1.13.19 奈落
一本道であるこの抜け道の、前と後ろを塞がれてしまった。
前方の魔物も後方の魔物も恐らくは上級か高級。
奈落を埋め尽くしている災厄級の魔物に比べれば弱すぎる相手だが、それでも今の俺では見つかった瞬間に命がない。
倒すことはもちろん、逃げ切ることすら不可能。
もはや俺に残された逃げ道は奈落への分岐路しかなかった。
焦る心を必死に抑え付けながら、慎重に、音をわずかにも立てないように、マナをできる限り抑えながら奈落へ向けて分岐路を進む。
足が震える。
一歩奈落に近づくごとに増してくる凶悪なマナによって、ちっぽけな自分の存在が押し潰されそうになる。
悲鳴を漏らしそうになるのをなんとか堪えながら少しずつ奥へと進んでいく。
なんとか5ジョウ(15m)ほど進んできたものの、この位置では魔物がこの奈落への分岐点に差し掛かったときに火球の明かりによって見つかってしまう。
この分岐路は10ジョウほどの長さのまっすぐな通路であり、身を隠す場所がないのだ。
そうこうしているうちに、前方にいた方の魔物が間もなく分岐点に到達しそうだ。
やはり奈落への入り口ぎりぎりまで逃げないといけない。
折れそうになる心に鞭を打ちながら、かろうじて足を前に進める。
もはやあたりを覆う凶悪なマナの密度は、ただそれだけで俺の心臓を止めてしまいそうなくらいの圧力を感じさせる。
だめだ。
もう1歩たりとも進めない。
これ以上は心臓が持たない。
ここでなんとかやり過ごそう。
今さらながら、不用意にこの抜け道に足を踏み入れた自分の浅はかさを後悔する。
調子に乗っていた。
今になっても超級の勇者だったころの意識が抜けていないのだ。
ここまで最下層を進んでこれたことが過信となり、この場所の危険さを甘く見ていたのだ。
極度の疲労により判断能力が低下していたのかもしれない。
本当に馬鹿だった。
一度でも失敗すれば終わりなのだ。
勢いだけで行動していいはずがなかった。
この危機を乗り越えることができたら、もう二度とこんな無謀なことはしない。
だから頼むから何とか無事に済んでほしい。
通路の壁に背中を押し当てて、必死に自分の存在を消そうとする。
気付かれませんように。
お願いだからこっちに来ないでくれ。
もしくはせめて2匹がお互いに気付いて戦いを始めてくれれば、その隙に逃げ出せるかもしれない。
いや、それはないか。
2匹の魔物はもうお互いに視認できる距離には近づいているはず。
それでも殺し合いが始まらないのだから、2匹は同族、恐らくどちらもアルタウロスなのだろう。
となればやはり俺の存在に気付かず、こちらにも曲がってこずに、通り過ぎてくれるのを祈るしかない。
だが通路の先にいた方の魔物とそいつの魔法である火球が、分岐路のすぐ近くまで達したのか、みるみるうちにあたりが明るくなってきた。
俺のいる場所まで光が届いてしまっている。
まずい。
ここでは見つかってしまう。
もっと先に進まなければ。
炎の明かりによって徐々に自分の姿が浮かび上がっていくことに焦った俺は、無意識に後ずさるように足を踏み出す。
次の瞬間、静寂の洞窟に乾いた音が響き渡る。
小石を蹴飛ばしてしまったのだ。
その音によって空気が変わった。
前方にいた魔物が走り出した。
通路の先に火球の明かりが姿を現し、周囲が急激に明るくなる。
直後、出現するアルタウロス。
ためらいなく分岐路を曲がると、俺の姿を完全に視界に捉え全速力で駆け寄ってくる。
見つかった!
逃げ出す。
全力で走る。
奈落に向けて。
奈落の強大なマナに飲み込まれ、意識が飛びそうなほどの圧迫感を感じる。
だが今はそれよりも後ろから迫り来る確実な死から逃れることが優先だ。
目の前の破滅に目を背けながら、背後に迫る死の足音から必死に距離をとる。
だが最初は6ジョウ(18m)ほどあったアルタウロスとの距離も、ほんの数瞬のうちに3ジョウほどにまで近づいてきていた。
速度が全く違う。
とても逃げ切れない。
そしてそうこうしているうちに逃げ道自体が無くなってしまった。
ついに奈落の入り口に到達してしまったのだ。
そこは奈落を囲む壁の上方に開いている1ジョウもない大きさの穴。
足元は切り立った崖になっており、その崖の5ジョウ(15m)ほどの下の奈落の底の暗闇には、3桁に届こうかという数の災厄級魔物の気配があった。
やつらに気付かれるのは時間の問題。
そして背後のアルタウロスもあと数秒で襲いかかってくるだろう。
今すぐ逃げ道を探さないと!
幸いアルタウロスの浮かべる火球の魔法の明かりにより、付近はわずかに照らし出されている。
その光を頼りに奈落の内部の壁の様子を窺う。
ほぼ垂直に切り立った崖はごつごつした岩でできており、表面にはかなり大きな凸凹が無数に存在していた。
あれなら何とか掴まることができるかもしれない。
俺はすぐさま覚悟を決めると、勢いよく助走をつけて入り口から横向きに思いっきり飛び出した。
目標はぎりぎり届きそうな距離の、入り口の横の壁にある比較的大きな岩の出っ張りだ。
転落したら間違いなく死ぬ。
両手で岩にぶら下がり、必死に力の限りを込めて衝撃に耐える。
飛びついた反動で振り子のように揺れる体を、両足を足元の岩に突き当てて踏ん張ってなんとか支える。
その直後、アルタウロスが入り口に姿を現した。
崖の手前ぎりぎりで立ち止まり、俺を見失った怒りに大きな咆哮を上げる。
アルタウロスはあたりを見回し、俺の姿を探していた。
だが、奴は俺を探すことに気を取られて気付かなかった。
奈落の底の魔物の群れに見つかったことに。
アルタウロスは、壁に取り付いて気配を消していた俺をようやく発見したのか、こちらを睨みつけながら飛び掛かる素振りを見せる。
その瞬間、奈落の底から飛来した凶悪なブレスが通路の出口を吹き飛ばした。
凄まじい爆風が俺の体を襲う。
とても岩に掴まっていられず、壁沿いに横へと吹き飛ばされる。
転落していくアルタウロスの絶叫が鳴り響く。
火球の魔法が掻き消え、あたりが暗闇に包まれる。
だが俺はその明かりが消える前に吹き飛ばされる先の壁をしっかり確認しており、体重を支えられそうな岩を見つけていた。
暗闇の中でマナの気配を頼りに手を伸ばし、かろうじて崖から飛び出していた生への可能性を掴み取る。
奈落の底からはアルタウロスの断末魔の悲鳴と、何かを引き千切るような不気味な音が聞こえてきた。
だがそれも束の間、やがて静寂が戻ってくる。
俺は震える心を必死に抑え付けながら、気配を殺し、マナを隠しながら岩に掴まり続ける。
もし下の魔物に見つかっていたら、一瞬にして殺されるだろう。
祈るような気持ちで壁にへばり付き続ける。
1分。2分。
だがどうやら下の魔物が俺を探している様子は感じられなかった。
超級運が良かった。
どうやら奇跡的に俺の存在は気付かれていなかったようだ。
超級助かった。
あとは静かにこの場所を脱出するだけだ。
暗闇の中マナを頼りに地形を探知し、先ほど入ってきた通路への出口の位置を探る。
だが、おかしい。
覚えていた場所に出口が見当たらないのだ。
思っていたより遠くまで吹き飛ばされたのだろうか?
しかしさらに向こうまで探知しても、どこにも出口が見つからない。
嫌な予感を覚えながらもあたりをくまなく詳細に探知していくと、ようやくそのことに気付く。
確かに出口はそこに存在していた。
正しくは出口の跡が。
そう、俺が入ってきた最下層への出口は、ブレスの威力により、土砂に埋もれて無くなっていたのだ。
俺はこの奈落の中に閉じ込められてしまったようだ。
足掻けば足掻くほど、さらなる苦境に追い込まれる不憫勇者。
そんなハルトに未来はあるのか?
次回 第20話 『迷宮の罠』




