05
「ねえ、椛。楓のことで、無理とかしていない?」
あれは母さんが亡くなる、一週間くらい前の話だったか。
当時小学生であった楓が眠りについた、夜更け前。リビングでゆっくりしていると、母さんがふいにそんなことを言い出した。
「無理って……なんのこと?」
意図がわからず首を傾げた。
「楓って、友達はいるようだけど……家に連れてくることはないし、行くこともしない。その時間を全部、私たちに使ってるでしょ?」
母さんは嬉しいようで、困ったような半端な顔をする。
楓はいつだって、私か母さんにベッタリであった。一緒に遊んでくれとせがんでくるわけではない。私が勉強をしているのなら一緒の部屋でする。私がいないなら、母さんの目が届く場所でやる。私たちと一緒の時間を過ごせるのならそれでいい。わがままは言わずに手はかからないが、甘えん坊であったのだ。
姉離れと親離れ。いつそれができるのかと、心配になると同時に嬉しかったのは確かであった。
「私の時間が楓に取られてないか心配ってこと? なら大丈夫。これでも私のペースで、ちゃんと楓と接してるから。無理なんてしてないわ」
「ううん。そうじゃないわ」
母さんはかぶりを振り、
「楓は椛と同じことばかりしたがるから……辛かったら、無理しなくてもいいのよ」
私の心を案じたのだった。
「ああ、そういうこと」
母さんの心配はすぐに思い至った。
いつだって楓は、私の真似をしたがる。髪型はもちろんのこと、服は新しいものより私のお下がりを求める。そうやって外見から入って、私のようになりたがる。身の回りの小物から普段使いの筆記用具まで、全てがお揃いだ。
ここまではよくある、姉が大好きな妹。私はそれを鬱陶しいと思わないし、むしろそこまで慕ってもらえて嬉しいくらい。母さんもそんな私を承知している。
だから母さんが問題にしたのは、その先にある。
勉強に対して真面目に取り組む。楓はそんな私の姿勢を真似、学校では常に一番であった。予習をしっかりするどころではない。同級生を置き去りにして、遙か先へと勝手に進んでいるのだ。
その学年分の勉強を修めたら、次の学年へと取り掛かる。わからないことがあれば、私や母さんに乞うてきた。父さんは教育に経費は惜しまないので、教材に困ることはなにもない。
誰からも強要されていないというのに、そうやって楓は勉強ばかりをしていた。遊びたいざかりとは一体なんなのかと。まるで趣味に没頭するかのように。
そうして楓は小学二年生にして、
「これで姉さんと一緒の勉強ができる」
私立の中学受験を見据えていた私に追いついた。
楓は勉強が面白くて、学ぶのが楽しかったのではない。ただ私の真似をしたかった。一緒のことをやりたい。それだけの動機で追いついてきた。同じテストをやらせたら、私が取れない満点を当然のように取るほどだ。
ここまで優秀ならば、私を置いてもっと先へと進めるだろうに。それをしなかった。楓はただ、私と足並みを揃えて、一緒の勉強ができればそれで満足だったのだ。
そうしたら楓には大きな時間が空いた。なら次はどうしたか。
私の趣味を真似たのだ。
将来、パイロットになりたい、お菓子屋さんになりたい、と皆が手を上げる横で、絵描きになりたい、と幼い私は言っていた。そのくらい絵を描くことが好きだったのだ。
父親があれである。それを目指せないのは、小学校に上る前に受け止めていた。でも趣味でくらいは許されるだろうと、道具の準備や後片付けを考え、たどり着いたのが鉛筆画であった。
プロとまでは言わずとも、我ながらそれなりのものだという自負はある。それこそ描いてくれとせがまれるくらいには、腕前は友人たちからも認められていた。
先日、楓と同じものを描いたのだが、なにも言わず友人たちに見比べさせた。どちらが上手く描けているかを問うたら、私が描いたものは誰も選ばなかった。母さんにも同じことをしたが、結果は同じであった。
そうやって楓は、私の真似をして追いついてきたかと思えば、必ず一歩先へと進むのだ。私を置いてそれ以上先にも行けるはずなのに、進むことはしない。私と同じことを取り組むことを目的にしているのだ。
三つも離れている妹に、こんな形で才能の差を見せつけられているのだ。母さんが私の自尊心を心配するのも仕方ない話だろう。
「それこそ心配なんていらないわよ」
だからそれは、いらぬ心配だと告げた。
「だって楓は、私を追い抜きたいんじゃない。追いついて一緒に歩きたいから頑張ったんだもの。それって楓に好かれている、なによりの証でしょ? ならその結果を嬉しく思うことはあっても、妬ましいなんてことはないわよ」
楓に悪意はない。悪気はない。楓が生み出した結果と成果は、姉妹愛のなによりの形なのだ。それで自尊心が傷つき、劣等感を抱くほど、私の姉妹愛は安くはない。
「私にできないことを楓ができる。それに困ることなんて一つもない。損なんてない。なのに妹の優秀さを僻むなんて、みっともないじゃない」
「そうね。あなたの考えは正しいわ」
言葉とは裏腹に、母さんの声色には影がさしていた。
「でも、椛は正しいのに真面目すぎるから心配なの。正しいからって自分を押し殺してないか。我慢して苦しくないかって。……辛かったら、無理しなくてもいいのよ」
母さんはそうして同じ言葉を繰り返した。
なぜそこまで心配されているか。子供なりに当時の私はわかっていたつもりだ。
自分を押し殺し、我慢して苦しんで、溜めに溜め込んだ先にたどる悲劇。例え逃げ道として終わりを求めることはないとしても、辛いだけの生き方をしていないか。母さんは私の幸せを願ってくれているからこそ、今の生き方が辛いなら、無理はしてほくないと言ってくれている。
「私は真面目だから正しいことを選んでるんじゃない。母さんの娘として、楓の姉として、胸を張れる自分でいたいから、結果として正しいことをしているだけなの」
母さんの家族愛は素直に嬉しい。
「二人に胸を張れない真似をすることが、私には我慢ならないし苦しいわ。だから真面目であることが、私にとって一番楽で楽しい生き方なのよ」
そんな母親を持てたからこそ、私はこのように育った。妹が可愛くて大好きだからこそ、立派な姉であろうと自らに課したのだ。
これは全部自分で決めた生き方。与えられ、求められたあり方に流されたのでは決してない。
幸い私は、それを通せる能力と環境に恵まれ生まれてきた。なら今更、こんな楽な生き方を止められるわけがない。
だってこんなにも幸せなのだ。それを自ら捨て去りたいと思うほど、自虐趣味ではないのである。
「ほんと、できた娘を持てて幸せだわ」
母さんは憂いをなくしたように笑みをこぼした。私の真意に裏はないと、ちゃんと伝わった証だ。
「これなら安心して、楓を任せられそうね」
「言葉の裏に、自分がいなくなっても、って聞こえてくるんだけど」
明るい声音に潜む裏を悟り、眉根を寄せてしまった。
「……実は余命宣告を受けた、なんて言わないわよね?」
「大丈夫よ。ここ数年、風邪一つひいてないわ」
「母さん……あんまり心臓に悪いことは言わないで」
「ごめんなさい。でも――」
母さんはテレビに目を向けた。
流れているのはニュース番組。昨日起きた交通事故について報じられている。
高齢者の運転する車が歩道に突っ込み、信号待ちの歩行者を巻き込んだ。十数人の被害者を出した事件であり、朝見たときと比べ、死者の数が二人ほど増えていた。
「今の世の中、なにがあるかわからないから」
母さんは再び私に視線を戻した。
「椛は一人でも乗り越えてくれると信じてるけど……楓は現実を受け止めるだけでも難しいでしょうから。それこそ一人で立ち上がる期待かけるのは、酷なくらいに」
母さんは吐息を漏らした。
「子供に言うことじゃないのはわかってるけど……椛もお父さんのことは、割り切って受け止めているようだから言うわね。そうなったときの楓のことは、あの人にだけは任せたくないわ」
「同感。私も父さんにだけは、楓を任せたくない」
力強く頷いた。
「だから安心して。そのときはちゃんと、楓の手は私が引くわ。母さんのためだけじゃない。私が楓と仲良く歩いていきたい。それが私にとっての正しい生き方。これだけは間違えないって約束するわ」
「ありがとう、椛。そのときは楓をお願いね」
胸を張っている私に向かって、また一つ抱えていた問題がおりたとばかりに、母さんは微笑んだ。
「でも、これだけは覚えておいて。椛が辛くて苦しいのを我慢するくらいなら、楓のことはどこかで折り合いをつけなさい」
母さんは表情を変えず、そんな風に言い含めてきた。
思わず目を丸くした。まるでなにかあったときは、楓を見捨てろと聞こえたからだ。
ただし、それがそういう意味でもたらされたのではないとすぐに知った。
「お姉ちゃんだから妹のために我慢しなさい、なんてことは絶対に言わない。なにかあったとき、楓のために人生を犠牲にする必要はないわ。だって私は、楓と同じくらい椛には幸せになってもらいたいから」
母さんにとって私は楓の姉ではなく、自分の娘であると想われているのだと。




