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文野楓としてレールの上にはもう戻れないし、戻りたいとも思わない。
陽の光が降り注ぐ地では、レナファルトは認めてもらえないのだ。そしてそれでいいとすら思っている。
センパイにさえ認めて貰えればそれでいい。
センパイ以外からの好意なんて欲しくない。
一閃十界のレナファルトであれる最小単位社会こそ、わたしの全てなのだから。
現実社会に引き戻されるときがあるのなら、文野楓の名を歴史とwikiに刻む時だけ。病の発作により、隣家に理不尽なお供を頼む日だと決まっている。
そしてこれより、隣家の平和が揺るごうとしていた。
『ん、どうしたんすか?』
立ち上がったセンパイの気配が、ふすま越しに立ち止まる。
『もしかしておかわりですか?』
「ちょっと話したいことがあるんだ」
同じ屋根の下で暮らすようになって、もう一年。
この一年でわたしは沢山のセンパイの声を聞いてきた。それこそ感情の一喜一憂、その微差を感じ取られるほどに。
息を飲んだ。
ちょっと世間話や笑い話をしたい。そんな類の声色でなかったからだ。
「入っていいか、楓」
『どうして』
今まで一度も、その名を告げたことをないはずなのに。なぜセンパイの口から、そんな弱い女の名前が漏れ出したのか。
わたしは神童である。けれど真っ白になった頭では、答えを得ようと動くことすらできずにいた。
ただ、このふすまを開けないでほしいと願った。最小単位社会と隣家の平和を飲み込まんと、あらゆる災厄が世に放たれる。希望すら残らずこの幸福が失ってしまうと、そんな恐怖に満たされた。
「入るぞ」
なのにあっさりと、このふすまは開かれた。
開かれた先にあったのは、世に放たれようとしている災厄でもなければ、残された希望でもない。
いつもの笑いかけてくれるそれではない、生真面目なセンパイの顔だった。
センパイはなにも言うことなく、黙ってわたしの前に座り込んだ。
「ガミの店に、現実の魔の手が伸びた」
「魔の……手?」
キーを叩くことなく、声によって応じた。
「東京のお姉さんが、おまえを探し始めたようだ」
「姉……さん、が?」
込められた意味もわからずとばかりに、黙ってセンパイの言葉を暗唱した。この口は数ヶ月前に戻ったかのように鈍くさかった。
「驚け。なんとおまえの家出は、この一年の間誰も気づかなかったそうだ」
胸に飛び込んでこいとばかりに、大げさに両手を広げたセンパイ。その顔は半笑いのそれであり、まるで道化を演じているかのようだ。
一年もの間、この家出は誰にも知られることがなかった。
父だけではなく姉さんにすら放っておかれていたらしい。その事実を前にして、憤りを覚えることも呆れることもなかった。
へー。
と他人事として捉えたのだ。
センパイはそうして、今日もたらされた事実を滔々と語ってくれた。
わたしは神童である。九割方が予想通りの展開を迎えており、そこに浮かぶ感慨はない。やはりわたしは神童だったと再認識したくらいだ。
だからこの心を動かしたのは、残りの一割である。
『ごめんなさい』
いつもなら声へと簡単に出せる、たった六文字を叩いた。
こうなることはわかっていたはずなのに、その現実から目を逸らし続けてきた。
『どうやら自分、もうただの巨乳美少女のようですね』
「おい!」
あまりのショックに、深刻な病の発作に襲われてしまった。
JKブランドを失ったのは痛いが、ボケの出来が良すぎて笑いを抑え込むことができなかった。
『ま、概ね予想通りの流れっす。いやー、でも。時間稼ぎのつもりが、一年もバレなかったのは流石に笑う』
「そんなに笑えるか?」
『すれ違いすぎてマジ大草原っすよ。おまえら前に流行った、多目的トイレのコントでもやってんのかっつーの』
あまりの滑稽さに呆れた感情すら湧いてこない。
『後もう一つ笑えたのは、姉さんの甘やかし発言っすね。あれで甘やかしすぎたとか、片腹痛いっすわ。真の甘やかしとはどういうものか。センパイの爪の垢を送りつけてやりたいっすよ』
「東京大学生様にそんなもん飲ませてみろ。腹下すだけじゃ済まんぞ」
『いいんすよ、そのくらいの劇薬で。姉さんは真面目の擬人化っすから。ちょっとバカになってくれたほうが、自分には都合がいいんすよ』
「さらっと失礼な発言をしたな。天井のシミを数えさせんぞ」
『きゃー、犯されるー!』
あれだけ深刻な空気で入場されたのに、もういつもの流れだ。おかしくておかしくて、笑いを堪えるのに必死である。
やっぱりセンパイとこうしているのが楽しい。
最小単位社会で営み、精を出すことこそがわたしの幸せである。
これからもわたしは最小単位社会で生きていく。
「これからおまえは、どうしたい?」
『このままがいいっす』
だからそんなくだらないことを、今更聞かないでほしい。
貴方の目の前にいるのは文野楓ではない。
一閃十界のレナファルト。職業は自宅警備員だ。
「え……」
なのにこの両手はそっと取られると、パソコンがパタンと閉じられた。
「俺は一閃十界のレナファルトに聞いてるんじゃない」
レナファルトであることから、強制ログアウトされたのだ。
逃さないとばかりに、ジッとその目が捉えてくる。
「文野楓は、これからどうしたいのか聞きたいんだ」
「わ、わ、わ、わたし、は……」
かくして一年前にわたしは戻った。
声帯は鍛えられ、錆びついていないはずなのに、対人恐怖吃音症のコミュ障が再発してしまった。
この身がセンパイのリスクであり、重荷であることを思い出す。
この地が陽の光に晒された日には、よくもルールを破ったな、と制裁がくだされるのだ。
保身に走ることに関しては他の追随を許さないセンパイの、世界で一番嫌いな言葉は責任である。
現実の魔の手がそこまで迫り、リスク管理を改めたのかもしれない。
どれだけセンパイの助けとなり、生活の支えとなろうとも、わたしたちの関係が明らかになれば全てを失ってしまう。
身体が恐怖で震える。
センパイは最後の希望を求めて、災厄を世に解き放とうとしているのかもしれない。
「俺はこのままがいい」
だがそれは違うと応えてくれた。
「朝起きて顔を洗えば、黙って出てくる朝飯とコーヒー。クリーニングに出したてのような社会人装備を纏って、弁当片手に出勤だ。夜は疲れ果てて帰ってみれば、飯や風呂どころか、タオパンパまで用意されている。
全ての家事から開放され、据え膳上げ膳の日々はまさに人生の堕落。おまえなしの生活にはもう戻れん。そのくらい我が家の自宅警備員の活躍は目覚ましい。一閃十界のレナファルトよ、ここにダメ人間製造機の称号を与えん!」
ダメンズがダメな発言を吐き出し続ける様は、まさに模範的なろくでもない大人である。
そんなろくでもない大人が好きなのだ。そんなろくでもない大人の隣にしか、わたしの幸せはないのである。
追い出されなくてよかった。
必要とされていてよかった。
最小単位社会とこれからも、幸せな日々を営める。
「そうやって充分以上に、元巨乳JK美少女を背負い込んだ恩恵は得ている。だから楓、恩義を感じての足踏みは必要ない。おまえがもし現実に戻りたいのなら、気にすることなく戻っていいんだぞ?」
なのにセンパイは、優しくそんな酷いことを口にする。
現実社会に戻るなんて恐ろしすぎる。あんな目が眩むほどの熱いレールの上になんて戻りたくない。
お願いしますセンパイ。わたしを見捨てないでください。
果実は明日に終わらせて頂きます。
次話は12時近辺に投稿いたします。




