誰かの心臓
炊いた茶葉がほのかに香ってくる。地下にあるこの部屋には下水の匂いが充満していたが、徐々にその嫌な匂いは気にならなくなってきた。その代わりに美味しそうなお茶の香りで部屋中が満たされていく。
メニックは壁にもたれかかり爪を鳴らす。その表情に悲壮感といったネガティヴな感情は見えなかった。時間の停止した世界は困ると言っていたが、この状況を楽しんでいるように見える。
メニックは様子がおかしいノヴァの事をエクリプスと言い、そして彼は王弟だと告げた。
時間停止の理由がその王弟である事に関係していると言っているのだろうか?
「もしノヴァがそうだとして、王弟である事が何か関係があるってのか?」
「大いに関係するね。君は気づいていたかい? そこら中に彼を狙う刺客がいた事をね」
「刺客? ノヴァが狙われてたって事か?」
「たーっくさんいたさ。あぁ、そうか。そういう事なのかな」
思いついた、とばかりにメニックは顔を上げる。
「周囲の人々が皆気づかなかっただけで、今までもずっとこうしてきたのかかもしれないね。時間を止めて、敵を排除する。その繰り返しさ」
「俺が知っているノヴァは無差別に誰かを傷つける事なんてしない」
王弟だろうとなんだろうと関係ない。無闇に人を傷つけたりなんかしない。
あれは別人だ。
「随分と自信があるんだねぇ」
「当たり前だ。同じパーティーのメンバーだから。あいつはノヴァの振りした別人だ。それでこの話は終わりだ」
もう既に体の痺れは無くなっていた。メニックには雷撃から助けてくれた感謝はあるが、なんとなく嫌な感覚がずっと残っている。
早くこの場から離れよう。そう思って立ち上がる。立ち上がった時、机端に置いてあった布の塊がふと気になった。
メニックの行動ばかり監視していた為、気づくのが遅れた。見覚えのあるこの布は町に立てられている旗だった。
その布は黒く濡れていた。
「あぁそれ気になる? 心臓だよ」
「は、え……心臓……?」
「雷獣を盗ってきてくれって頼んだのにさぁ。驚いたよ」
「これ、は……」
いつの間に移動していたのだろうか。メニックはキッチンから部屋の奥でパーテーションをずらしていた。
「せっかく雷獣が転移して来る場所としてこの頑丈な装置を準備したのに」
パーテーションの陰にあったのは、人が何人も入れるくらいに大きく透明な四角い箱だ。箱というよりも小さな部屋のように見える。その透明な部屋の壁にメニックは頬をつけている。そして爪で傷つけないように手のひらで何度も撫でていた。
「あぁ、この入れ物の檻はジェネラルクラスの百六まで耐久が出来てね。ポーン程度ならどれだけ集まっても統率が上手くいかずにばらけるから、そこまで頑丈な檻は必要ないんだけれど、ジェネラルは一体でもいれば檻の耐久力がかなり必要になって「誰の」き……うん?」
「……誰の、心臓だ?」
「それは知らないよ。旗を渡したのは刺客だからエクリプスのかと思ったけど、彼は元気そうだしね」
「いつ、これが?」
「時間停止の直前くらいかな?」
「……お前っ! どうなるか分かってて渡したんだろ!」
「なんだよ。たかが一人分の心臓だよ?」
「……っ!」
メニックは気づいていないのか。
俺は、まさか、という思いばかりが頭の中を占めていた。
時間が止まった世界で見たあのノヴァはきっと別人だ。
それじゃあ本当のノヴァは?
どこで何をしている?
偽物のノヴァは言っていた。
「……"治せるのか"……って」
もしかして。
心臓が無くなった人を治せるか聞いていたんじゃないか?




