08
「ま、わたしはずっと思っていたけどね」
やっと気づいたかと、まどかが口を挟んできた。
「なんか楓ちゃんの今の幸せって、菜食主義みたいだなって」
「菜食主義ね。いい表現だわ」
河原でいい形の石を見つけたように、明神さんは満足そうに口端を上げた。
「食べられる側の辛さと苦しみ。それを説く集団はいるけれど、結局その代替品を求め、作り上げる。それって結局、本音はお肉が食べたいってことじゃない」
「ですよね。菜食主義は社会的に素晴らしいかもしれないけれど、野菜だけの生活って、やっぱり味気ないですもん」
「人の欲を満たすっていうのはね、そのまま誰かを傷つける一面もあるわ。でもその欲こそが、なにより人が成長する栄養素よ。社会をここまで発展させた。それこそ見上げるだけしか叶わなかった夢へ、鉄の塊で掴んでしまうほどに」
明神さんはグラスに口をつけ、喉を鳴らした。
「人の欲は過ぎれば身を滅ぼすけど、かといって菜食主義は人の成長を奪うことになる。それは社会の維持という目的だけを与えられた、働きアリとなにも変わらない。ちゃんとお肉を食べていかないと、社会から自立した、人生の目的は得られないわ」
社会の維持。種の保存と繁栄。
それは確かに大事であるけれど、人はそのために生きているのではない。そのために生きなくなったのが人なのだ。全体ではなく個の幸せにこそ重きを置いた。その個と個の幸せを繋いだ先に、今の社会が出来上がった。
だからたった一つの個が幸せを満たしたばかりに、釣り合わないほどの不幸をもたらす。社会の維持のために生きよと相互監視しなければ、人はあっという間に滅びてしまう。けど人は、そのためだけに生きられないほどに成長してしまった。
だからこそ複雑なルールやモラルというものが生まれたのだ。その範囲ならば、芽生えた欲を満たす許しを与えたのだ。
結論として、
「なにより、お肉を食べるのってやっぱり美味しいじゃない」
欲を満たすのは人の幸せであり、欲こそが個を幸せに導くのだ。
明神さんはそうやってマグロに舌鼓を打つ。美味しそうな顔をした。
「そうですね。動物たちが苦しんでいると言われても、やっぱりお肉は美味しいもの」
まどかもまた、続くようにエビをパクリとした。これまた、美味しいものに浸っている顔を浮かべた。
「肉食も過ぎれば身を滅ぼすけど……」
私もまた、それに倣って大トロを頂いた。
人の傲慢、その欲を満たしたいがために奪われた命の味。
「そこから解脱したいと思えるほど、菜食主義に魅力はなかったわ」
わかっていたけれど、幸せになるほどに美味しかった。
「椛もまた一つ、成長したってわけね」
まどかはうんうんと、嬉しそうにはにかんだ。
真面目に生きてきたつもりの人生。あまりにも自分に融通が利かなすぎて、まどかには心配をかけてきた。
確かに楓の件を通して、前ほど人からどう見られるか気にしなくなった。
でも、
「成長ね……さっき私を、堕ちるところまで堕ちたって言ったのは、どなたさんでしたっけ?」
それで本当に良かったのかと、それはそれで疑問である。
楓に甘えてもらったつもりが、いつの間にか甘やかされていた。家の中で人の目がなくなった今、私はこれからどうなるだろうか。どんなところでも人の目があるものとして考えなければ、どんどん堕落してしまうような気がする。
「あら、そんなこと言ったかしら?」
なんてまどかは素知らぬ顔をする。
「社会のいう成長とはね、どのくらいこの社会に適応できるようになったか。それを示す物差しにすぎないわ」
まどかが拾わないならと言うように、代わりにボールを投げてきた。
「本当に大事なのは、社会との距離、兼ね合いを尺度にすることじゃない。振り返ったときの人生を物差しにして、成長したと自分を納得させられることよ」
「それが正しい答えですか?」
「いいえ、わたしの人生論よ」
明神さんはカラッ笑った
「そもそも正しい答えなんてものは、この世にないもの。あるのは正しい答えと自称する、社会の多数派の価値観だけ。それを全うできない辛さと苦しみを、皆そうやって生きているんだって正当化した、押し付けがましいだけのものよ」
「そうやって私も、どれだけ酷いことをしてきたのか……嫌っていうほど、自覚させられました」
苦笑しながら私は肩を落とした。
「私のやっていたことは、そんな人生を送られると不安だから、嫌だから、気に入らないから。だからこうして生きてほしい、っていうエゴを押し付けていただけ。でもそれじゃあ形が悪いから、自分の本音を誤魔化した。自分の立場を守りながら、その誤魔化した罪悪感を、相手に押し付け植え付けた。
あなたのためを思って言っているの、って。そんな卑怯者の言葉を使ってね」
本当に、タチの悪い話である。
一方的な想いは、ただの呪いと変わらない。
人を呪わば穴二つ。
目の前でそれを暴かれたとき、その呪いが何倍にもなって返ってきた。
「わたしはもう、大切な人の未来を考えたとき、『あなたのためを思って言っているの』とだけはもう言わない。ちゃんと話を聞いて、お互い譲れない一線をしっかり見出して、その上で互いに譲歩する。
だってどれだけ大切で、愛おしい相手であろうと、その人の人生は自分の幸せを満たす道具じゃないんだから」
「そうやって、その人生に傷を許したのね」
「いいえ、そんなものを許したわけじゃありません」
私はかぶりを振ると、ならどういうことなんだと明神さんはジッと目を見据えてくる。まるで面白い答えを期待しているように。
「ただ、中身を注ぎすぎて、それが溢れ出したんだと思うことにしたんです。人はそれを見て、汚いとか、もったいないとか言うかもしれません。でも本人はそれで楽しそうにはしゃいでいるのなら、それが一番なんです。私はそれを眺めて、仕方のない子ねと一緒に笑ってあげればいい。あの子がそうやって笑って幸せであるのなら、私もまたそれで幸せなんだから」
「そう、定義を変えたのね」
「こんなのただの言葉遊びですから。大事に尊んでいる人の幸せを見て、人生に傷がついているなんて批評するのが、そもそもおこがましいことなんです」
「そうね。本当、何様だって話よね」
明神さんは全くだと、ゆっくりと、けれど心からの共感を示すように大きく頷いた。
「だからもう、社会の示す形とか、中身とか、そんな言葉遊びはもう辞めました。私たちは未熟なりに、もう大人なんだから。お互い譲れない一線をしっかり話し合って、笑って幸せでいられるのならそれでいい」
「でも人生は楽しいだけではいられないわ。辛くて苦しい思いをして、乗り越えられない局面に遭遇するかもしれない。そのときのことは、ちゃんと考えているの?」
「そのときのための、互いに引いた一線です。ダメだったら死ねばいい、なんて楽な道へ逃げるのは私が許さない。そのときは、ちゃんと私のところに逃げてきてほしい。そこでまた、人生を新たにやり直してほしい。それを約束してくれるのなら、他人に採点を委ねた人生なんか今すぐ捨ててもいい。ちゃんと応援するから、あなたの想う百点満点の人生を目指しなさい、って。
そうやって私は、楓の人生を背負っていきたいと想ったんです」
「いい人生の答えね。ひとでなしの私から見ても、百点満点よ」
明神さんは綺麗な宝石を見せられたかのように笑った。
「どうでもいい他人の目なんて、自分の幸せを犠牲にしてまで気にする必要なんてない。あなたたちがそうやって、ルールとモラルを守っているうちは、糾弾される謂れなんてないんだから。それでも自分は気に入らないと、人の幸せに口を出してくるようなら、こう言ってやりなさい」
明神さんは大きく息を吸い込むと、
「知るかバーカ! うるせーくたばりやがれ! ってね」
天井へ向かって中指を立てながら叫んだのだ。
あまりにも酷い光景だけれど、清々しいほどに笑えるのだった。
私はそんな明神さんに向かって、改めて居住まいを正して向かい合った。
「今回のこと、ご協力いただいてありがとうございました」
深々と頭を下げる。
「いいのよ。今回のことはお互い様だから。むしろよく決断してくれたわ」
「お互い様?」
きょとんとしたようにまどかは言った。
頭を上げた先にあったのは、
「だって友人の顔は、綺麗に悟っているより、鼻で笑っているくらいのほうが面白いもの」
誰かのために喜んでいる顔があったのだ。
明神さんなりに、あいつのことを色々と考えていたのかもしれない。
「まさに大団円ね。わたしたちの新たな門出に乾杯」
まどかはそう言って、グラスをテーブル上に掲げた。
私たちもまた、それに合わせた。
「ついでに椛を引き取ってくれる、素晴らしい出会いを願って」
「あんたねー……」
ニヤニヤするまどかに、私はただ息を落とした。
ここまで綺麗にまとまったのなら、そんなにオチをつけなくてもいいではないか。
――ああ、そういう意味では、まどかは本当に酷いオチを残していたのだ。私はそのせいで、すぐに自らの誓いを破ることとなる。
「そういうクルミちゃんは、いい相手は見つかったの?」
「そうそうマスター。実はわたし、ついに真の恋と愛を掴んだんです」
「あら、それは喜ばしいことね」
よくぞ聞いてくれたと胸を張るまどかに、明神さんは期待の眼差しを送る。
「今度はどんな相手かしら?」
「付き合うのはわたしが初めてな、奥手で純情な相手です。……歳はちょっと離れてるけど、それがまたいいんです」
「また年の差? ……今度はいくつ離れてるのよ」
「……七つばかし」
心配に眉根が寄った私の問いかけに、まどかは目を泳がしながら答えた。
あの男のときと一緒じゃない……と呆れそうになったが、すぐに思い直した。
私たちは今年で二十四歳。そのくらいの年の差、そう珍しくはないかと。
「今ならそのくらいの年上のほうが、丁度いいかもしれないわね」
二年もかけて、まどかとの関係を大事にした大人なら、これ以上の心配はヤボというもの。これからのまどかの人生に、ただ幸せあれと願おうか。
そう、一人自己完結しようとすると、
「あ、違う違う。今回は年下なの」
「年下?」
「うん。だからすっごい可愛いのよ」
うっとりとした頬をほころばすまどか。
今まで年上ばかり相手にしてきたから、可愛がられるに徹してきた。それが今度は、可愛がる側に回ったのだ。初めてのことなので、そういうのが楽しいのかもしれない。
「そう。なら、なおさらあんたがしっかりしないと……待って、年下?」
とんでもないことに思い至り、この顔は凍りついた。
頭の中で軽い引き算もできず、幼子のように指折りで確認する。
私たちの年齢引く、七。そこに恋をしてからの足掛け二年も引いた。
「あ……ぁっ」
その答えに、凍った顔はそのまま青ざめたのだ。
「ギャハハハハ!」
同じ答えにたどり着いた明神さんは、これでもかと下品に哄笑を響かせて、テーブルを叩いている。
頭が痛かった。
その痛みに耐えきれず、テーブルにどっと突っ伏した。
ようやく楓の問題が片付いて、全て心の整理がついた途端これだ。似たような問題が発生した。それも今度は社会の示す加害者側として、子供に手を出し終わった後だ。
どんな出会いなのか。どんな子なのか。どんなことがあった末に、付き合うに至ったのか。きっと私たちの思いもよらない、当人たちにしかわからない、理解しあえない想いがあるかもしれない。社会が許さなくても、本物と呼べる想いがあるかもしれない。
まどかは大切な親友だ。その人生は私の幸せを満たす道具なんかではない。
ちゃんと話を聞いて、お互い譲れない一線をしっかり見出して、その上で互いに譲歩する。そうやって話し合わなければならない。
だってそれが、相手を想うということ。一方通行ではいけない。
「……まどか」
そんなことをこの痛い頭で考えることはできず、
「あんたのためを思って言うわ」
楽な道へと逃げ出したのだった。
明日、完結です。
ひとまず、エピローグ01は明日の12時に投稿します。
※追伸
完結まで書き終わりました。
エピローグは延期することなく、01を12時。02を18時に投稿し、当作品は完結いたします。




