【深淵の門番たちと、受け継がれし極黒の意志】
【深淵の門番たちと、受け継がれし極黒の意志】
『——スノー/立花雪より至急通達。明日の夜、東京ダンジョン第三層にて怪異の群れが異常発生。合気武道部の二年生諸君に、討伐任務の要請を下す』
その短くも絶対的な重みを持つメッセージが、合気武道部二年生たちの端末に一斉に届いたのは、前日の夕刻のことだった。
国内最大手芸能事務所『スノー』の社長であり、私立聖ミカエル学園の総長、そして裏社会の霊脈を牛耳る重鎮でもある立花雪からの直接の指令。
それは、彼らが単なる高校生の部活動という枠を完全に超え、血と魔力が渦巻く実戦の最前線に立たされていることの何よりの証明であった。
東京の地下深く、常識と狂気が交差する異界——『東京ダンジョン』の入り口に設けられたTIA(高田馬場囲碁愛好会)の厳重な検問所前に、五人の若き修羅たちが集結していた。
「……ふぅ。夜にダンジョン潜りとは、俺たちの青春もすっかり血生臭くなったッスね」
一般科二年生にして合気武道部副主将、佐藤陽翔が、支給された漆黒の防刃ジャケットのジッパーを首元まで上げながら、どこか楽しげに、しかし確かな緊張感を滲ませて笑った。
「泣き言を言うな、佐藤。これは雪社長からの直々の任務であり、俺たちが持子先輩から受け継いだ力を証明する試練でもある。気を引き締めろ」
主将である門蒼真が、岩のように強靭な肉体を包む戦闘服の上から、静かに自身の拳を握り込んだ。
その横顔には、武道家としてのストイックな覚悟と、五十人もの新入生を(結果的に五人にまで減らしたとはいえ)導く立場としての強い責任感が刻み込まれている。
「泣き言なんて言ってないッスよ。むしろ、今の俺たちがどこまでやれるか、ワクワクしてるくらいッス。昨日のあのカオスな一年生たちの相手をするよりは、怪異と殴り合う方がよっぽど気が楽だしな」
「ええ。私たちには、あの御方から分け与えられた『極黒の魔力』が身体の隅々にまで馴染んでいますわ。第三層程度の怪異の群れなど、私たちの敵ではありません」
完璧なプロポーションを誇る芸能科の女優、高橋玲央が、眼鏡のブリッジを優雅に押し上げながら同意する。
彼女は女優としての洗練された所作と、武道家としての冷徹さを完璧に両立させていた。
「油断は禁物です。第三層は環境エーテルの濃度が不安定で、怪異の凶暴性が増幅されやすい層。理詰めで対処しなければ、一瞬の隙が命取りになりますよ。それに、今回は群れでの異常発生ですからね」
圧倒的な童顔に冷たい知性を宿した南原紗良が、手元のタブレットでダンジョンの最新の魔力波形データをスワイプしながら、冷静に釘を刺す。
「紗良ちゃんは相変わらず真面目だね〜! 大丈夫だよ、私たち五人なら絶対にいけるって!」
身長180センチの圧倒的なモデル体型を持つ阿部凛花が、明るい声で場を和ませる。
かつてのギャルめいた面影は完全に消え去り、今や世界的なブランドのモデルを務める彼女のオーラは、ただそこに立っているだけで周囲の空気を圧倒し、空間をランウェイに変えてしまうほどの華やかさを持っていた。
五人が、検問所の重厚なゲートの前で最終確認をしていると、不意に、無機質なコンコースの奥から三つの足音が近づいてきた。
その足音の主たちを視界に捉えた瞬間、五人の顔がパッと明るく輝いた。
「あ……っ!」
「鮎さん! 美羽さん! それにルージュさんも!」
佐藤たちが弾かれたように駆け寄る。
そこに立っていたのは、かつてこの学園で彼らと共に戦い、そして偉大なる魔王・恋問持子に絶対の忠誠を誓った「下僕」たちであった。
「みんな、こんばんは。ご苦労様」
優しく、女神のように微笑んだのは、現在国民的女優として、そしてトップタレントやモデルとして芸能界の頂点を極めつつある本多鮎だった。
その美貌は相変わらず神々しいが、佐藤は彼女の顔を間近で見た瞬間、ハッと息を呑んだ。
美しい瞳の下には、メイクで隠しきれないほど濃く、薄黒い隈が浮かんでいる。
そして、言葉を発するたびに胸がわずかに上下し、息がひどく浅かった。誰の目にも明らかなほどの、異常な疲労の色が全身から滲み出ているのだ。
「ふふっ、みんな元気そうね。立派な顔つきになって……なんだか見違えちゃったわ」
鮎の隣でふわりと微笑んだのは、カルト的な人気を誇るシンガー、花園美羽だ。
一年生の頃はマシュマロのようなふくよかな体型だった彼女だが、過酷な戦いと成長を経て、現在は見違えるほど儚げで美しい『スレンダー』な体躯へと変貌を遂げていた。
その細い身体からは、しかし底知れない魔力の残滓が感じられる。
カルトシンガーとしての彼女は仕事のペースを自分でコントロールできているため、肉体的な疲労はそれほど見られないが、その瞳の奥には深い影が落ちていた。
そして、その二人を護衛するように、いや、献身的に支えるように付き従うのは、鋭い眼光を持つルージュであった。
「久しぶりね、あなたたち。……鮎、無理して立っていなくていいわ。私に寄りかかりなさい」
ルージュは鮎の腰にそっと手を回し、自身の身体で彼女の体重を支えようとする。
「ありがとう、ルージュ。でも大丈夫よ。可愛い後輩たちの前で、みっともない姿は見せられないもの」
鮎は気丈に振る舞い、無理に背筋を伸ばしてふんわりと微笑んでみせた。
彼女のスケジュールは現在、完全に人間の限界を超えている。
ドラマの主演撮影、バラエティの収録、ファッション雑誌のカバー撮影。
いつ寝ているのか、付きっきりでサポートしているルージュですら把握しきれないほどの尋常ではない仕事量をこなしながら、こうしてダンジョンの深層へと足を運んでいるのだ。
「久しぶりにお会いできて光栄です! でも、鮎さん……少しお疲れではないですか? 顔色が優れないように見えますが」
門が主将として礼を尽くしつつ、心配そうに太い眉をひそめた。
「気にしないで、蒼真くん。ちょっと最近、立て込んでいるだけだから。……それより、さあ、行きましょうか」
鮎の静かな声に促され、一行はTIAの厳重な検問をパスし、東京ダンジョンの重厚なゲートを潜った。
外界の光が一切届かない、妖しく発光する青白い苔と水晶に覆われた地下迷宮。
冷たい空気が肌を刺す第三層へと続く長い螺旋階段を降りながら、一行の間には、どこか痛みを伴うような静かな会話が交わされていた。
合気武道の二年生たちは知らない。
世界を揺るがしたあの凄惨な『バエル事件』から、一ヶ月余り。
彼らが「神」と崇め、時に理不尽な暴力を振るわれながらも深く愛したあの偉大なる魔王——恋問持子が、未だ『地獄』から帰還していないという事実を。
正確には、持子の「肉体」は現世に帰還している。
だが、その中身には『貂蝉』の魂が宿っており、本物の持子の魂はまだ地獄に取り残されたままである。
この重大な事実は、持子の忠実な下僕である鮎、美羽、そして限られた上層部だけが知る極秘事項であり、平穏な学園生活(彼らなりにだが)を送る後輩たちには伏せられていた。
鮎や美羽の胸の奥には、黒く重い喪失感が常に渦巻いている。
神であるアスタルテは、肉体の制限を受けないためそのまま地獄へと向かった。
本多鮎、花園美羽、そしてエティエンヌ(彼女は現在一時的にヨーロッパへ帰還している)の三人も、愛する主を追って地獄へと飛び込もうとした。
しかし、現世の定命の肉体を持つ彼女たちは、地獄の瘴気と次元の壁に弾き返され、無念の血涙を飲んで断念するしかなかったのだ。
「……持子様がいなくなって、なんだかすごく、寂しいわね」
地下迷宮を降りる足音だけが響く中、美羽がぽつりと、心の奥底から零れ落ちるような声で呟いた。
スレンダーになった彼女の細い肩が、ダンジョンの寒さからではなく、耐え難い孤独から小さく震えている。
「ええ……。本当に、心にぽっかりと穴が空いてしまったみたい」
鮎が美羽の震える手を、自身の冷え切った手でそっと握りしめた。
「でもね、美羽。私たちは泣いてばかりはいられないわ。この東京ダンジョンの奥底にある『地獄の門』の周辺は、私たちが定期的に潜って、維持と管理を手伝って魔力のエーテルを安定させておかなきゃいけないの。……持子様が、いつ地獄から帰ってきても、迷わずにすぐここへ迎え入れられるようにね」
鮎の言葉には、血を吐くような悲痛な決意が込められていた。
彼女が倒れる寸前まで芸能活動をこなし、極限の疲労状態でありながらも、少しの休みすら取らずにダンジョンの深層に通い詰めている理由。
それはただの義務感などではない。主の帰還する場所を、命に代えても守り抜くという狂気にも似た『信仰』の表れだった。
「……鮎、美羽。あなたたちの持子への忠誠心は、痛いほど分かるわ。でも、少しは休みなさいよ。とくに鮎、あなたの身体が心配なの。このままじゃ、持子様が帰還する前にあなたが壊れてしまうわ」
ルージュが、痛ましそうな視線を鮎に向けて懇願した。
彼女は持子の下僕ではないが、だからこそ、客観的な立場で鮎の尋常ではない自己犠牲を危惧し、常に寄り添い続けているのだ。
「大丈夫よ、ルージュ。……私には、持子様からいただいた力があるもの。これくらい、なんてことは……」
鮎は儚く、しかし美しく微笑もうとした。
だが、その声は微かに震え、足元がふらついた。
そんな先輩たちの、悲壮なまでに重い会話。
その後ろを歩いていた合気武道部の五人は、すべてを察していたわけではない。
持子の真実を知らない彼らにとって、持子は「ちょっと長いおつかいに出ている」程度の認識に近い。
だが、彼らは過酷な稽古を積み重ねてきた武道家だ。
先輩たちの背中から漂う、尋常ではない疲労と、悲しみと、そして何かを必死に守ろうとする気迫は、痛いほどに伝わっていた。
これまでずっと、自分たちは守られる側だった。
バエル事件の時も、学園での騒動の時も、鮎たち先輩が前に立ち、持子が全てを圧倒的な力でねじ伏せてくれた。
けれど、今は違うのだ。
ギュッ、と。
佐藤陽翔が、自身の拳を強く握りしめ、足を止めた。
「——鮎さん。美羽さん。ルージュさん」
佐藤の、普段の軽薄さを一切消し去った、真っ直ぐで力強い声がダンジョンの冷たい空気を震わせた。
鮎たちが驚いて振り返る。
「……鮎さん、もう無理して笑わなくていいッスよ」
佐藤は、スポーツマン特有の爽やかさの中に、一切の退きを許さない武道家の闘志を宿した瞳で、三人の先輩を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺たち、先輩が思ってる以上に……ずっとずっと、強くなってますよ」
その砕けた、しかし芯の通った優しい一言に、鮎の瞳がわずかに見開かれた。
主将である門蒼真が一歩前へ出た。
彼は岩のような巨体を深く沈め、敬意を込めて三人に深く頭を下げた。
そして、これ以上ないほど頼もしい、次代を担う男の顔を上げて言い放った。
「——今日は、後ろで見守っていてください」
その一言に、彼らのすべての覚悟と、世代交代の意志が詰まっていた。
もう、守られるだけの後輩ではない。持子先輩が残したものを、今度は自分たちが守る番なのだ。
「そうです! ふはははは!! 先輩がたは、黙って後ろで見ておれば良いのだ!!」
阿部凛花が、突如として長身を反らし、両手を大きく広げて高らかに笑い声を上げた。
彼女の脳裏に浮かぶのは、唯一無二の神、絶対的な魔王である恋問持子の姿。
普段なら「恥ずかしい!」と途中で悶絶するであろう羞恥心を、彼女は先輩たちを励ますためだけに完全に心底へ封じ込めた。
ダンジョンに響き渡る、高慢で、威圧的で、けれどどこまでも頼もしい魔王の高笑い。
言い切った瞬間、阿部の顔は耳の裏まで沸騰したように真っ赤に染まったが、彼女は決して視線を逸らさなかった。
ギャグのようでいて、その姿は真剣そのものだった。
続いて、高橋玲央が動いた。
彼女は言葉を一切発しなかった。
ただ、姿勢を正し、少しだけ顎を引き、冷たくも慈愛に満ちた視線を三人に向ける。
それは、現在注目される主演女優である彼女が全霊を込めて演じる『恋問持子』のオーラそのものであった。
圧倒的な強者の余裕。そして「私がいるから安心しろ」と無言で語りかける、魔王の威厳。
言葉ではなく、己の肉体と演技だけで持子の幻影を現出させるという、女優ならではの最高のエールだった。
「……ルージュさんは持子先輩の下僕ではありませんから、少し体感が違うかもしれませんが」
南原紗良が、眼鏡の位置を直し、いつもの理詰めのトーンを崩さずに静かに告げた。
「私たち合気武道部の肉体には、鮎さんや美羽さんと同じ、持子先輩の『極黒の魔力』が深く受け継がれ、刻み込まれています。私たちは……強いんですよ」
そこで紗良はふっと、自虐的な、しかしどこまでも優しい笑みを浮かべた。
「手に職もないですし、私なんて鮎さんと違ってまだ全然売れていませんから。時間はいくらでもあります。ダンジョンの維持管理の補助なら、いつでもここに駆けつけられます。……ですから、どうか今日は、特等席で私たちの力を見ていてください」
論理的で、冷静で、だからこそ一切の揺らぎがない南原の宣言。
五人それぞれが、自分の言葉とやり方で、先輩たちを支えようと立ち上がっていた。
薄暗い第三層への階段。
冷たい魔素が吹き抜けるその空間で、鮎、美羽、そしてルージュの三人は、言葉を失って立ち尽くしていた。
「あ……」
美羽の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
いつも自分たちを追いかけ、持子の理不尽な振る舞いに悲鳴を上げて逃げ回っていた後輩たち。
未熟で、やかましくて、放っておけなかった子供たち。
それが今、こんなにも頼もしく、巨大な壁となって自分たちの前に立ち塞がり、「休んでください」と言ってくれている。
「……ふふっ。本当に……生意気な後輩たちね」
鮎の美しい顔がくしゃりと歪み、堰を切ったように透明な涙が頬を伝い落ちた。
極限の疲労と、主を失った喪失感でギリギリまで張り詰めていた彼女の心の糸が、後輩たちの不器用で真っ直ぐな優しさに触れて、ふわりと解けていくのを感じていた。
ただ一人で背負い込もうとしていた重圧を、彼らが一緒に担ごうとしてくれている。それがどれほど救いになったか、言葉では言い表せなかった。
「ええ、本当に。あなたたちが、こんなに頼もしくなるなんて……思ってもみなかったわ」
ルージュもまた、目頭を押さえながら、安堵と喜びの入り混じった涙を流した。
三人の美しい先輩たちが、暗いダンジョンの階段で身を寄せ合い、嬉し涙をこぼす。
その尊い姿を目に焼き付けながら、合気武道部の五人は、静かに、そして力強く前を向いた。
だが、感動の余韻に浸る時間は長くは続かなかった。
ズン……。
突如として、ダンジョンの空気が重く震えた。
第三層の奥底から、生温かく、ひどく腐臭のする風が吹き抜ける。同時に、周囲の空間を満たしていた青白いエーテルの光が、どす黒く濁り始めた。
「……来るぞ」
門が低く、地を這うような声で告げた。
階段を降りきった先に広がる広大な空間。その暗がりの奥から、無数の赤い双眸が浮かび上がり、鼓膜を破るようなおぞましい咆哮が幾重にも重なって響き渡った。
ギャァァァァァッ!!
グルルォォォォォ……ッ!!
第三層の不安定な魔力を吸って凶暴化した怪異の群れ。
四つん這いの獣型、異形の手足を持つ多関節の怪物たちが、波のように押し寄せてくるのが見えた。
常人であれば、その圧倒的な数と殺気に当てられただけで精神を破壊され、膝を折るだろう。
しかし、五人の心に恐怖は一切なかった。
彼らの背後には、守るべき愛する先輩たちがいる。
そして彼らの内には、偉大なる魔王から受け継いだ、決して折れない『極黒の意志』が燃え盛っているのだから。
「さあ、行くッスよ! 第三層の怪異どもに、俺たちの進化した合気武道を叩き込んでやるッス!」
佐藤が腰から抜いた特殊合金の警棒をシャキッと展開し、重心を落とす。
阿部と高橋が左右に展開し、南原が後方から全体を俯瞰する陣形を組む。
そして、その切っ先となる中央で、門蒼真が巨大な拳を構えた。
「——始めッ!!」
主将の裂帛の気合いと共に、五人の全身から『極黒の魔力』が爆発的に立ち昇った。
新生・合気武道部の修羅たちが、東京ダンジョンの深淵へと一斉に駆け出す。
涙を拭った鮎と美羽、そしてルージュは、その小さくも頼もしい背中を、心からの信頼と祈りを込めて見守り続けていた。
新たな世代が、今、確かな力を持って魔の領域へと踏み込んでいく。




