第4話 胡蝶蘭
ここで一句。
授業終わり クラスは喧騒 やかましい 人間愚か ゴミすぎる
…脳のリソースを大変無駄遣いしてしまった。よく人工知能の研究者は人間の脳は凄いと言うが、例えどんなに凄くても人には優劣はあるしリソースも有限だ。人生と脳のリソースが有限である以上、人間が永遠に思考を続ける事はできない。
人は人生のうちに膨大な数思考をするが、それでも"人生のうちに一度も思考をしなかったもの"は存在する。なぜなら、思考出来る事は無限に存在するからだ。よって、思考に時間を使うのであれば、有意義な事に使うべきだ。俺も改善していかないといけないな。
そんな事を考えながら、バックから弁当を取り出そうと、チャックを開けて、ふと思い出した。昨日、電車で再会した雪憐…。あいつ、ちゃんとご飯友達と食べているのか…。
小学校の時は俺にベッタリだった。もし、あの調子のままだったら、友達なんてできる訳ないだろう。だが流石に、4年という歳月が人を変えるのは昨日の電車で証明済みだ。しかし、それはそれで自分で友達を作る雪憐というのは興味を持つ。
…覗いてみるか。我ながら気持ち悪いのは自覚しているが、興味があるのだから仕方がない。それに後輩である以上今後接点は持つだろうし、万が一友達ができていないなら、たとえ助けを求められなくても助けたい。
どうせ後悔するなら楽しそうな方を選ぼう。
バックか弁当を取り出して手に取ると、後ろから紗恵がツンツンと背中をつっついてきた。
「なんだ、こいつ、昼の休憩まで俺に労働させる気なのか?」
「夜彩!心の声丸聞こえだよ!」
後ろを向くと、紗恵が驚いたようなオーバーリアクションで言ってくる。
「ああ、ごめん。つい本心が…」
「え?えーと、友達やめていい…?」
「なんでそうなるんだ。会話は労働のうちに入るだろ。苦痛なものはすべて労働だ」
「それ、夜彩だけじゃないの?」
「そういう考えが日本社会を駄目にするんだ。これは労働じゃない…あれは労働じゃない…。だから、日本は残業代が出ないんじゃないのか?一人一人の認識を改めない限り社会は良くなっていかないぞ」
俺はビックリするくらいの正論をぶつけた。そうだ、よく言ったぞ、俺。みんながしょうがないと思うから、飲み会の半ば強制参加がなくならないんだ。
飲み会なんてあれ完全に労働だろ、なんで労働時間外まで職場の人間関係を続けなくちゃいけないんだ。
紗恵からは納得のお声をいただきたいが、なかなか返事が返ってこない。あれれ、おかしいぞと思い見てみると、紗恵は蔑んだ目でこちらを見ていた。なんというか、電車で下半身を露出させた不審者を見るような目だ。が、蔑んだ目だけではないようだ。
後ろにはメラメラと静かだが熱い怒りを感じた。炭って一見燃えてなさそうに見えて実際はちゃんと燃えている時があるが、そんな感じの怒りだ。
「キモ」
ついに出ましたねSSR。今ドM中年サラリーマンがJKに言われたい言葉ナンバーワン。しかし、少し時間を置いたあたりリアルだったな。多分、紗恵も流石に迷ったんだろうけど、今回は怒りが抑えきれなかったのかもしれない。
確かに、俺のような思考型陰キャボッチに一番効くのは煮詰めた理論よりシンプルで強烈な感情だ。流石紗恵、よくわかってらっしゃる。オタクの方々そういうタイプ多そうだもんね…。
いや、データが無いのに推測するのは偏見だな。機会があれば統計をとって調べてみたい。
だが、俺もこの性格を伊達にやっているわけではない、この手の対策は既に経験済みだ。ダメージを食らうどころかむしろ教科書通り対策をしてくれてありがたいと思った。こちらが理論でいっているのにあちらが感情を出されたのでは議論にならない。
サッカー選手と医者を比較するようなもので、優劣をつける絶対的基準が存在しない以上無意味なことだ。それに理論は例え詭弁であったとしても、根拠と論理立てが必要だが、感情にはそれらの手順がいらない。そういった意味では感情の方が圧倒的に強い。
これは無意味な負け戦に時間をかけるのは得策では無いだろう。打ち切るか。
「"キモい人"とは一緒に食べない方がいいんじゃないか?」
「そうする。せっかく誘ってあげようと思ったのに…」
「俺は前に拒否しただろ。それ以上は自己責任だ」
紗恵は善意で誘っているのだと俺は推測している。確かに、今回の会話だけ見ると俺が紗恵の善意を無神経に踏みにじったように見えるが、それは違う。前に誘われた事があってその時はある程度丁寧に断った。そして、俺は紗恵と食べない意向を伝えたはずだ。
拒否したのに続くのであればそれは善意ではなく悪意だ。悪質さの程度は違うが、ストーカーが被害者のポストに金銭を入れるのと同じ事だ。その悪意を続けるのであれば、それ相応の対応が取られるのは仕方がない事だろう。そういった意味での"自己責任"だ。
紗恵は聞き終わると何も言わずに立ち上がり、他の女子の友達のところに行ってしまった。なんであいつは友達がいるのに俺に構うのだろうか。友達がいるのであれば俺に構うメリットは無いはずだ。
理に反した行動で理解に苦しむ、紗恵にとって俺はこんなコストを払ってでも友達関係を続けたいほどの人間なのだろうか。紗恵や普通の人が持っている価値観は俺に無いもので興味をそそられる。
…そうだ、俺は雪憐の様子を見に行こうと思ったんだ。
弁当を持つと少し駆け足で教室を出た。
1年生の教室は1階のはずだ。階段を降りていると、ふと気が付いた。雪憐は何組なのだろうか。雪憐が入学してきたのを知ったのは昨日だし、昨日はあの後雪憐とは何も話していないから、何組かなんて聞き出せていない。文字通りノーヒントだ。
というか、お弁当を持っていくあたり大変自分は気持ち悪いな。なんか、好意を向けられてないのに勘違いで彼氏ズラするやつみたいで。置いとくべきだったか…。教室も人が多くて不愉快だし探し終わったら一人、屋上で食べよう。
1年生の教室の前に着いた。早速調べるか。本来なら聞き込みをしたいが、入学したての新入生に知り合いはいない。さらに言うと同級生にもほとんどいない。それに新入生に下手に聞いて、変な噂が生まれると面倒だし、その後雪憐と接触しづらくなる。
どうしたものか…。教室に殴り込んで一人一人確認してくか。新入生であれば校内もよく知らないし、友達を作るために教室にほぼ全員いるはずだ。だから、一番手っ取り早くて確実だ。しかし、用も無いのに教室に殴り込んで見渡して帰ると言う動作は少し不審過ぎるのでは無いかと思った。
そうか、用が無いのなら作れば良いのでは無いか。そう…俺は風紀委員なのだ。
風紀委員会とは、アニメやゲームだとまるで警察のような強力な権限を持っていたりするが、大抵の高校は名前がたいそうなだけで結局なんの権限も無い残骸化された組織だ。我が校も大抵の高校の一つなので、労働時間ほぼゼロを実現している校内屈指のホワイト委員会に仕上がっている。
だが、それを知っているのは2年と3年のみ。純粋無垢の新入生はうちの風紀委員会がどの程度労働しているかなんて知らないだろうし、これを利用しよう。このタイミングで風紀委員が役立つのは予想外だった。
まず1年1組の教室のドアを開けた。ガラっと開けると新入生が一同にこちらを見てきた。まるで巣に入った外敵を排除するかのようだ。しかも、無意識に排他的な印象を与えているのだから集団心理というものは恐ろしい。既に知り合っている2、3年生とは違い、1年生の教室は静かだった。
「風紀委員です。胡蝶蘭様子を見にきました」
後ろのドアから入り、全体を見つめて言った。1対少人数だと、俺以外の人が話し始めて俺が余り結果的に話さないが、1対1、1対大人数なら大丈夫だ。前者は強制的に話し相手が俺になるし、後者は大抵、演説やスピーチのたぐいだから問題無い、俺がやりたいようにやればいい。
最初、1年生たちは見ていたものの、事務的な事だったためか、興味を失い個々がそれぞれの事を始めた。排他的な雰囲気が無関心な雰囲気に変わったのだ。無関心の雰囲気というと悪印象だが、俺の中では"自己責任のもとで自由が与えられた"と捉えている。極めて良い雰囲気だ。
俺が花のある窓際に近づいて行く時に全体を見渡す。雪憐はいなかった。1年1組では無いみたいだな。目的は達成したが、口実とは言え何もせずに帰るわけにはいかない。
そう思い、窓際にある花に近づいた。胡蝶蘭は校庭から窓へ差し込む日光を浴びて、何も言わずに1年1組を見守っていた。俺が入学した時からこの胡蝶蘭はあった。胡蝶蘭の寿命はとても長いという。胡蝶蘭は一体何回の1年1組を見てきたのだろうか。喜びもあったかもしれない、悲しみもあったかもしれない、争いもあったかもしれない。
でも、それを胡蝶蘭は見ているはずだ。何回も何回も、毎年1年1組という物語を見てきたはずだ。人が変わり内容も違う一つ一つの物語だ。そして1年1組だった俺もその一つなのだろう。
ふと、胡蝶蘭に水をあげて思った。風紀委員として誇りを持った事は無かった。俺は風紀委員の他の仕事はまともにやらなかったし、他の委員も同様だ。でも何故か胡蝶蘭には俺は世話を続けた。
ちゃんと毎日朝に様子を見て、水をあげた。でも、だからと言って俺は仕事をしていたとは思わない。なぜなら胡蝶蘭に水をあげることは苦痛では無かったから仕事ではない。
もう、2年になったらこいつの面倒をみれなくなるのか、そう思うと少し寂しいと思う。大切なものは失ったり無くなったりして、初めて気付くのだ。持っているうちには決して実感できない。
こいつは新しい1年1組に面倒を見てもらえるのだろうか…。考えてみると少しだけ不安になった。大切なものを他人に委ねるのは辛い事だ。
一通りの事を終えると、胡蝶蘭を少しだけ触った。葉をなぞるように触る。何も言ってくれなかったが、触るだけで自信を与えてくれた。人は本当に想像が得意だ。胡蝶蘭は何も考えられないのに、仮に考えられても俺に感謝しているか分からないのに、それでも人は勝手に想像して勝手に自信を貰う。
ふと、感傷に浸っていると目的と手段が入れ替わっているような気がした。もしかしたら、雪憐の様子を見る事でさえ胡蝶蘭へすがるための自分への言い訳に過ぎなかったのでは無いか、そうとさえ思えた。いや、雪憐の様子を見る事は大切だ、ちゃんと目的を果たすべきだ。
だが、この胡蝶蘭を見ていると考えないようにしていた不安が押し寄せてきた。雪憐は4年前とは違う。もう4年前の雪憐はいない。俺は変わった雪憐を受け入れられるのだろうか。
大切なものは失って初めて気付くのだ、もし雪憐が変わっていたら、俺は4年前の雪憐を失う事になるんだ。俺はその現実を受け入れられるのか?
…分かっている。行こう。俺は全ての思考を停止させ頭から追い出して動き出した。
1年1組のドアを開けて外に出る。次は1年2組か…。そう思い1年2組の方を見る。だが、廊下は見えなかった。何故なら横に少女がいたからだ。
横にいた少女は俺を見るなり目をパチクリとした。俺も思考が止まる。不意打ちはやめてほしいと思ったが、こいつが悪いわけでは無いだろう。こんな事を仕組んだ神様を恨みたい。
「先輩?どうして1年生の教室にいるのですか?」
目の前の少女雪憐花乃は俺に質問をした。雪憐も大変驚いているようで声色で動揺が伝わってくる。雪憐は1年1組に入ろうとしていた。トイレに行っていたから教室にいなかったのだろう。
雪憐の様子を見にきたと正直に言おうと思った。夜彩凛だったらそうしていただろう。自分でも嘘をつけるほど器用な人間では無い事は分かっていたし、嘘をつけば後悔する自分も分かっていた。
でも、俺が心配して様子を見にきたなんて、言えなかった。自分から4年前に雪憐を傷付けておきながら、贖罪をせずに心配するなんてあまりに身勝手な気がした。
「窓際の胡蝶蘭の様子を見にきたんだよ」
「そうですか」
雪憐は少し寂しそうな顔をした。そのあと少し前を開けて聞いてきた。言うか迷ったのだろうか。
「胡蝶蘭、とても綺麗ですよね」
雪憐は率直な感想を述べる。でも、雪憐の顔は不安そうだった。正解か、どうか分からない、表情がそう語っていた。気遣ってくれているのを感じたが、雪憐は嘘を言っているようには思えなかった。
「ああ、毎日世話していると愛着も出てくるぞ」
「先輩、1組だったのですか?」
「そうだな。風紀委員で、仕事のうちだったから面倒みていたんだ」
「大切なものなんですね」
雪憐は空いていたドアから窓際の胡蝶蘭の方を見る。懐かしむその表情に心が締め付けられた。と同時に、疑問が湧いてきた。
「仕事で面倒みたって俺は言ったんだけどな…」
「先輩は大切なものをちゃんと大切にするからです。大切では無かったら毎日世話しません」
雪憐は胡蝶蘭の方から視線を移してまっすぐに俺の目を見て言った。雪憐の口調は少し強く確信を持って断言した。
「そうか」
雪憐の真っ直ぐなその気持ちは俺に自信をくれた。胡蝶蘭を触った時の抽象的な根拠の無い雲のような自信ではなく、具体的な根拠のある自信だった。
雪憐は俺をちゃんと信じてくれた、「大切なものを大切にすると」。それは俺の頭の中で錆のように侵食していた後悔を浄化していった。例え一時的であってもとても嬉しい事だ。だからか、一時的に夜彩らしくなくなった夜彩は夜彩とは違う選択をした。
「雪憐、胡蝶蘭をまかせてもいいか」
「え?先輩の大切なものですよね?」
雪憐に問われ、俺は窓際にある胡蝶蘭の方を向いた。日光に浴びたそれに懐かしさを感じた。
「そうだな。大切なものだ」
念を押して頼もうかとも考えた。でもやめた。だから「大切なもの」であるとだけ伝えた。後は雪憐が決めるべき事だ。
雪憐は少し、考え込む。いきなり頼んで、迷惑な気がした。でも雪憐ならちゃんと大切にすると俺は信じていたから頼んだ。
雪憐は俺の方を向くと、俺に微笑みかけた。「私は大丈夫」と言うかのように。その笑顔はとても美しく可憐で、そして少しでも触れたら壊れてしまいそうな繊細さだった。
雪憐は俺に安心させるために無理をして笑っているのだと思った。その痛みを伴う表情を見て一瞬、後悔しそうになるが思い留まる。雪憐が安心させようとしているのに俺が後悔するなんて、雪憐の頑張りを踏みにじる事になる。そんなことはしてはいけない。
「わかりました。大切にします」
「ああ、ありがとう」
お礼を言ったのがずいぶんと久しぶりに感じる。今まで善意を向けられても悪意にしか感じなかった。素直に善意だと認められなかった。善意の振りをした悪意なのではないだろうかと疑った。相手は礼を望んでいないのではないかとも疑った。
今回も心のどこかで「善意じゃない可能性がある」と夜彩凛が叫び続けた。だからその声を潰した。例え雪憐の行為が善意じゃなかったとしても、雪憐が礼を望んでなかったとしても…。雪憐に誠意を持って接したかった。雪憐に辛くさせたくなかった。
俺はお礼を言うと無性に恥ずかしくなった。頭の中で後悔を力ずくで黙らせる。思考へのリソースを遮断して強制的に思考停止させ続ける。そして、俺は用も済んだし帰ろうと思った。
「じゃあな」
「さようなら、先輩」
挨拶をすると、俺は振り返らずに真っ直ぐと階段へと進んだ。俺が階段へと行く途中で教室のドアが開く音がした。今、雪憐が教室に戻ったのだろう。雪憐はもしかしたら手を振っていたのかもしれない。そんな馬鹿な想像をしてしまった。
でも、もしそうだとしたら、振り返してやるべきだったのだろうか…。俺は無邪気に雪憐に手を振り返していた4年前を考え階段を登り始めた。




