06
五月の初め。ゴールデンウィーク。
玄関で旅の荷物を携えている楓と私は向き合っている。
旅の荷物と言うくらいだから、楓が三和土の上で外靴を履いており、今まさに出発しようとしている。
私はそんな楓を見送るが、ここから先を共に行くつもりはない。
空港まで、駅前まで、その道中まで、マンションの出入り口まで、エレベーターまで、玄関先まで。どこまで見送るべきか考えたが、結局ここに落ち着くことにした。結局その背中を見送ったときの感情は、どこでも変わらないと悟ったから。
「荷物は大丈夫? 忘れ物はない?」
「はい。大事なものはしっかりと確認しました。足りないものがあれば、後は現地調達します」
「それもそうね。こっちで調達してほしいものができたら、そのときはいつでも言いなさい。すぐに送るわ」
「そこのところは頼りにさせてもらいますね」
今日の天気のように、楓に浮かんでいるのは晴れ晴れとした笑顔。
でも、その口端は気がかりを抱えた陰りを見せていた。
「……不安?」
「はい……」
笑顔の姿勢を崩しはしないが、楓の眉尻はその不安を示すように下がった。
なにが不安なのか、わからないでもない。
計画なんてなにも立っていない。お膳立てだけを頼んで、後は出たとこ勝負。その未来を予測することはできても、完璧な予知なんてものはない。自分の思い通りになってほしいと、想い通りならいいなと二つの希望を携えて楓は行くのだ。
でもこれは楓の選んだ道。石橋を叩くことはいくらでもできたのに、それはしないのも楓が決意したもの。
だから私は、そんな楓にかけるべき言葉、その背中をどう無責任に押せばいいのかはわかっていた。
「なに、大丈夫よ。問題なんて――」
「わたしがいない間の姉さんの生活を考えると、それはもう不安で不安で……」
「うっ……」
思わぬ楓の心配に、後ろ暗いものを見せられたように顔をしかめてしまった。
そっちだったか……と。
確かに楓が来てからの生活は快適そのものだった。
洗濯物は籠に入れておけば、次覗くときは中身が空。クローゼットへ収納済み。どこを見渡しても部屋中ピカピカ。朝起きてシャワーを浴びた先には、淹れたてのコーヒーと共に美味しい朝食が待っている。外食も気づけばほとんどしておらず、冷蔵庫の中は長らく見ていない。今日のご飯はなんだろうなって、わからないからこその楽しみがそこにある。
掃除洗濯料理が高水準。黙ってそれらを与えられた、なにもかもがお膳立てされたような生活は、まさに人生の堕落。
問題が山積みなのは楓のこれからの未来ではない。私の目先の生活が一番問題であった。
正直な話、楓の未来どうこうではなく、私の生活のために旅立ってほしくない。このまま甘えた生活を享受し続けたい。
でも、それ以上の幸せをほしいと願ったのだから、姉の威厳を保ち続けるため、目の前の甘いだけの生活から目を逸らし、その背中を思い切り押すことにしたのだ。
「家のことはまどかさんに頼みましたけど……でも、姉さんは人の見えないところはだらしないから。将来、いい人が見つからなくても、猫と暮らしていくのも悪くないと言ってましたが……正直あの体たらくでペットは――」
「ああ、もう! 私のことはいいから、とっとと行きなさい!」
「はーい」
悪戯を咎められ逃げていく子供のような身軽さで、楓は玄関から出ていった。
「あ、そうだ。姉さん」
扉が閉めようとする前、楓は思い出したように肩越しに振り返った。
「大好きです」
そうやって今度こそ、赤いキャリーバックを手にした楓の背中を見送ったのだ。
◆
「あーあーあーあー」
楓を見送った後の、陽が一番高い時間帯。
リビングのテーブル越しで、まどかは頬杖をつきながら呆れた眼差しを向けてくる。不出来な子供を前にして開いた口が塞がらない。そんな風にひたすら嘆息を漏らし続けている。
……頭が痛い。
なにか悩みがあるとか、不安が尽きないとか、比喩表現の類ではない。
打ち付けた後頭部が、未だに痛み続けているのだ。
「楓ちゃんが出ていって、一時間であれか」
「うっ……」
大きな大きな嘆息をついて、ようやくまどかは口を閉じた。
信用の二文字の判を、完全に失っているのだから。
それを不当だと叫んで、信用を取り戻したいところであるが……私の株価は完全に暴落している。それほどの大恐慌を引き起こしてしまったのだ。
「大の字になって、裸で天井を見上げている椛……そんなあられもない姿を見られるのは、将来を誓ったまだ見ぬ殿方ただ一人……かと思ったのに」
綺麗に整えられた眉がこれでもかと下がり、
「まさかわたしが、見るはめになるなんてね。あーあーあーあー」
ほとほと参ったように八の字を描いている。このように心配されるくらいなら、ニマニマとからかわれているほうがマシである。
そう、私はそんなみっともない姿を、まどかの前に晒してしまった。
遡ること楓が出ていった後。シャワーを浴びてスッキリしたのはいいのだが、いつもは用意されているバスタオルがなかったのだ。
楓がいなくなった途端これかと、自分に呆れながらも、バスタオルを探しにリビングに出た。そこでずぶ濡れの足はツルッと滑った。そのまま仰向けに倒れ込んで、後頭部を思い切り打ち付けたのだ。
記憶が飛んで、次目を覚ましたときは、そこにはまどかの顔があった。凄い音がしたからと駆けつけてくれたのだ。楓が家を出てすぐだから、心配はなおさらだったとか。
そうやって身支度を整えて、まどかの部屋を訪れると、そこには浮かんでいる心配は別物に。このように変わっているという有様であった。
「もうどちらが面倒を見る側だったのか、わかったものじゃないわね」
「……うぅ」
将来の不安を詰め込まれた眼差しから、逃げるように顔を俯ける。そのまま現実からも逃げ出すように、ワイングラスの中身をグイっと呷った。
それがなおさら、憐情を誘ってしまったらしい。
「そして昼間からやけ酒とか……あの椛も堕ちるところまで堕ちたわね」
「……や、やけ酒じゃないわよ」
「なら、これはなに酒なの?」
「新たな門出を願ったもの。祝杯よ、祝杯」
「……純度百パーセント?」
「きゅ、九十パーセントくらい……」
「本当に? 嘘偽りなく?」
「はち、な、……六十パーセント……」
「じゃあ改めて聞くけど、その六十と四十の想い、今日のお酒はどちらが本命?」
「……四十」
「やっぱりやけ酒じゃない」
淡々と追い詰めてくるまどかに、いたたまれなくなってどんどん肩をすぼめていく。でもこちらもやられたままでは面白くないので、縮めていったものをこれでもかと解き放つ。
「べ、別にいいでしょう、今日くらいは! そりゃあ私が選んだ道だけど、その先にムカツク顔がそこにあるのは代わりないんだから! こういうときくらい、飲まなきゃやってられないわよ!」
「別に悪いとは言ってないわよ。ただ、やけ酒ならやけ酒らしく、自分の気持ちを誤魔化さないで、溜め込まないで、嫌なものは全部吐き出しちゃいなさいってこと」
まどかは優しげに微笑んだ。
「辛いときはそうやって、わたしも椛に泣きついてきたんだから。最後までちゃんと付き合ってあげるから、わたしの前でくらいは素直になってくれてもいいのよ」
「うん……ありがとう」
それが温かくて、ついその口元に釣られてしまった。
まどかが現実を突きつけてきたのは、全部私のため。自分の感情を誤魔化したままでは、吐き出せるものも吐き出せない。今日やりたいことをしっかり自覚しろという、まどかなりの激励である。
今日だって食べ物も飲み物も、全部用意してくれた。上げ膳据え膳で、私の新たな門出に付き合ってくれる。
本当に素晴らしい親友だ。
常々思う。私は恵まれていると。
生まれ持ったものだけではない。その先に築いた縁も、見渡す限り素晴らしいものばかり。全ては全て、綺麗な景色とは言わない。酷いものだってもちろんある。それでもこれだけのものを手にして恵まれていないと叫べるほど、タチの悪いつもりはない。
あの顔だってムカツクけれど……結果論で見れば、決定的な不幸から掬い上げ、幸せを与えてくれたには変わらないのだ。そして私の大事なものを大事にしてくれているのはわかっている。
でも形がろくでもないから、それを認めるのがシャクなのだ。だからせめて、それを口にしないのが、私なりの最後の抵抗だった。
今日浮かべるはずの、信じられないものを見て驚く顔。せめてそれを見ることができれば、気持ちの慰めにはなっただろうが。それは私の楽しみではなく、楓だけの楽しみだ。
「あー、でも」
まどかはそんな内心を知ってか知らずか。
「あの楓ちゃんも、次会うときは大人の階段を登った後か。もう子供扱いはできないのね」
「そういうことは言わないで! 考えないようにしてるんだから……」
とことんまで目を逸らしている現実を突きつけてくる。
次話は23時に投稿します。




