第1話 ただいま
あの日の事を、彼はよく覚えている。
昨日のように、数分前のように。目を閉じればいつだって、手に取るように思い出せた。
どこまでも続く青い空に、いつまでも続く緑の丘。絹のように艶やかで黒い髪を、風がやさしく揺らしていた。
「あーあ、これで終わりかあ」
彼女は笑う。指先は眩い光となって大気に溶け出してもなお、彼女はいつものように笑っていた。
それが、彼には悔しかった。手を握り締め、その先から血をこぼしてなお、彼は無力だった。
――何もできない。目の前にいる最愛の人に対して、彼ができることは何もない。
だから、彼は覚えている。頬を伝う涙の感触を、まだ確かに残っている。
「もう、泣かないでよ。こっちだって結構無理してるんだから」
彼女のその手が、彼の顔にそっと伸びる。
だけど、触れられない。流れていくそれを、彼女が拭うことはない。
「指、もうないね」
その手にはもう触れられない。あの優しかった手が、いつかつないだ柔らかな指が、もうここにない。
だから、彼女を抱きしめた。ここにいる。彼女のぬくもりは、まだここにある。
「また会えるかな」
夢のような願いを、彼は呟く。ありえない事だって、彼にはわかっている。
だから願う。その願いは、今日まで千年褪せはしない。
「何か方法を見つけてさ、きっとあなたに会いに行くね」
彼女の事が大好きだった。唐突にやってきて、あの小さな片田舎から彼を連れ出したお転婆を、彼は愛していた。
「だからさ……待っててね」
大丈夫、大丈夫。あやすように彼女が言う。
泣いている彼よりも、笑っている方が好きだから。
「いくつになっても、そばにいてあげるんだから。あなたのこと、きっとまた見つけて……また一緒に旅をしようね」
「そうだね、そうしよう」
それが二人の願いだった。この美しい世界を、ずっと二人で歩いていく。
そんな永遠のような希望を、二人は願う。
「またね、ローランド。浮気したら承知しないよ?」
彼は笑う。泣き顔でぐしゃぐしゃだけれど、精一杯の笑顔をみせた。
「いってらっしゃい、美咲。僕はずっと待っている」
どこまでも続く青い空に、いつまでも続く緑の丘。
そんな場所でただ一人、英雄と呼ばれた男がいた。
――彼はただ、笑っていた。いつまでもこぼれる涙を、ただそのままに流しながら。
§
ちょうど、十年前の事である。
茶色い皮の上着を羽織った、真っ赤な髪の男が一人で酒を飲んでいた。一見すると二十代前半から中盤にしか見えないが、実際は違う。
実年齢、千飛んで十歳。それが彼の本当の生きた時間の長さだ。
――不老不死。二十代半ばの頃に彼が手に入れた特性は、まだ消え去ることがない。
彼は誰に祝われるでも無く、千歳の誕生日の夜を一人酒を煽っている。
不老不死になって一番問題だったことは、金だった。
彼はあまり目立ちたがり屋ではなく、不老不死も望んで手に入れたものではなかった。大々的に城を建て、どこかの王侯貴族になる。そんな生活は彼にとって不自由でしかなかった上に、あまり不老不死というものが有名になるのもどうかと考えていた。
そんな彼におあつらえ向きだったのが、賞金稼ぎという仕事だった。
人、獣、魔物。
千年経って少しは便利になった世界だが、少なくとも厄介事はそこら中に転がっている。それを倒して、金を貰う。素性は聞かれず、経歴年齢不問と来ている。ただ結果だけが金になる賞金稼ぎは厄介者にはうってつけの職業で、互いに脛に傷を持つ同業者の間には個々人の素性を詮索しないという暗黙の了解があった。
軽食をつまみながら、店で三番目に高い酒を煽る一人の男は、傍から見ると仕事の疲れを酒で癒やすまだ若い賞金稼ぎでしか無かった。歴史書にその名を刻む英雄だとは、誰もが思うはずはない。
ただ、一人を除いては。
「マスター、私も彼と同じものを」
いつの間にか隣に座っていた女が、店主にそんな気取った注文をする。古い知り合いだと声でわかったので、彼は席を立とうとした。
「あら、逃げるのかしらレッドくん」
名前を呼ばれる。ローランドという本名ではなく今名乗っている通り名だったので、彼は大人しく席に戻った。
「久しぶり、クローディア」
そこにいるのは、随分と豊満な体の持ち主の金髪美人だった。不老不死ではないが彼よりも年上。つまるところこの世界の神様の一人だ。彼を子供扱い出来る、数少ないこの世界の生物。
「ひどいんじゃない? 誕生日をお祝いしに来たのに、逃げようとするなんて」
「君が来るときは、だいたいが厄介事を押し付けられる時だからね」
肩をすくめて、レッドが軽口を叩いてみせる。会話の邪魔にならないよう、店主はそっと女神の前に黄金の酒をシングルで捧げた。
「おめでとうレッド。年齢は……お互い秘密の方が都合がいいわね」
「そうだね。僕がまだ君がいくつか知らないのは、少し不公平だと思うけれど」
「あら? 殺されたいようね」
「ほうら、すぐこれだ。だから年上ってのは扱いづらいんだ」
「年下なら上手に扱えるのかしら」
「少なくても君よりはね」
「なら、丁度良かったわ」
彼女は年不相応にクスクスと微笑みながら、足元に置かれた大きな鞄を指さす。革張りの旅行者用のシンプルな鞄は少なくとも彼の知る限り三百年程度は人類に愛されている形をしていた。単純、頑丈、便利。長い年月をかけて、人類は旅行鞄という概念の極地を会得したのだ。それも、三百年程前に。
「誕生日プレゼント。きっとあなたにピッタリよ」
「厄介な奴?」
「素敵なものよ。年下が得意なあなたには、特別に」
彼はそれを持ち上げ、金具を外す。顔を上げ、開けてもいいものか彼女に聞こうとしたのだが。
いつの間にか、彼女はその場にいなかった。木製のカウンターの前には、水で書かれた文字が残されている。
Happy Birthday to you.
皮肉にしか思えない言葉を袖で拭い、彼は鞄を開ける。
大事そうに絹でくるまれた、赤子がいた。
それからキスマークのついた手紙が一枚。
『手違いで別の世界の人殺しちゃった。お詫びにこっちに呼んでおいたから、あなたが育ててね。名前はミサキ、それだけでいいわね? 才能あるから、きっと色々楽しいはずよ。じゃあね不死身の英雄さん、子育てはきっと初めてでしょう?』
――悪い冗談だ。
彼女と同じ名前が書かれた手紙を破り捨て、鞄を閉じる。
それから指を鳴らして、ため息をつきながらこう言った。
「マスター、お勘定」
「パパ、どう!?」
「二十点」
魔法で木々をなぎ倒し、笑顔ではしゃぐ十歳の娘に向けて彼は辛辣な採点を下した。
「あのさミサキ、僕いつも言ってるよね? 無駄が多い、発動が遅い、いちいち喜ぶな。その三つ守ってた?」
魔法の基本。
簡潔に、素早く、冷静に。
その三つを徹底できなければ魔法そのものを正しく運用できないことを彼は知っていた。
「じゃあ、パパが手本見せてよ」
ミサキと呼ばれる少女は不満そうに頬をふくらませ、『パパ』は大きなため息をつく。
彼はこの十年彼女の保護者としてありとあらゆる事を教えていた。今日は魔法を教える約束だった。
彼はゆっくりと手を伸ばし、バーテンでも呼ぶかのように指を鳴らした。彼にとって魔法は、ただそれだけでよかった。例えそれが村一つ軽々と吹き飛ばせるような、通常なら選りすぐりの術者が十人単位で運用しなければならない魔法も、そういう物だった。
手本と呼ぶには、それはあまりに盛大だった。
暴風が吹き荒れ、木々が空を舞う。根こそぎという言葉通り、巨木の根が剥がれていく。
彼が手を下ろせば、風が止んで木は落ちた。
「はい、手本」
百点満点という枠に収まるかすら怪しい範囲での魔法を見せつけてなお、彼はため息をついていた。人気のいない森とはいえ、目立つのは好きではなかった。
「じゃあ、わたしもう一回やる」
娘も彼の手本が完璧な事ぐらいわかっていた。それなのに手本をせがんだのは、子供らしく不満を漏らしたのが原因だ。だが、また風を起こそうとする娘の頭に手を乗せ、彼は大きなため息を付いた。
「いいや、今日の魔法はもう終わりかな」
「なんで!?」
目を見開いて、驚きを隠さずに彼女が言う。素直に育てすぎたかなと彼は少しだけ後悔する。
「倒す木がもうなくなった」
山一つ。
木々で覆われていたはずなのに、いまはもう地面しか見えない。これ以上やってしまうと地図を書き換える必要が出てくるので、それは避けたいというのが彼の本音だった。
「パパのせいじゃん!」
「ミサキが手本をせがむからだよ」
「大人げない! 千年も生きてるくせに!」
「そっちこそ、子供っぽすぎない? 前の世界では少なくとも十六年は生きたんでしょ?」
パパの言葉が彼女の言葉に突き刺さる。彼女は前世の記憶を引き継いでいて、十六の時に事故にあって死んだと聞かされていた。六歳程度は誤差なのかとも考えたが、少なくともそれは不老不死の自分の感覚だとすぐに否定した。
「わたしはいいんだもん!」
「なんで?」
そう尋ねると、ミサキは満面の笑みを見せた。
「かわいいから!」
真っ赤な髪をかきあげながら、彼は盛大に溜息をついた。
魔法の修練を終え、童話程度の歴史の座学も終わらせて、彼らは小川の近くで焚き火にあたっていた。食事は質素で、魚と保存に適した硬いパンに食べれはするが味のしない野草をふんだんに使ったほぼ塩の味しかしないスープ。育ち盛りの子供の体には物足りない事この上無い。
「パパ、これ美味しくない……」
「僕は素材の味がして好きだけど」
千十歳と十歳の間にある悠久の隔たりの中でも特筆すべきは、味の好みだ。彼の好物は娘にとって味気なく、彼女の好物はパパにとっては濃すぎた。調味料という便利な物が売ってはいるが、そんな贅沢をするほど蓄えもない。蓄えるには、目立つ必要があるからだ。
「あーあ、ラザニアとか食べたいな。美味しいんだよなあ……」
「そうなんだ」
時折、ミサキは自分が元いた世界の話をする事がある。トウキョウ、マンガ、ゲーム、テレビ、ネット、プリクラ、ゲーセン、スマホ、なんとかこんだか。問いただしても理解できない事をレッドはこの十年で十分に学んでいたので、件のラザニアについても追求しなかった。
「あ、パパったらラザニア知らないんだ」
「トウキョウとかの食べ物だろうからね」
「違うよ、今王都の方で流行ってるんだよ。行列が出来るぐらいに人気なんだって」
「でも、トウキョウにもあったんだよね」
「そうだけど……」
ミサキが元いた世界とこの世界の共通点はゼロではなかった。同じ花壇に咲いた別の花のようだとレッドは勝手に考えている。動植物や自然の概念はよく似ているが、そこに立つ文化は全くの別物だ。時折枝葉の模様が一致することもあるが、花そのものが一致する事はありえない。
ラザニアも、きっとそういう偶然の一致の一つなのだろうとレッドは考える。ただ、はいそうですねと流してしまえば娘に不興を買うだけで。
「なら、こうしよう」
実際の所、レッドにとってミサキがどこかへ行ってくれたほうが楽だった。半隠遁生活に戻り、日銭を稼いで日々を過ごす。ただ今すぐそれが出来ない程度に彼女に情が移っていた。
「次の村で、何か適当な魔物の賞金首を探そう。そいつをミサキ一人で倒せたら、ラザニアを食べに行こう」
「本当!?」
「言っておくけど、僕は絶対に手伝わないからね」
「うん、うんうん!」
「わかったら、好き嫌いしないでそれを食べる。いいね?」
「はーい」
随分と素直になったなと、魚を頬張るミサキを眺めながら彼は想う。
ただ、それで良かったと彼は思う。暗い顔で過去を引きずるよりは、ずっと。
晩酌用の酒を鞄から取り出し、ショットグラスに注いで飲む。晩酌は彼の数少ない趣味の一つだ。
「いっつも思うんだけどさあ、パパってアル中だよね」
「飲んだくれの事だっけ」
「そんなに美味しい? 前ちょっと貰ったけれど、この世の物とは思えなかった」
「お子様にはわからないよ」
「ちがうもん、十六と十だから今年で二十六だもん」
「『二十六だもんは』……そうだな」
たまにミサキが使う表現に、ちょうどいいのがあったと想い出す。
「『二十六だもん』は、ヤバイ」
「もうしらない、おやすみパパ!」
まるっきり十歳の子供らしく、彼女は頬をふくらませながらテントの中へと戻っていった。少し意地悪をしすぎたかなと後悔しつつも笑いながら、彼は二杯目の酒を注いだ。明日謝るかどうかは難しいが、少なくとも子供らしい方が良いと言ったのは彼だった。
たった十年。
千十分の十だというのに、千十分の百よりも昔に思える彼女との日々。まだ残っていた魚をあてにしながら、彼にしては珍しく感傷に浸っていた。
彼女を預かってから最初の二年間を、彼はよく思い出せない。
何が起きて、何があったか。そんな細かいことを覚えていられないぐらい、ただただ忙しかった。赤子の世話は千年の時間を生きたとはいえ家庭を築いたことのない独り身の男には重労働でしか無かった。
五歳の彼女の誕生日を、彼は本当によく覚えていた。
特に言葉も教えていないのに彼女がおかしな事を言い出したからだ。よく親は子供の初めて発した言葉を覚えているという話があるが、彼ですらその例外になることはなかった。
それほどまでに衝撃的だった。
「今までお世話になりました」
冗談だろう、と彼は驚いた。ぺこりと小さな頭を下げて、ご丁寧に彼女がそんな事を言ったからだ。そこで初めて、普通の子供ではなかった事を思い出した。
「ここまで育てて頂いたことを、私は生涯忘れません」
転生者。前世からの記憶を引き継いでいるとは聞いていたが、その経験までもを引き継いで――いや、引き摺っていた。ご恩などという単語は、五歳の口から出るものじゃない。
「話、できたんだ」
「余計な負担をかけさせたくはなかたので」
ひどく抑揚のない声で、彼女が言う。
「そういえば、彼女の手紙に書いてあったな……前世の事を覚えているんだっけ?」
「はい、覚えています。忘れようとしましたが、出来ませんでした。本当に最悪の人生で……地味で、根暗で、暴力を振るう父親で。そうだ、これは聞いてました? 私、自殺したんですよ」
「聞いてないかな」
「高校生になって、何かが変わると思って……何も変わらなかったんです。ただずっと続いていた最悪の毎日が繰り返されて。本当、なんなんでしょうね。母の職業が、私に関係ないはずなのに」
いつのまにか、彼女の声には感情らしきものが顔を出していた。絶望。その二文字ぐらい、辞書を引かなくても彼は知っていた。
「だからね、電車に飛び込んだんですよ。ざまあみろって、叫んでやりたくなったんですよ。たかだか私の体一つで、きっと何千人もの人に迷惑がかかって。やったって、思ったんですよ。それで死んだと思ったのに……変な人に、勝手に生き返されて」
「ああ、確かに彼女は変な人だね」
「本当は、死のうと思っていたんです。ほら、赤ん坊って簡単に死ぬんでしょう? 高いところから落ちたり、何日も放置されたり」
そこで彼女は言葉を途切らせたように。いつのまにか、彼女は涙を流していた。
「けれど、だけど……あなた、お人好しでしたから。迷惑かける気になれなくて」
服の袖で涙を拭い、彼女は彼と向き合った。それからまた真面目な顔で、彼に深々と頭を下げた。
「だから、今日までありがとう。良い事なんて一つもなかった、最悪の人生だったけれど……あなたに育てられたことは、たった一つの幸せでした」
千年、彼は生きてきた。
良いことと悪いことを引き算すれば、片手で収まる程度の良いことが残る人生。長生きも悪く無いと思えた、そんな人生を過ごしてきた。
彼女は違った。
悪いことだけ山のように、良い事はたった一つだけ。それが彼だと、彼女は言う。
それが、許せなかった。
「そういえば、名前を聞いていなかったね。それから、年齢も」
「もうご存知のはずですが」
「君の口から聞きたいんだ。君自身の言葉でね」
「工藤美咲、十六歳です」
「違う」
――違う。
「君はそんな名前じゃないし、そんなに長く生きていない」
ただの一瞬を思い出す。五年。それが彼と彼女の全てだ。
「君はミサキ……そうだ、名前をあげよう。黴臭くなったけれど、僕に残った数少ない物だ」
彼は立ち上がり、彼女の頭に手を置こうとする。だが彼が手を伸ばした瞬間、彼女の体は震えていた。最悪の父親は、いつもそうやって彼女を殴った。
だから、彼は抱きしめた。そうするべきだと知っていた。
「ミサキ・E・ウィンフィールド。それが君の名前だろう?」
いつかそんな名前を冗談で言った人がいた。思ったよりも語呂が良いと笑った彼女は、まだこの場所にいない。
だけどいいだろう?
千年も待っているから、それぐらいの些細な事は。
彼に寄り添う小さな手は、いつのまにか震えが止まっていた。
「それに君は、まだ五歳だ。どこをどうみたって、十六には見えないな」
「……はい」
そこで彼は軽く咳払いをしてみせた。
「いいかいミサキ、子供は『はい』なんて言わない……わかるね?」
「うん!」
子供らしく彼女は笑う。
良い事と、悪い事。その差が一つ縮まった。
もし賞金首になりたければ、道行く人に金と似顔絵を渡し役場で申請すればいい。政府が指定した賞金首も存在するが、個人で申請された物の方がずっと多い。妻と逢引した逃亡中のどこぞの誰とか、盗みに入ったどちら様。小さな村や街単位での自警団は存在するが、そんなものは移動してしまえば追いかけてこない。そういう連中の尻の毛を毟りたい人間にとっては十二分に意義のある制度だった。
また、人間以外にもかける事が出来る。近隣の村を襲う魔獣から、国を陥落せんとする翼竜。畑を食い荒らす猿まで、選ぶ側にはよりどりみどりだ。
「この当たりが良さそうだね」
彼は役場の掲示板に貼られた何枚もの紙の中から、一枚を選んだ。
魔物ハウンドドッグ。
ドッグと名のつく通り犬の一種ではあるが、その体躯は熊の方が近い。極度に発達した筋肉は悪路を駆けるばねとなり、体重からは想像できないほどの跳躍力を見せる。毛並みはそのほとんどが黒く、夜に襲われる者も多い。ただ縄張りを荒らされなければ進んで人里を襲うような事をせず、特別繁殖力も高くないため自然と寿命で死ぬ個体がほとんどだ。
魔物の大半がそうであるように、賞金をかけたのもこの村の住人だった。ちょうど裏山に出没するらしく、山菜の類がとれなくなったらしい。協力し作戦を立てれば村人だけで倒しきれない存在ではないためか、かかっている賞金はせいぜい一日分の二人の食費程度だ。
「普通」
ミサキはどこか不満そうだ。
「不満かな」
「弱っちそうだし、お金にならない」
「まあ魔法を使えばすぐに終わるだろうね」
「でしょ?」
「だから、今回は条件付き。魔法は一切使わないこと」
魔法を使えば、簡単。なら使わなければどうか。
「……なんで?」
「何でも」
そう、何でも。もちろん彼に考えはあるが、あえて説明をしなかった。習うより慣れろ。少なくとも彼の経験では、戦闘とはそういう類のものだった。
それから二人は村の雑貨屋である程度必要な物を買い揃えて、魔物のいるという山へと向かった。
魔物と獣の違いはたった一つ、魔法が使えるかどうかだ。どれほど大きな肉体を持っていようが、魔法が使えないならば獣だ。逆にどれほど小型の生物であっても、魔法が使えたならそれは魔物。使える魔法は少なく、平均でも二、三種程度。
ハウンドドッグはさらに少なく、たったの一種類。相手の動きを遅くする、拘束魔法の一種類。狩りに特化している猟犬にふさわしい魔法だ。
狩るための定石は二種類。殺られる前に殺るか、複数人で囲んで倒す。
「ねえパパ、魔法以外は何でも使っていいの?」
「どうぞご自由に」
ミサキは自分用の鞄を広げ、使えそうなものを物色し始めた。中々良い物が見つからなかったらしく、ただ周囲が散らかっていく。
「ちゃんと後で片付けてよ?」
「うるさいなあ、あとでやるよ」
結局彼女が選んだものは、縄と短剣だけだった。
「それでいいの?」
「……ちょっと不安かも」
「それぐらいがいいよ。慢心はあまりおすすめしないからね」
彼は周囲を見回した。日はそろそろ沈みかけ、ハウンドドッグが出るには丁度いい頃合いになっていた。
「それじゃ、行ってらっしゃい。僕は村で待っているから」
「うん!」
そう言い残すと、彼女は笑顔で山を駆け登る。小さくなる姿を彼は黙って見つめていた。ふと、足元を見る。鞄の中身が散乱して、ここだけ別の空間のように思える程私物が広がっていた。
その一つを、彼が拾い上げる。
もう一つを、いつの間にかいたクローディアが拾っていた。
「あの子、一人で狩りなんてしたことあったかしら?」
「ないよ」
「大丈夫かしら?」
「さあ」
「心配だから見に行くんでしょう?」
「ここを片付けてからね」
「そうしましょうか」
大丈夫、大丈夫。
そんな気休めにもならない言葉を、ミサキは唱える。
魔物を退治するときは、いつも彼が側にいた。今はいない。お得意の魔法も彼から使うなと言われている。
怖くない、怖くない。
短剣を握るその手はまだ小刻みに震えている。
剣の指導を受けていない訳ではない。剣どころか、槍や素手での戦闘までひと通り教えこまれている。ただ、それを上手く扱える自信はなかった。
魔法は、少し自信がある。目に見えてどうなるかを、いくつも目の当たりにしてきた。こうすればああなる、そうすればどうなる。それぐらいわかっている。
ただ、近接戦闘は別だ。
自分がどれほど強いのか、皆目見当もつかない。レッドと戦った時は、一撃だって彼に当てられた事はない。
大丈夫、怖くない。
彼女は深呼吸をして気分を無理やり落ち着かせた。
茂みが動く。呼吸を殺し、耳を研ぎ澄ませ目を凝らす。雑草をかき分け出てきたのは、小さな野兎だった。
「はあ……」
ため息を漏らす。心配しすぎたったかなとミサキは少しだけ自嘲した。
――二十六年も生きている。それなのに、暗い夜道が怖いなんて。
彼女自身、普段の振る舞いが子供っぽい事ぐらい自覚していた。だが、それでいいと彼女は思う。折角やり直したのだから、これからは楽しもう。嫌なこと全部忘れて、楽しく彼と生きていこう。
そんな夢みたいな事を、少女は願う。
願ってしまった。だから、一瞬の判断に失敗した。
後ろから飛びかかってきた魔物に、彼女は気づけない。
魔物の咆哮は地鳴りによく似た音をしていた。
――来る。それに気づき、振り返った時にはもう遅い。彼女の何倍も大きな魔物が、もうそこに立っていた。
倒さなきゃ。
震える両手で短刀を握り、魔物に突き立てようとする。
彼女の腕がまっすぐと動く。
だが、遅い。
縄で縛り付けられたように、少しづつしか動かない。
それが魔物の魔法だと、気づいた時は遅かった。ゆっくりと動く短刀など、ハウンドドッグにとってはささくれた枝程度の脅威しか無い。それを前足で払いのけると、魔物は勝利の雄叫びを上げた。
黒い獣は彼女を押し倒すと、顔面の上に涎をこぼした。
怖い。
大丈夫なんかじゃない。
思い出すのは父の顔。パパじゃない、彼女の実の父親だ。
何度も殴られた。
電車にはねられバラバラになった腕には、何度も煙草を押し付けられた跡があった。
ごめんなさい。
何度も謝った。
その度に殴られた。許される方法はない、ただ父親の気が済むかどうかで決まる。そういう時は、いつも今みたいに暗かった。
ごめんなさい。
それを繰り返したところで、救いなんか無かった。
ただ終わるまで、じっと耐えていた。
体は磔にされたよう動かない。ごめんなさい、ごめんなさい。何度も繰り返す。それが終わらせる一番の方法だと、彼女の体に染み付いていた。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
呪いのように繰り返した。
――魔法は一切使わない。そう言ったでしょう?
誰かの声が聴こえる。懐かしくも温かいその言葉は、彼女の金縛りを解いた。
魔物が一瞬の隙を見せる。
もう迷わない、間違えない。
彼女は隠していたロープを取り出し、素早く魔物の首に一周させる。あと少し。ロープを握りしめたまま、大地を蹴って飛び上がる。彼女は魔物の背中に乗ると、力一杯ロープを締め上げる。掌の皮は剥がれ、縄には血が滲んでいた。
大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫。
呪文のように彼女は唱える。魔法じゃない、彼女だけが使える呪文。
それから、彼女は呟いた。
ごめんなさい。
奪っていく命に、金のために殺すことに。
誰に許しを請うでもなく、彼女はそっと呟いた。
嫌なことを忘れられない。
だから、あの時のことを覚えていよう。
悪い事全部忘れずに、良い事全部思い出す。今はマイナスの二つの差、まずはゼロに戻していこう。
きっとそれが、今の彼女に出来る精一杯で。
力一杯縄を締める。
ハウンドドッグの体が、その場で崩れ去る。彼女がじっと両手を見れば、皮は爛れて血だらけだった。それは彼女がこの十年で、初めてした大きな怪我。
これまでとは違う、自分でつけた怪我。それが少しだけ彼女には誇らしかった。
「甘すぎるんじゃあない?」
クローディアはレッドに聞いた。だがレッドは素知らぬ顔で、ただ木の上からミサキを眺めていた。
「これは僕の教育方針だから」
「知らなかったわ、あなたが親馬鹿だったなんて」
二人はその場を離れると、彼女を待つため村へと戻った。
「おかえり、ミサキ」
焚き火にあたり鞄に腰を掛け、彼は彼女にそんな当たり前の言葉をかけた。
ミサキはハウンドドッグをロープに縛り付け、精一杯引き摺りながら下山した。
おかえり。
そんな当たり前の言葉を、彼女は何年ぶりに聞いたのだろう。だけど、まだ覚えている。なんと答えればいいのかを、まだはっきりと覚えている。
幸せだったあの時は、いつもこう答えていたから。
「ただいま、パパ!」