001.日常は闇に堕ちる
僅かに聞こえる鳥の声。
窓のカーテンにより僅かに漏れる柔らかな日差しが俺の顔を照らす。
呆けた頭で日差しを眩しく思い、目を細める。
そのまま緩慢な動きで顔を横に向け、そこにある時計を確認する。
……AM6:27。
目覚まし時計として鳴り響くのはAM6:30。つまり後三分。
「…………くぁあ~、……ふぅ」
たった三分だけで二度寝するはずもなく、欠伸と同時に呆けた思考を明瞭にするため大きく息を吐いた。それだけで弛緩した体に力が漲る感覚を覚え、いつも通りの朝を迎えられたと認識する。
ベッドから降りて、カーテンを開き全身に日光を浴びる。先ほどまで眩しかった日差しも、目が完全に覚めた今はただ心地よかった。
そのまま自室を出て洗面所へと向かう。
一階の洗面所は恐らく家族の誰かが使っているだろうとこれまでの経験で予想できるし、だから俺は自室を出てすぐ近くにある二階の洗面所をこれまで通りに使用する。
顔を水で洗い流し、ついでに髪も水で湿らせ寝癖を整える。
タオルで顔を拭いた後、歯を鏡で確認しながら磨く。
「……うむ、いつも通りの変わらないイケメン顔だな」
鏡に映った目の鋭い普通にイケメンな男がうがいをしながら呟いた。
洗面所を出た後は部屋に戻り、すぐに制服に着替える。
指定された制服はスーツのようでもあり、パリッとした感じが特に気に入っている。
しかし真夏である現在、上はシャツが普通だ。上着にスーツなんて他にはいない。
それでも俺はしっかりと上着を着込んだ。どれだけ暑かろうと関係ない、なぜなら好きだからだ。
「……ん、よし」
しっかりアイロン掛けまでした制服を着こみ、皺一つない様に満足する。
そうして一頻り準備も終わり自室から出て、朝食をとるために一階のダイニングルームへと向かった。
「あっ…………」
自室から出て廊下の角を曲がると、二階から一階へと降りるための階段で姉の花子と鉢合わせた。
小柄な体躯で、顔は前髪で隠されており表情はよく判らない。見た目小学生だがこれでも俺の姉である。
そして、その俺より二つ年上である姉は現在二十歳の社会人である。それも飛び級を重ね、この若さで医師の資格まで手に入れたことから相当の才能と実績があることが分かる。
そんな尊敬できる姉であるのだが、なぜか常に俺の前ではびくびくと怯えた様子を見せる。実は俺の高校の養護教諭をしているのだが、そこでは小動物っぽい性格により生徒に人気があり、そのお陰でよく囲まれているが怯えることはない。しかし俺に対してだけは反応が違うのだ。現に今も階段で俺たちはその場で固まってしまっている。
「……あー、おはよう、姉貴。今日もいい天気だな」
とりあえず朝の挨拶をするために声をかけるが、姉は一瞬だけびくりと体を震わせる。
「ぉ、ぉ、ぉはよぅ……、じゃ、じゃっくん……。……ぁぅ……」
顔を真っ赤にしながら震えた声で何とか返事をするがすぐにくるりと体を翻らせて、とててててーと、逃げるように階段を下りて行った。
俺の前でどれだけ緊張しているのだろう、とか、何も逃げるように急ぐこともないだろうと思う。それでもやはり毎回最後に思うのは――。
「――なぜ俺はこんなにも姉貴に怯えられているのだろうか……?」
「――おはよう。あれ、姉貴は?」
ダイニングルームにやってきた俺は、辺りを見渡して先ほど逃げられたばかりの姉の姿がないことを不思議に思い、食卓に着いていた親父の雅保竜に問う。
「ん? おぉ、邪悪か、おはよう。花子ならついさっきすごい勢いで家を出て行ったぞ」
新聞片手に飯を食うという大変行儀の悪い食べ方をする親父の前に俺も椅子を引いて座る。
それはそうと、やはり今日も姉はさっさと家を出てしまったようだ。
「そう、なのか……、はぁ……」
重い溜息を吐く俺を親父はちらりと視線を一度向ける。
「そろそろ仲直りしちまえよ、よく分からんが」
「仲直りも何も、喧嘩なんてしてねぇよ。俺だってどうしてこうなってんのか知りたいくらいだ」
姉とはもう5年以上まともに会話していない。
それどころか最近なんか露骨に俺は避けられている気がする。
だがしかし、そんな俺の苦悩を親父はどうでもよさげに流す。
「ふ~ん、そか。なんか大変そうだな、頑張れよ」
そもそもの話、これは我が霧崎家の伝統にも遡る。
霧崎家は代々大変特徴的な名前を付ける。
親父の名の雅保竜然り、お袋の芽出勇者然り。
姉だけは花子という普通っぽい名前だが、それも今では滅多に使われず特徴的だ。
俺の名前も気づいている者もいるとは思うが、霧崎 邪悪という。
最悪だ。
最悪だろ?
最悪なんだよ!
姓名の組み合わせも、使われている漢字も何もかもが最悪だ。
気づいたのは幼稚園頃。
姉が飛び級するほど頭が良かったように、俺もそれと同等レベルの頭脳を有してしまったのが運の尽きだった。
ある日他の園児に交じって遊ぶことに疲れ、適当にそこらに置いてあった書物を読みふけっていた。
そんな時に偶然見つけてしまったのだ。
1888年にイギリスで連続発生した猟奇殺人事件。
そしてその犯人の通称。
切り裂きジャック。
俺の名前は?
霧崎 邪悪。
「…………」
幼いながらに思った。
霧崎家の伝統も大概だが、両親もふざけんな。
そうして始まるのは俺の憂鬱な日々。
今まで見ていた光景が完全に変わってしまい、小学校入学前には悟りを啓くほどだった。
自分自身がトラウマを克服したとしても、次に待っていたのは同世代の心無い中傷。
いつしかこの世界の何もかもが信じられなくなるほど精神をすり減らしてしまった。
それでも何とか立ち直れたのは、数少ない今では心の底から信頼している人たちのお陰だ。
そしてその一人が姉の花子なのだ。
今でも忘れられない。
当時から小さな体を精一杯張って、俺を守り、助けてくれたことを。
普段は俺の陰に隠れるほど臆病な性格なのに、いざという時は誰よりも勇敢な姉のことが俺は好きだった。
それが最近ではなぜか目を合わせてもすぐに逸らされるわ、逃げられるわで、俺も物凄くショックを受けるのはある意味当然とも言えるだろう。
「あら? どうしたの邪悪。気難しい顔して」
暫くすると、キッチンの奥からお袋の芽出勇者が出てきて俺の様子を不思議に思いながら声をかけてきた。
「あぁ、そいつが花子と喧嘩したみたいでさ――」
「だから喧嘩なんてしてねぇっての」
そんな俺の抗議を無視して親父はお袋にあることないことを告げていく。
その度に俺が親父に抗議をしまくり、そうして最後まで一通り聞き終わったお袋は何やら頷いて俺に言う。
「なるほどね。確かにもう夏休み直前だし……。邪悪としてはどうなの? 仲直りを今すぐにしたいと思っているのかしら」
「……できるのか?」
「えぇ、そのための方法もいくつかあるわよ」
お袋の言葉に俺は大きく驚く。
今までの姉を見ていると、例え第三者を交えても俺に怯えている限りどうしようもないと思っていたからだ。
それをいとも容易く、それもいくつも方法があると言うお袋に驚かないほうに無理があった。
「それで? どうする?」
再びお袋が俺に聞いてくる。
どうやら俺が少しだけ黙っていた時間を教えてもらうかどうか悩んでいたと思われていたようだ。
失礼な。悩んでいたのではなく普通に驚いていただけだ。
ということで、当然答えは始めから決まっていた。
「――あぁ、是非教えてくれ。いや、……お願いします」
利用できるものは全部利用してやる。
俺の返答に満足したようにお袋は笑った。
……
…………
………………
……………………
「――おはようございます」
登校中、すれ違う近所の人々に笑顔で朝の挨拶を交わしていく。
随分と慣れたことだ。
にこやかに挨拶をすることなど、本来の俺にとってはありえない。
それでも今ではこうして完璧に猫を被って生活することができている。
これも過去に名前のせいで起こったいくつかの悲劇のせいなのだ。
危険そうな名前のやつで愛想が好い方と悪い方、どちらがいいかなんて考えるまでもないだろう?
実際に当時、姉に猫被りをすることを教えてもらうまでは大変なものだった。
「姉貴、か……」
ふと呟いて、つい先ほどの家を出る前のことを思い出す。
「花ちゃんに避けられているんでしょう?ならもうこれしかないわね」
「どれだよ」
「逃げられるのなら……、逃げ道をなくせばいいの」
「つまり?」
「優しくその腕で抱き締めてあげなさい」
「……つまり?」
「花ちゃんは小さいからね~、邪悪なら簡単に捕まえられるでしょう?」
「…………つまり?」
「もう、分かっているくせに~。こう……ガバッと抱き締めて、優~しく撫でるなり甘い言葉を囁きつづけるなりしなさい。そうすれば花ちゃんもすぐに堕ちるわよ。後はもう流れに身を任せればいいのよ。男でしょう? それくらい最後までやり遂げて見せなさい」
「……………………つまりぃ?」
「え~、もっと言わないと分からない? 仕方ないわねぇ……、いい? 要は邪悪の手で花ちゃんを大人の女に――」
「――だぁぁぁぁああああッッッッらぁぁぁぁああああッッッッしゃぁぁぁぁああああッッッッ!!!! ったくッッ!! いい加減にしやがれッッッ!!!」
「? ……何がかしら?」
「何がかしら、じゃねぇーよッ!何でそんな話になってんだよ!しかも逃げられてんのに強引にとか思いっきり逆効果でしかねぇよッ!そもそも俺と姉貴は血のつながった姉弟だッ!それを何バカなこと言ってんだよッ!」
「そんなにひどいことを言ったかしら?」
「言ってるってのッ!」
「う~ん、でも間違ったことは言ってはいないつもりよ」
「どこがッ!?」
「今の話が多少急展開すぎていたとしても……」
「多少じゃねぇよ! 超急展開だよ!」
「まぁまぁ落ち着いて。それでね? 邪悪から花ちゃんに対してもっと強引にいくべきだと思うのは間違っていないと思うの」
「…………」
「今まで花ちゃんが逃げていくのをただ見送るだけだったり、原因を追究したりもしなっかたのでしょう? それはむしろ消極的すぎる邪悪がいけないわ」
「……確かに……」
「まずは試しに花ちゃんに日々の感謝とかでもしてきなさいな。今食べている朝食だって、実は毎朝花ちゃんも一緒に作っているものなのだから」
「そうだったのか……。……なるほど分かった、色々とありがとう。お袋」
思えば確かに俺は姉に対して常に数歩引いていたのかもしれない。
それに心からの感謝というものもいつからか口にしなくなっていた。
確かにこれでは完全に近寄りがたい人ではないか。
姉に避けられるのも当然だったんだな。
どんよりとした空気を漂わせてしまった俺は、そうしてお袋に言われて初めて気が付いたことに深く反省をした。
「――おっはよー! キリくんッ!」
表面上はにこやかに、内心はどんよりとした気分で道行く人々に挨拶をしていた時、後ろから俺に向かって駆け寄ってきた人物がいた。
「おう、おはよう。朝から元気だな、水萌」
篠原 水萌。それが数少ない俺が心から信頼できる幼馴染の少女の名前である。
丁度幼稚園にいた頃に出会い、家も近かったためかそれ以来ずっと一緒に行動するようになっていた。
一緒に過ごした親密度に関して言えば、実際に水萌は姉よりも上なのだ。
そのため今では何も口に出さずともお互いの考えを理解し合える間柄となっている。
「? どうしたの? 何か悩みでもあったの?」
だからこそ、水萌が俺の内心の葛藤に気が付くことも必然と言えるだろう。
「いや、悩み自体はもう解決しているから大丈夫」
「そう? ならいいんだけど……」
かなり誤魔化した事情に、若干納得がいってなさそうな顔をしていた水萌だったが、それ以上追究するようなことはなかった。
「あぁ、今はちょっとそのことについて反省しているっていうか……」
ふと水萌の顔を見ながら呟き、そこで再び反省内容について思い出す。
姉と同じように、昔からこの幼馴染の少女にもかなりお世話になっているというのに碌に感謝の言葉も口にしたことがなかったことに気が付く。
自分の迂闊さに対して、状況を忘れて呆然としてしまう。
「? って、今度こそどうかしたの!?」
そんな俺の様子に気づき、水萌が慌てはじめる。
「あ、いや……」
そうだ、呆けている場合ではない、今こそ反省点を活かすべきだと俺は考えた。
「……水萌」
「き、キリくん……?」
即、頭の中を切り替え、水萌を真剣な眼差しで見つめる。
頬を赤く染めた水萌に俺はその場で思ったことを口に出し始める。
「……水萌。いつもいろいろとありがとうな。水萌のお陰でこれまでの毎日がとても楽しく過ごすことができた。これからもいっぱい迷惑かけると思うけどよろしくな。水萌には本当に感謝してる」
俺の唐突なその言葉に、水萌は驚いたように目を見開き、次第に潤みはじめた。
「……き、キリくん……!」
最後に昔いつもしていたように頭を撫でてやると、感極まったように水萌が抱き着いてきた。
「おっと……、どうした? 水萌」
「……うん、うん! こっちこそありがとうだよ! 私もキリくんとずっと一緒で毎日すごく楽しかったよ! それと全然迷惑なんかじゃない! 私の方こそキリくんには感謝してるんだから!」
「水萌……」
不覚にも俺は水萌の言葉に感動のあまり言葉をなくしてしまう。
水萌も顔を真っ赤にしながら俺と見つめ合ったまま固まっている。
確かに感謝を言葉にすることは大切だとは思ったが、自分が受けてみるとまさかここまでの効果があるとは想像だにしなかったのだ。
やはりお袋の言っていたことは正しかったのだと再認識しつつ、これは早急に姉にも感謝の念を言葉にして伝えなければいけないと思った。
「……とりあえず、さ」
暫くして、互いを見つめ合ったままの状態を先に脱した俺は視線を水萌から外しつつ、まだ固まっている幼馴染の少女に声をかける。
「時間も少なくなってきたし……、学校へ行こうか」
「ぁ……うん」
返事は返したものの、それでも水萌は未だに夢心地の雰囲気から脱せないまま、俺の指示通りに登校を再開したのだった。
因みに、俺たちが感謝の言葉を告げ合った場所は一般生徒も多く使用する通学路の途中で、当然の如く大多数の生徒に目撃されていた。
後に別の意味で真っ赤になった水萌に、なぜあの時注意してくれなかったのかと責められるのだが、俺も完全に意識外だったので、最後に気づいて学校へと水萌を連れて早足に向かっただけで良しとしてもらいたい。
あの水萌との感動の最終回っぽい場面の後、俺たちは普通に学校へと着いていた。
見た目大和撫子の美少女だが性格が真逆の水萌は、そのギャップもあってか学校一の人気者である。
そんな水萌といつも一緒にいると、当然のように俺に対する妬みやら恨みもあるはずだが、そこは俺の猫被りでのキャラ作りによって同じくらいの人気を獲得している。
名前という弊害こそ、始めは常に立ち塞がっていたが、姉や水萌たちの手助けにより、俺もこれまで頑張れてこれたのだった。
高校三年になった今では全部が味方というわけではないが、朝の水萌とのことも笑って流してくれる人たちが俺の周りには多い。
実際にクラスに着いてからは、男女両方から水萌と共に朝の件についてからかわれた。
思えば随分と俺の周りもにぎやかになったものだ、と思ってしまう。
これまでの経験を考えれば仕方ないかもしれないが、実際に今の俺は満たされていた。
午前の授業を終え、昼食を水萌と机を寄せ合って食べ、そのことでまたクラス中から冷やかされたりし、そうして午後の授業も終え、放課後となった。
「じゃ、また休み明けにな! 霧崎」
「あぁ、またな、岡田」
「お疲れ様でした、霧崎さん」
「おう、委員長もお疲れ」
「夏休み中にでも遊ぼうぜ、霧崎っち!」
「今年は受験だから勉強でもしてろ、田辺」
夏休み前の最後の学校も今日で終わり、クラスメイト達と帰りの挨拶を交わし合う。
一段落して俺も帰りの準備を整えていると、水萌が近寄ってきた。
「あれ? 今日はもう帰るの?」
「あぁ、うん。その前に姉貴に用があるんだけどな」
「お姉ちゃんに?」
普段通りならばキャラ作りの延長として、放課後は水萌と一緒に色々な部活の助っ人などをして回っているのだが、今日は姉との距離を取り戻すための大切な用事がある。
こればかりは決して譲れない、だからこそ今から姉の所へ行かなくてはいけないのだ。
俺がそんな強い決意を抱いていると、水萌はどうやらすぐに察してくれたらしい。
「ふぅん……。じゃあ、今日は仕方ないね。私は助っ人の約束しちゃっているから、残念だけど今日は一緒に帰れないかな」
「悪いな」
「いいよ、全然。でも明日からの夏休みは学校もないし、キリくんの家に遊びに行ってもいいよね?」
「あぁ、それぐらいなら全く問題ない」
「うん! ありがと! それじゃあ、お姉ちゃんとのこと頑張ってね! バイバーイ!」
そうして満面に笑顔を浮かべて去って行った水萌を見送り、俺も教室を出た。
養護教諭である姉は、その名の通り保健室にいることが多い。
しかしこれまでの記憶から考えると、毎回、昼や放課後になると保健室を留守にして校内を散策し始める姉のことだ、今回もその可能性が高い。
そして案の定、保健室に辿り着いた俺が目にしたのは、現在留守中の看板。
「……うぅむ、毎回ながら姉貴はどこで何をしているんだ?」
仕方なく俺も姉を探すために校内を彷徨いはじめる。
所々で生徒達とすれ違い、その度に少し会話を交わしたり挨拶されたりしながら、着々と姉の目撃情報を募らせていく。
特徴的な容姿や小動物のような性格を持つ姉は、この学校では文字通り、男女問わずして可愛がられている。水萌とはまた違った人気者である。
当然接触は女子生徒に限られているし、男子生徒が姉に触れられるのは保健室での治療行為くらいだ。
そしてどうやら今この時間では中庭にて女子生徒達に囲まれてお菓子の餌付けでもされているらしい情報も手に入れた。
目的地も分かった。ならば後はそこまで行くのみ。
俺は急ぎ足で中庭まで向かった。
「は~い、花ちゃん先生。苺ショートケーキだよ~」
「……もぐもぐ……」
「喉乾いた? 乾いた? これジュースだから飲んで!」
「……むぐ……ん……」
「はぁ~、花ちゃん先生は相変わらず可愛いなぁ~」
「……んく……、……ぷはぁ……」
「……ぁ、あの……ごちそうさまでした……おいしかったです……、……でも、その……もうお腹一杯です……、……すみません……ぁぅ……」
「「「「「「キャァ~~~!! カワイイ~~~!!」」」」」」
中庭では予想通りの光景が広がっていた。
大量の女子生徒に囲まれて可愛がられている姉は少し困ったような、でも嬉しそうな顔をしていた。
初めて見たときは、それこそ誤解して無理矢理割り込んでいったこともあったが、見慣れた今では姉が楽しんでいることがよく分かる。
そうして暫く見守っている間に、お茶会も姉のギブアップにより終わりの兆しを見せ始める。
当然そのタイミングで俺も姉に近づくことにした。
「――――でね、聞いてよ花ちゃん先生。そこで――あっ、霧崎君」
「…………ぇ、……じゃっくん?……」
「おう、ご歓談中に失礼するよ」
楽しそうに喋っていた女子生徒の一人が俺に気づき、他の女子達も俺の方へと顔を向ける。
俺に気づいて笑顔で挨拶をしてくれたため、俺も片手を軽く上げながら応えた。
「珍しいね、霧崎君がこの中に入ってくるなんて」
「ん? そうか?」
「そうそう。確か最初の何回目かの時に顔色変えて飛び込んできたとき以来じゃない?」
「あぁー……、確かにあの時は事情も知らずにすまなかったな」
「いいよ、いいよ。それで今日はどうしたの?」
「あぁ、ちょっと姉貴に用があってな……ってあれ!?」
数人の女子と軽い世間話を興じ、目的を伝えて姉を見てみるがいつの間にか消えていた。
驚いて辺りを見回すと、遠く離れた廊下に姉の走り去る背中を見つけた。
「な……! いつの間に……。ちょっと悪いんだけど……」
「あぁ、うん。何かよく分からないけど行ってきなよ!」
少しだけ焦り気味の俺に女子生徒達がすぐに空気を読んで後押ししてくれる。
即座に軽く頭を下げるように頷き、俺も姉を追いかけ始めた。
夕日に照らされ、茜色に輝く校舎の中。
俺は全力で姉を追走していた。
時計は既にPM18:00時に差し掛かっており、夕方になろうとしている。
この時間帯を人々は逢魔時、または大禍時とも言う。
いずれにしろ不吉な、それと化け物が出現する時間帯だと考えられている。
そうすると今、俺から必死で逃げている姉の心境とはどんなものなのだろうか?
「……もしかして姉貴にとって、俺がその化け物や不吉な象徴として映っているのか……?」
ふと思いついたことに動揺し、思わずその考えが口から洩れてしまう。
いや、いやいやいや。
姉に限って、そんなことはないだろう。
俺と姉はこれでも昔は仲良しだったし、今になるまで怯えられる原因は不明だがそれでも俺から何か酷いことをしたことは一切なかったと、それだけは絶対と言える。
そうして不安を押し込めていると、階段を上る手前で姉が立ち止まり、こちらを振り向いてくれた。
ラッキー、ようやく立ち止まってくれた。
そのことに内心歓喜しながら、声を上げて姉に呼びかける。
「おーい! 姉貴、ちょっと――」
「――――ッ……!」
「――話が……って、え? なぜ!?」
しかし、無情にも姉は朝と同じように身を翻らせて走り去ってしまう。
心が痛い、痛すぎる。
物凄くショックだが、今のは俺が悪かったのだろう。
少し心配そうにこちらを窺う様子だったに、俺の大声で全身をびくりと震わせるほど驚き、反射的に逃げ出してしまったからだ。
普段ならば前髪に隠されて分からない涙目を妄想して心を癒すところだが、今は重大な要件がある。
拭え切れないショックを心に抱えながら、俺も階段を駆け上がって姉を追う。
「待ってくれ! 姉貴! は、話が! 大事な! 聞いて欲しい話があるんだッ!」
「…………」
「少しでもいい! 落ち着いて、聞いてくれ!」
「…………っ…………、…………ぃ…………」
「くっ、けほっ。……まずい、追いつけない……」
少し息切れながらも懸命に姉に向かって叫ぶ。
俺はこれでも平均よりもかなり高いレベルでの文武両道なのだが、それは姉にも言えることで、俺と同レベルの運動神経を持っている。
あの小柄な体型でかなり信じられないのだが、現に今は俺から逃げ続けてられているのが証拠だ。
そして今、俺は埒が明かないとばかりに、姉がわざわざ人がいない校舎を走ってくれているお陰もあり、半分やけくそになって叫んでいるのだ。
途中、姉が何かを言っていた気もしたが、それもすぐに霧散する。
今は知っている場所の詳細を思い出したからだ。
姉が走っている先には、屋上の扉への長い一本道しかない。
扉自体は行き止まり直前で曲がり角の先だが、どちらにしろこのまま行っても姉の逃げ道が潰されていくだけだ。
姉も焦っていて気づいていないのだろう。
だが俺にとっては嬉しい誤算である。
ここに来て、俺は叫ぶことも考えることも止めて姉を追うことだけに集中し始めた。
たったったったっと、規則正しくも慌ただしさを感じさせる二人分の足音が無音の校舎に響き渡る。
思えばこれほどまで必死になって姉に向き合ったことが、これまでにあっただろうか。
そう考えると朝にお袋が言った通りで、消極的な俺も姉に対して逃げていたのだろう。
廊下の行き止まり、つまり屋上前の扉まで残り20メートルを切った。
少なくともここで姉に対して積極的に向き合ったことで、昔ほどではないがそれなりに仲を戻せるという予感は持っている。
姉自身はまだ俺に怯え続けるのかもしれないが、俺からはこれまでと違って積極的に関わっていくつもりなのだ。
そのために必要なことも分かったし、覚悟も持っている。
残り10メートルを切る、姉が曲がり角を曲がった。
「…………ッ…………!?」
残り9メートル、姉が屋上前の扉に手をかけるが鍵がかかっていて開かない。
8、7メートル、焦って振り返り、一度曲がり角から顔を出して見るが当然のように俺が迫っている。
6、5メートル、俺と目が合い、遂に諦めたようで口元に苦笑いを浮かべ、疲れたように全身を曲がり角に隠して扉の前に座り込む。
残り4メートル、俺は一体どこの都市伝説のメリーさんなんだろうかと思いながら着々と距離を詰めていく。
残り3メートル、もうここまででいいだろうと思い、駆け足を緩めて歩き出す。
残り2メートル、呼吸を整えながら俺は最初の第一声を再び整理する。
残り1メートル、一度足を止め、目を閉ざし、深呼吸をする。そうして心と体を落ち着かせながら俺は一歩前に足を踏み出す。
残り0メートル、目を閉ざし、一歩踏み出した体勢のまま、ゆっくりと姉の方へと振り返って、静かに目と口を開き、最初の一言目を口から出そうとして――――俺は完全に固まった。
「――な……!」
姉がいなかった。
「何だ……ここは……、一体……何なんだ……!」
それどころか何もなかった。
「……姉…貴…?」
あるのはただの――――闇だけだった。
「ぉ、おい……、誰かいないのか! 誰か……!」
何も――――ない。
「姉貴ぃーッ! 水萌ぉーッ! お袋ぉーッ! 親父ぃーッ!」
音は闇の中を響くこともなく、また応える者もなかった。
「誰でもいいッ!! 誰かいないのかッ!!! 何かないのかよッッ!!!」
耳鳴りのように反響する自分の声しか認識することができなかった。
「……ちくしょうッ……! ……俺は……こんなこと望んじゃいねぇよ……」
全てが崩れていく音が聞こえた気がした。
◆ ◆ ◆ ◆
どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
体感的に何十年とたった、ような気がする。
俺はまだ――――動けないでいた。
ただ一つ――――心と体が堕ちていく感覚だけがあった。
それはどんどんと強くなっていく――――そんな気がしていた。
最早何も考えられない。
俺自身についても、次第に曖昧な存在へと変わっているような気がした。
それでも姉や水萌たちの顔が浮かんでくるたびに最後まで踏ん張れた。
だがそれでも時は無情で、終わりのない地獄を俺に与えた。
そうして、最後に俺は――――堕ちていた。
闇へ、闇へと堕ちていた。
堕ちていきながら、日常の崩壊がどれほど容易いものかを思い出す。
何てことはない。
一歩。
それだけだ。
踏み出した先に光がなかった。
振り返っても、ただ闇があるのみ。
何もない、完全なる闇だけだった。
何故こうなったのか。
知らない、分からない、理解できない。
ゆっくりと闇と同化していくように、日常からも切り離されたことだけは分かった。
そうしてついに闇の中を俺は堕ちていく。
深い、深い闇の中へと。
それでも。
それでも、最後には想わずにはいられない。
願わくは堕ちた先に光があることを、と――――。
ふと空白な思考に一つの疑問が生まれた。
いつしか心の中に生まれたその願いも闇に飲まれてしまうのだろうか、と。
思考を奪われていくことに恐怖した。
存在が薄れていくことに恐怖した。
大切だったものが、その思いが風化していくことに俺は恐怖した。
だがそれも仕方がない。
どうしようもなかった。
思えば俺の人生も諦めの連続だった。
本当に、どうしようもない。
頬に水が伝って流れていく感覚がある。
最後に姉に伝えたかった言葉も伝えられなかった。
それどころか皆とはもう会えないかもしれない。
全て悲しいがそれでも俺にはどうしようもない。
もう、終わりたい。
そうして俺は静かに意識を闇に沈みこませていった。
……
…………
………………
……………………
『フ、フフフ、アハハハハハハハ! 異世界人一匹確保ぉ~! 成功ぉ~!』
だからこそ最後に闇の中に響き渡った声を、俺が聞くことはなかった。




