思い出まで語っちゃったんですかね」


男は会計を多めに支払い、カフェを出た。


駅まで近いルートを通ろうと、行きとは異なる道を歩いていった。


狭い道路を歩いていると、信号にある交差点についた。


青信号が点滅していたが、男は立ち止まった。


それに合わせて女性も立ち止まった。


車が通る気配はなく、他のサラリーマンは左右を見てはどんどん渡っていった。


「男さん、急いでますか?」


男「急いでます。あなたは?」


「急いでます」


と、お互い会話をしたものの、二人は青信号に変わるまで待ち続けた。


/


「赤信号で止まる人なんですね。珍しい」


男「赤信号は立ちどまるものですから。みんな忘れていますけど」


「私は母親が信号無視で引かれたことがあったそうで。信号については厳しい教育を施されてきたんです」


男「僕は逆でした。新卒時代まで信号無視魔でした」


「何か変わるきっかけでもあったんですか?」


男は女性の質問には答えず、周囲のサラリーマンを見渡した。


男「急ぎ足で渡っている人達、みんな必死の形相だ。時間に間に合わないと、客か上司から殺害されるとでも言わんばかりに。急がないと生命がおびやかされるから、みんな赤信号でも渡るんだ」


女「とんだ皮肉ですね。赤信号を待つほうが危険だなんて」


男「赤信号で立ち止まるために、人間は生まれてきたというのに」


「そうなんですか?」


男「会社の中で落ち込んだ人がトイレで泣くのと一緒です。会社の外で落ち込んだ人は、赤信号で一休みするんです」


「うちの母が聞いたら喜びそうなセリフ」


信号は青に変わった。


男は、右を見て、左を見て、右を見た。


男「さ、急ぎましょ」


「ええ」


赤信号、二人で待てば、怖くない。


/


男「…………」


「…………」


次の信号も赤だった。


「ここで無視したら負けですからね」


男「わかってますよ。来た時のルートの方が信号にかからずに済みましたね」


「責任を持って何かお話してください」


男「ええーっと。じゃあ、大学時代の卒業旅行はどちらに行かれましたか?」


「行ってないんです。サークルメンバーと行く予定だったんですが、インフルエンザにかかってしまって」


男「そうなんですか」


「嘘です」


男「えっ、嘘なんですか」


「インフルエンザが嘘です。仮病で休んだんです」


男「どうして?」


「今となってはわかりません。みんなのこと普通に大好きだったのに」


男「病気は身体からのSOSだって言いますから」


「仮病ですよ」


男「仮病は、本物の風邪なんかよりも、よっぽど重い症状の病気なんです」


「初耳です」


男「仮病で休むのは仕方ないんです。元気な身体にも関わらず、動きたくないってことなんですから」


「仮病は心からのSOSですか」


男「はい。それは唯一、医者が見抜いてはいけない病気なんです」


「見抜くとどうなっちゃうんですか」


男「僕は見抜いて色々言った後に死ねって言われたことがあります」


「あら、怖い」


/


「それで私は。結局、九州に一人旅に行ったんです。ろくに計画も立てずに、行き当たりばったりで」


男「そうなんですか。どこらへんに行ったんですか」


「場所は……」


女性は訪れた場所を淡々と述べた。


信号が青に変わった。


男は立ち止まったままだった


「男さん、渡らないんですか?」


女性に言われ、男も歩き出した。


男「僕もそこ、行ったことがあります。祖父母の実家があるところなので」


「凄い偶然ですね。学生時代にですか?」


男「無職の時代にです」


「えっ、無職?」


男「はい。新卒で勤めた信用金庫をやめて、貯金を食いつぶしながらぷらぷらしていた時期があったんです」


「嘘、意外過ぎます。」


男「今の僕を見たら誰も信じないと思います。その前に、誰にも話してもいませんが」


/


男「あそこでは、何もすることなかったでしょう?」


「そうですね。観光地域でもなかったものですから。旅行プランでも申し込んで観光名所を旅しておけばよかったと正直思いました」


男「大きなショッピングモールはありましたか?」


「はい。そこで時間を潰したり、近くの図書館で読書したり。都内でもできるようなことばかりしてました」


男「他には何かしましたか」


「ええーと。映画を観てました」


駅前に着いた。


横断歩道が一つあったが、信号は青色を示していた。


信号の先はもう改札で、すぐにでも別れてしまいそうだった。


女性の歩く速度が少し緩んだ気がした。


しかし、信号はなかなか赤にならなかった。


男「もしかして」


男は何か言わなければと思って、次のセリフを探した。


「はい、なんでしょう」


男「その映画って、怒りの葡萄って映画でしたか?」


口に出した直後、最新の映画館でやってる訳もないと気付いた。


「ええーと、違いますが」


男「……そうですよね」


「違うのですが」


「それは私の一番大切な映画です」


二人は青信号の前で立ち止まった。


/


一瞬の沈黙が流れた。


信号は赤になった。


堰を切ったように、二人の言葉は溢れ出した。


お互いは自らを語ろうとし、お互いの話を引き出そうと夢中になった。


お互いの会話を貪るように求めあった。


次に青信号になるまでの、たった1分間の会話で、お互いは深く惹かれ合った。


赤い糸の存在など信じていないはずだったが。


赤い信号によって、二人は確かに結ばれることになった。


男「あの、よかったら」

「あの、よろしければ」


/


「今晩ですか!?」


男「うん。晩御飯でも」


「会社に寄らなければいけないんですけど」


男「僕もだよ」


「その後だと遅くなっちゃいませんか。平日は突然の残業入ることがあるので難しいのですが、週末は空いていますよ」


男「今晩行きたいんだ。こうすればいいよ」


男は会社に電話をかけた。


「何を……」


男「ごほっ、ごほっ……もしもし、男です」


男「あの……電車の運行待ってる間に体調を崩しちゃって……」


男「はい……すいません。このまま自宅に帰ります」


男「……ええ、ありがとうございます。失礼します」


男は携帯をきって、女性を見た。


男「簡単でしょ?」


「……うわっ、信じられない。仮病を使うなんて」


男「そっちだって卒業旅行の時に使ってたじゃないですか」


「今は社会人です。仮にも、協力会社の相手にそういう姿を見せてもいいんですか?」


男「いいよ、普段は休日にも仕事を持ち帰ってるくらいに頑張ってるし。それにさ」


男はカバンから黒いノートを取り出し、ぱらぱらとめくり始めた。


「それに?」


男「今の会社、辞めるつもりなんでしょ」


女性は口を開けていた。


「どうして……」


男「治療の大いなる第一歩は、病名を告げられることなんですよ」


男「辞めたいけど頑張らなくちゃいけない病も、これで、楽になったでしょ?」


/


「あの、そこに私の会社の企業秘密でも書いてあるんですか?」


男「個人情報なのでお答えできません」


「その前に私の情報でしょ……」


男「いいから。ほら、はやくして」


女はしぶしぶ携帯電話を取り出した。


/


女性はぎこちない演技で通話をしたあと、携帯電話をしまった。


「やってしまいました……」


男「やっちゃいましたね」


「仮病をあなたにうつされたんです」


男「簡単だったでしょ」


「どうしてくれるんですか」


男「ごちそうするよ」


「割り勘でいいです」


男「早く行こうよ。ご飯食べて体力つけなくちゃ、来週からのお仕事に支障をきたすからさ」


「よくいいますよ」


男「どうも」


「男さん、いじわるで、悪い人ですね」


夕焼け小焼けのメロディが流れた。


小学生が帰路につく中、二人は一緒に食事へと向かった。


/


このままだと思っていた人生が。


ある日、全て、オセロのようにひっくり返った。


隣に誰もいないことを憂いては

「あの時ああしておけばよかった」

「こう言っていればよかった」

と後悔していた青春時代。


今、隣にいる女の子を見ては

「あのときああしておいてよかった」

「こう言っておいてよかった」

と安堵している今。


何もかもが叶わなかった10代は、その後生きていく70年間を全て否定してしまうのだろうか。


いや、そんなことはなかった。


たった一つを叶えた30才近い自分が、自分を救ってくれた。


自分が自分のヒーロになってくれた。


/


青信号で一緒に立ち止まった女の子と、付き合ってから2年ほど経った夏。


二人は九州の旅行先に来ていた。


図書館と、映画館と、公園と、スーパーと、およそ旅行にふさわしくない場所を二人でまわった。


今や老人福祉施設となった、かつての廃校も訪れた。


夜になって、二人で屋台を食べ歩きして、花火を見た。


旅館へと帰った男は、ばたりと布団に倒れ込んだ。


彼女「どうしたの?」


男「……疲れちゃった」


彼女「たくさん歩いたもんね」


男「…………」


彼女「こっちも暑くてしょうがないね」


男「…………」


彼女「……男?」


男「自分がこんなに弱い男だと思わなかった」


男は顔を彼女からそむけたまま言った。


彼女「どうしたの?泣いてるの?」


故郷の懐かしい匂いにやられ、男の心はすっかり参ってしまっていた。


男「やさしくしてほしい」


彼女「やさしくするよ?」


男「好きでいてほしい」


彼女「ずっと好きだよ?」


男「そばにいてほしい。だきしめてほしい」


男「……見捨てないで欲しい」


男は胸中をそのまま口に出した。


彼女は何も言わなかった。


/


沈黙が続いて、しまった、と思った。


必死で自分を取り繕って、修正して。


やっと好かれるような男になったというのに。


2年付き合っているとはいえ、年下の女の子に、どうしようもないほどの弱音を吐いてしまった。


男「ご、ごめん……何でも……」


男が起き上がろうとすると、上からそっと、柔らかく押し返された。


彼女「大丈夫だよ」


彼女はぎゅっと男の背中に抱きついた。


彼女「弱くないよ。大丈夫だよ」


男「……ううん、駄目かもしれない」


彼女「駄目でも、私がそばにいてあげる」


彼女「それなら、大丈夫でしょ?」


ヒロインが、手を握ってくれた。


/


男「彼女できたよ」


「嘘!?見せて!!」


男「はい」


「えっ、かわいい!!」


たった、これだけの会話をするためだけに。


何体の自分が倒れてきたことだろう。


倒れてきただけの日々の価値は未来に確かに存在した。




夏祭りを誰かと歩けなくても。


花火を見れなくても。


クリスマスも、初詣も、お花見も、なくても。


そんなことは問題じゃなかった。


大切なのは、今となりにいてくれる人と、ここで一緒に笑うことだ。


幸せにしたい人と幸せを分かち合うために、人生にあがいて今を一生懸命に生きていくことだ。





男はもう、他の女の子に恋をすることはなくなった。


過去にも今にも、理想の女の子はただ1人だけとなった。


理想的な、隣に現実にいる恋人。


その恋人もまた、男を代わりのいない人だと言った。



今という時間に導いた仄暗い過去を、愛おしく思ってしまう時は訪れる。


男の子の過去は。


今、隣にいる女の子に、一生救われ続けるのだった。


/


また異なる季節。


春も終わりかけた頃のこと。


二人は、旅先で見つけた果樹園を歩いていた。


早熟の葡萄が実っているみたいで、害虫よけの紙のカバーが取られていた。


彼女「わあー。高いところにも実がなってるね。色もマスカットみたいで綺麗だよ」


女は手が届かない高さにある葡萄を指さして言った、


男「あれは色がまだ薄いだけだよ。まだ熟してないんだ」


彼女「肩車したら取れるかな」


男「届くと思うけど」


彼女「取ってって言ったら取ってくれる?」


男「うん」


彼女「本当に?」


男「本当に取ろうと頑張り始めたら止めてくるくせに」


彼女「よくご存知で」


男「まあね」


彼女「別にいいよ。綺麗だけど、どうせ、酸っぱいよ」


彼女は笑うと、高所の葡萄を見上げるのをやめて、手の届く高さにある葡萄を見始めた。


その時、風が強く吹いた。


二人が先程見上げていた葡萄の粒が、ふさりと落ちた。


男は思わずそれを掴んだ。


/


彼女「ねえ」


男「うん」


彼女「食べてみよっか」


男「いいのかな?」


彼女「踏まれちゃうよりいいよ。あとでお土産用のも買お」


彼女はそうして、粒を半分噛んだ。


左手で顔を覆って表情を隠し、残り半分を男に渡した。


男は彼女の差し出した葡萄を口に入れた。


男「…………」


彼女「どう、甘い?」


男「ううん。すっぱい」


彼女「ねっ。すっぱいね」


男「なんだ。やっぱりすっぱかったのか」


僕らは小さな声で笑った。



~fin~



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