37 冬が来る前に
冬になる前にタカセさんが訪ねてきてくれた。
「おかげでビール腹が引っ込んだよ」見せてくれた腹の傷跡は複雑な模様をしていて応急手当のいい加減さを訴えているように見えた。ほとんどは参謀殿の仕業だが、俺も一枚かんでいるので改めて謝罪した。
タカセさんは元々満州航空にいた人なので顔が利くらしく、仕事中の俺を上司の許可をとって半日ほど街に連れ出してくれた。
そろそろ風が冷たくなっている街をしばらく歩いたあと、ロシア百貨店近くの喫茶店に入った。ここはロシア風の紅茶が飲めるのだが、ちょっと俺には敷居が高い。初めての店内の様子に少し戸惑った。
タカセさんは慣れた調子で注文し「何かつまむか」と菓子らしきものも頼んでいた。
「工場は随分忙しそうだな」
「夏以降生産が増えましたね」
「そりゃあ減った分補充がいるからな」少し声をひそめて言った。
「そんなに、ですか」噂は社内でも公然と広まってはいた。
「そんなに、だよ」一段と声を小さくして「AさんもBさんも…」俺には知りようもない名前を次々に語りだす。エース級も何人か撃墜されたそうだ。
「君の知っている人も危なかったんだぞ」やっぱりあの機体マークはそうだったようだ。あの時お世話になった戦隊長は、ハルビンに到着そうそうに出撃し、ソ連機に撃墜されたがなんとか生き延びて歩いて帰還し、再出撃して活躍したそうだ。すごいな。
「勝ったんじゃないんですか」
「まあ、戦争じゃないそうだからな。上の言うことはわからんよ」死傷者が一万人以上出たそうだが正式な発表はまだ出ていない。大体俺たちは戦場がどこだったのかもよく分からない。地名だけは度重なる報道でよく知っている。
ノモンハンという蒙古との国境地帯だ。
「田中中佐もあきれていたよ。なんでそんな何の得にもならない戦をするんだ、ってな」
「お会いしたんですか」
「ああ、相変わらず身の軽い人だよ。そうそう東京から動ける立場じゃないはずなんだがな。満州で入院してますって報告したら、次の週には現れたよ」
「病院にですか」
「ああ、その時は奉天の病院にいたんだ」ノモンハン帰りの軍人さんも入院していたそうだ。将校クラスも結構いて、タカセさんが満空のパイロットだと知ると、結構戦場の様子を教えてくれたらしい。同じ軍人より話しやすいとのことだ。よくわからんが。
「そんな情報もあったんで中佐殿への話題はいくらでもあったんだ、ああもう大佐どのだったわ。出世する人の階級はすぐ忘れる」
兵務局の偉いさんになっているらしい。何をするところなのかはよくわからない。本社の部長さんというところかな。
「君のことも話題になったぞ」わからないと答えたら逆にたっぷりと教えてくれたそうだ。自分のことをそんなに話したとも思っていなかったが、出身地や義勇軍の事は話題にしたはずだ。
「調べれば簡単にわかるさ、本職だもんな」履歴書が書ける程度には調べていたそうだ。
「成績も知っていたぞ」
「だからな、お返しでもないけれどこっちのことも少しは教えといてやるよ」
別に聞いてもいないのにタカセさんは春の出来事を語りだした。
そもそもあの方はこの大陸で日本軍の謀略を一手に引き受けていたんだそうだ。本人曰く。数年前に満州航空がシルクロードに航空路を切り開くべく拠点を作り始めた時にも一枚かんでいた。本来の飛行場予定地以外にも、簡易的な滑走路を用意したり、燃料を秘匿したりしていたのも来たるべき対蒙古謀略の一環だった。もちろん資金も軍の予算以外に秘密資金をたっぷりと用意していたそうだ。
そして徳王という王族を抱き込んで遠征軍を仕立て蒙古に新政府樹立すべく戦端をひらいたのがつい三年前。世にいう綏遠事件だ。
まあ第二の満州建国を目論んだ訳だ。上手くいくわけもなく初戦で敗北して終わった。あちこちに人や物質を残置したまま。
で、少しでも回収を目論んだのが俺が巻き込まれた一件だった。狙いは宝石と金塊だった。あんなことになってしまったので手に入ったのはほんの一部だったそうだ。いや一部でも回収出来ていたんだ、俺は全く分からなかったけど。
「まあ君は知らない方がいい」じゃあ教えないでください。「でも場所を知っているからなあ」
そりゃあ覚えています。
「もういっそ今から俺たちの仲間になるかい」ちょっと怖い目でタカセさんは言った。「君なら言葉もいけるし、腕っぷしもな」口元は笑いながらのようだが目元はちっとも変わらない。俺は大慌てで首を振った。
別れ際に注意された。
「兵役に就くときには気をつけろよ。おっさんの手は長いぞ。配属先から簡単に引っこ抜かれるからなあ」そんなこと言われてもどうすることもできないでしょう。
「どうしても嫌なら、いっそ早めに入隊してしまえ。おとなしく召集を待っていると捕獲されるぞ、おっさんが君のことを思い出す前にさっさと入隊してどっかに送られてしまえばいいんだ」さすがに前線までは手が届かないだろうとのこと。
「ま、そういう手もあるってことだ」




