03
三月の末日。
今日はとても大切な日だ。
なにせ楓の誕生日。それも人生の大きな区切りである。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない姿。
それなのに社会が子供扱いしないと決めた、成人を迎えた楓がいるのだ。
本当に時間の流れは早いものだとしみじみと感じた。
そんな新たな門出を特別な日に祝いたいと、幾十もの誘い。その全てを断って、今こうして楓は隣を歩いている。
今日という時間は、私とまどか、側にいるのはこの二人だけがいい。どんな痛みを乗り越えて、今ここにいるのかを知っている、私たちとだけ過ごしたいと望んでくれたのだ。
お店選びはまどかに任せ、現地で合流するつもり。
その前に一度、楓は訪ねたい場所があるからと、私はそれに同行している。
なにかの拍子で崩れ去るほどに、朽ち果てているわけではない。でもなにかの拍子で飲み込まれそうなほどのおどろおどろしさを感じる。問題は外観ではなくその過去。四十人もの命を奪ってきた、凄惨な不幸の記録にあった。
私たちはそんな古びた一軒家を前に立ち止まった。
夕暮れは過ぎ去り、夜の帳が落ちた世界。命の営みがそこにあると示すように、その明かりが漏れ出していた。人が住んでいるなによりの証であった。
心霊スポットと呼ばれている家に、よくまあ住めるものだと感心する。
一体、どんな借り手がついているのやら。
ただ一つわかるのは、その屋根の下に知っている顔はもういない。
それどころか、この地続きの先にも。
この国のどこにも、あのろくでもない大人はもういないのだ。
◆
最後にあの男を見たのは空港内。
国際線出発ロビー。明神さんによってなにも知らされず、ただ黙ってそこで待たされている男が立っていた。
こちらに気づいたそいつは、意外なものを見たように目を見開いた。
「クソ姉じゃねーか」
「誰がクソ姉よ」
相変わらず口の悪い男だと、眉をひそめてしまった。
「クルミちゃんか……なにも言わんくていいって、言ったんだがな」
それは呆れたというよりは、諦観のため息だった。口止めというほど言い含めていなかったのは、自分の責任なのだから。
田町はこの国を出ていく。でもそれは後ろめたいことがあり、国外逃亡するのではない。どうやら新しい事業を始める明神さんに誘われ、それについていくようだ。
楓があの家から去った後の一年、ひたすら仕事に打ち込んでいたらしい。新しいことを任せてもらいながら、終電帰りは当たり前。休みもずっと、新しいことを覚えるために勉強漬けで。遊びのない生活を営んでいたようだ。
どうせ家で一人いても、やることなんてないから……と。
たった一年で、社会人がどれだけ果たして伸びるのか。社会に未だ進出していない私にはわからないけれど、それなりに手応えを感じたのか。今の環境を全て捨て去って、心機一転、国を飛び出て新しいことに挑むと決めたらしい。
もしそこでダメだったとしても、いつでもこっちでやり直せる。そのくらいの気概と自信が、今の自分にはあるようだ。
ここまでが全部、あれ以来顔をあわせなかった私たち姉妹と違い、明神さんのお店に訪れていたまどかの話。本人や明神さんの口から語られたものだが、さて……どこまでが本心なのか。
この地をあえて離れる。もう大丈夫だろうと、そういう決断したのかもしれない。
だから今日、この日。楓の大学受験、その合格発表の日に日本を立つ。
田町は私の後ろ、その周辺に目を配る。
誰もいないのを確認すると、ただ怪訝そうにする。
「楓は来ていないわよ」
「別に、来てるなんて思っちゃいねーよ」
田町は鼻を鳴らした。
「クルミちゃんと一緒ならともかく、テメェが一人で来たことに驚いてるだけだ」
見送りが二人以上でも、ゼロでもなく。私一人であることに不思議がっているのだ。
そう、楓はここに来ていない。
なにも知らせずに、ひっそりとこの国からいなくなる。私たちにはなにも言わなくていいと告げられながらも、まどかはそれを面白くなかったようだ。だから私たちに、まどかは今日のことを教えたのだ。
ちゃんと全てを承知の上で、楓はここに来ないと決断した。
私に遠慮したのではない。
「あの人と次会うときは、戦場でって約束しましたから」
だからこんな形では会うつもりはない。
その約束にどんな意味が込められているからはわからない。それでも楓にとって、大事で尊い約束なのは感じた。
楓は来ないと決断した。
まどかはもう、別れを告げた。
私が一人で来たのは、そういうことである。
「大恩人たるこの俺のお見送りとか、クソ姉の分際で、殊勝な心がけじゃねーか」
どこからも上から目線で、私のことを見下してくるろくでもない大人。
別にこんな男に優しい言葉なんて求めていないが、癇に障るのは仕方ない。
「別に、そんなくだらないことをしに来たわけじゃないわ」
「なら、一人で一体なにしに来たんだ」
「あれだけ一方的に、色々と言われたからね。最後くらいは、こっちも言ってやらないと気が済まなかっただけよ」
私は別れを告げに来たのではない。
ただ、最後くらいは言わねばならないことがあると参じたのだ。
「今まで真面目にやってこなかった人間が、なにかあったときのためにって、頑張り始めたようだけど……そのなにかは一生来ないわ」
「そんなのは当たり前だ。今更、なにを偉そうなこと言ってやがる」
「別に偉そうに言っているつもりはないわよ。なにせ一度はそのなにかがあったんだもの。それをなかったことにするつもりはないし、説得力がないのはわかってるわ。だから……その借りの清算くらいは、しっかり自分でつけないとね」
そう、私はまだ返すべきものを返していない。
楓が現実から逃げ出したとき、最悪な道を選ばなかったわけ。
楓が現実にこうして戻ってきたのは、一体誰のおかげなのか。
楓とこうしてまた、昔のような姉妹の関係を取り戻せたのは誰がいたからなのか。
私は結局、自分のやったことを自覚させられて、お膳立てされたものの上で、その全てを手に入れた。今この手にしている幸福は、誰が描いて生み出したものか。私はそこにただ、送り出されたにすぎないのだ。
私はこの社会の住人として、ルールとモラルを大事に尊ぶ者として、なにも差し出していなかった。
別に向こうは、そんなもの求めていない。
顔を見るだけでも業腹な男なのだから、それに乗っかればいいものなのに。
その借りは言葉にして返さなければ、とても気持ち悪いのだ。我ながら、そういうところはつくづく真面目なんだと、初めて自分の性分に損した気分になってしまった。
顔を微かに俯け、差し出すべきものを、なんとかお腹の中から吐き出そうとする。けれどそれがとても恥ずかしくて、上から目線で弄ばれるのがわかっているから、中々出てきてくれない。
そうやって十秒ほどぐずぐずとしていると、
「さて、そろそろ行くか」
そう言って田町は背中を見せたのだ。私がなにを言えずにぐずぐずしているのか伝わったのかもしれない。
折角あんたみたいな相手に、正しいものを返そうとしているのにこの反応。
「……飛行機まで、まだ時間があるんでしょ?」
「ああ。それまで綺麗なラウンジで、優雅に酒を嗜むつもりだ」
「昼間からいいご身分だこと」
「まあな。有給消化に入ってから、ずっとそうやって時間を持て余してるんだ」
それだけ時間があるのなら、少しくらいこっちの感情を汲み取って、その整理に付き合うべきじゃない。
そんな一方的な想いが湧いてきた。
「だからないのは、テメェなんぞに付き合ってやる時間だけだ」
どこまでもこの男は、どうでもいい他人に対しては薄情である。私に時間を恵んでやる価値がないとでも言うようだ。
ああ、もういい。
そこまで言われたら、借りを返すのも失せたというもの。
そうやって、保安検査場へ向かって田町は歩いていく。それを抜ければ、今度こそその姿を見るのが最後になる。
「ああ、そうだクソ姉」
思い出したように歩みを止めた。
振り返ることなく、
「二度とその面、見せるんじゃねーぞ」
人と人の別れに相応しくない言葉を吐き出した。
でもそこには揶揄する色も、侮蔑の音も宿っていない。
どこまでも生真面目で、重たく、それだけは絶対に許さんぞという通告だ。
酷い形だけれども、その中身の意味はしっかりと伝わった。
「言われなくても、あんたの顔なんて二度と見たくないわよ」
だから私もまた、今日伝えなければいけない言葉とは、かけ離れたものを背中に吐いた。
これは私たちの間で交わされた、一番重たい約束だから。一方通行であってはいけないのだ。
田町はそうやって、片手をひらひらしながら去っていく。
顔は見えないけれども、その背中はどこか満足そうだ。
そのまま保安検査場をくぐり抜け、その一時間後には飛行機は飛び立った。
そうやってろくでもない大人は、この国を去っていったのだ。
◆
これが二年前の話。
楓の思い出の家に、ろくでもない大人がいなくなった理由。
この家には現在、新たな借り手がついている。
楓いわく、あの男が住んでいた数年間は、この家ではなにも起こっていない。瑕疵物件としては十分な実績であり、借り手もすぐついたのだろう。
ただ周囲に猛威を振るい続けているのは変わらないらしく、未だに近隣住民はこの家を恐れ慄いているだとか。
楓をこの家から連れ出して以来、私たちがここを訪れたのは初めてだった。
こうやって眺めている限り、どこにでもある家屋なのに、バカにはできない不思議な力が宿っているのだろう。
それに守られてきた楓はただ、この家で過ごした思い出に浸るように、黙って見上げている。
周りから見れば私たちは、この家の噂を聞いて、訪ねたオカルトマニアの野次馬だろう。
私は黙って、そんな楓の側に寄り添った。
でもその時間は長くはない。
「行きましょうか、姉さん」
「もういいの?」
「はい。わがままに付き合ってくれて、ありがとう」
たった一分で満足したような微笑みを浮かべていた。
今日は楓にとっての人生の区切り。
人生の大きな転機を過ごしたこの家を前にして、心の整理を付けたかったのかもしれない。
必要以上に楓に問うことなく、黙ってそれに従った。
そうやってこの家を背にして、一軒分離れたとき、凄まじい唸りが耳をつんざいだ。それが爆発音だと気づいたのは、音に釣られて振り返ったとき。
メラメラとした真っ赤な色が、薄闇色の世界を拭い去る。二階の窓からもうもうとした黒煙が夜の帳を目指して上っていた。
火事だ。
爆発の原因はわからないが、火の手があの家を焼いているのだ。
火元はなにか、とか、巻き込まれる前に逃げないと、なんて考えは浮かばない。
整理をつけたばかりの楓の思い出が燃え盛る。
目の前でそんな光景を見せつけられた本人が、どう感じているのか。どんな悲しみを抱いているのか、その苦しみと辛さを思うと、胸が痛かった。
「ぷっ……ふふふ」
そうやって楓の横顔を見てみると、
「あははははは!」
これでもかとお腹を抱えて笑い始めたのだ。
突然のことで気が狂ったとか、錯乱したとかそういうのではない。どこまでも清々しい、気持ちのいい感情が溢れ出したそれである。
「たーまやー!」
口の周りを両手で囲うと、どこまで嬉しそうに楓は叫んだ。
ああ、それはまるで。
綺麗な花火を前にして、はしゃいでいる子供のようだった。




