【魔力封印の朝稽古と、迷子の達人と嵐の前の静けさ】
【魔力封印の朝稽古と、迷子の達人と嵐の前の静けさ】
5月3日。
2日目の朝。
チュン、チュン……。
午前五時半。
氷川神社分社を囲む深い森は、朝露に濡れた新緑が瑞々しい香りを放ち、清冽な空気に満ちていた。初夏の爽やかな風が吹き抜け、木漏れ日が境内の石畳にまだら模様を描き出している。
昨夜の露天風呂での騒々しいカオスが嘘のように、神域は静寂と荘厳さに包まれていた。
「おっしゃあ! 今日も気合い入れていくぞ!」
道着に着替えた門蒼真の野太い号令が、境内に響き渡る。
合気武道部の十人は、すでに準備運動を終え、本殿の裏手にある野外の土俵のような開けたスペースに整列していた。二年生の五人は着慣れた道着姿、一年生たちはまだ真新しい道着に身を包んでいる。
「押忍ッ!! 自分の筋肉はすでに朝チュンと共に目覚めておりますッ!!」
大文字鉄平が、無駄にキレのある正拳突きを空に放ちながら大声を上げる。
「大文字くん、朝チュンってそういう意味じゃないと思うよ……ハァ、ハァ……」
桐生蓮が、早くも息を上げながら優雅に髪をかき上げてツッコミを入れる。基礎体力皆無の彼にとって、早朝のひんやりとした空気の中での運動はすでに苦行の始まりである。
「……おはようございます」
ふと。
本当に、ふと、唐突に。
十人の視線の先、たった今まで誰もいなかったはずの空間に、『彼』は立っていた。
「「「っ!?」」」
全員の背筋に、冷たい汗が伝う。
白髪混じりで厳つい顔つきをした五十代の男。合気武道同好会の顧問であり、国語教師である影安壮三だ。
足音はおろか、衣擦れの音、呼吸音、さらには『そこにいる』という気配すら一切立てずに、彼は幽霊のように現れた。S+級の魔力操作と察知能力を持つ佐藤陽翔でさえ、彼がいつ、どこから現れたのか全く感知できなかった。魔王である恋問持子の直感でさえ本能的に警鐘を鳴らす、底知れない凄み。
「……影安先生。おはようございます。本日はご指導、よろしくお願いいたします」
門が姿勢を正し、深く一礼する。それに倣い、全員が揃って頭を下げた。
「ああ。……昨夜は随分と騒がしかったようだが、少しは『器』を広げる覚悟ができたかね」
影安は、春の小川のように穏やかで淡々とした声で言った。しかし、その厳つい顔の奥にある瞳には、決して動かない巨石が沈んでいるような静かな威圧感が内包されている。
「はいッシス! みんな、気合い十分ッスよ!」
佐藤が元気に答えると、影安はわずかに口角を上げた。
「よろしい。では、午前六時。これより朝の稽古を始める。――ただし、本日の稽古において、一つ絶対のルールを課す」
影安は、十人の顔をゆっくりと見回した。
「いかなる状況においても、『魔力の使用』を一切禁ずる。極黒の魔力も、念動力も、剛体も、変身もだ。純粋な肉体のみで、合気武道に向き合いなさい」
「「魔力、禁止……?」」
雨宮千歳が不安そうに呟く。
「そうだ」
影安は頷いた。
「君たちは強力な魔力や異能を持っている。だが、それに頼りすぎれば、肉体という『土台』がおろそかになる。強大な出力を支えるためには、精密な歯車と頑丈なシャーシが必要だ。この純粋な合気武道の稽古は、君たちの『身体という器』を広げ、真の土台を作るためのものだ。……さあ、構えなさい」
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「合気とは、争いを終わらせる技だ。……力でねじ伏せるだけが武道ではないよ」
影安の静かな声が、朝の森に響く。
彼が行う指導は、いわゆる精神論や根性論ではない。人体の物理的な構造、摩擦、力学、重心の移動に基づいた、極めて緻密で『理論的』なものだった。魔力を封じられた十人にとって、それは己の身体の不完全さを浮き彫りにする残酷な鏡でもあった。
「大文字くん。君の肉体は素晴らしい。だが、力が強すぎるがゆえに、相手に『抵抗の支点』を与えてしまっている」
影安は、175センチ120キロという大文字の巨体の前に、全く力みのない自然体で立った。
「押忍! 魔力無しの純粋な肉体勝負、全力で打ち込ませていただきますッ!」
剛体の魔力を切った大文字が、それでも相撲と空手で鍛え上げた丸太のような腕で、影安の胸ぐらを掴みにいく。その瞬間。
スッ……。
影安の身体が、ごくわずかに沈み込んだように見えた。
次の瞬間、大文字の巨体がふわりと宙を舞っていた。
ドスゥゥゥンッ!!
「……お、押忍ゥ!?」
地面に背中を打ち付けられ、目を白黒させる大文字。影安は、大文字を投げた腕を全く力ませていない。ただ、触れた箇所から大文字の筋力のベクトルを読み取り、摩擦をコントロールして重心を誘導しただけである。
「筋肉で対抗しようとするな。骨格の構造を利用しなさい。力のベクトルを相手の『死角』に流すんだ。……今の技の理屈は、口では説明しない。ただ感じて、試して、盗んで、自分のものにしなさい」
「お、押忍ッ! 恐るべき理合……盗ませていただきますッ!」
大文字はすぐに立ち上がり、土を払って目を輝かせた。
「阿部さん。君はバレエの素養があり、回転の軸が美しい。だが、実戦においては美しさよりも『崩し』が先だ」
「はいっ!」
阿部凛花が、真剣な眼差しで影安の動きを凝視する。
魔力による神速の動きを封じられた彼女は、純粋な柔軟性と体幹だけで勝負しなければならない。影安は彼女に対し、より実戦的な関節へのアプローチと、相手の体勢を崩すための『円の動き』を身体で覚えさせていく。
「雨宮さん。君は力が入りすぎている。恐怖心から身体が硬直すると、気の流れが滞る。もっと、肩の力を抜いて、水のように」
「は、はいぃっ……! み、水のように……!」
極度のビビリである雨宮は、念動力を禁じられたことでさらに不安に陥りブルブルと震えていたが、必死に深呼吸をして影安の言葉に従おうとする。
「……すごい」
南原紗良が、タブレットで影安の動きを録画・解析しながら感嘆の息を漏らす。
「完全に力学です。魔力による身体強化を一切使わず、ミクロン単位で重心を操作している……。佐藤くん、私たちもあの動き、魔力に頼らない生身の連携に応用できないかしら?」
「……マジで神技ッスね。紗良ちゃんの分析と俺の空間把握をリンクさせれば、仮想的な『重心の操作』ができるかもしれないッス!」
魔力操作(S+)を封じられた佐藤だったが、元ピッチャーとしての俯瞰的な視野は健在だ。二人は互いの視線を交わし、阿吽の呼吸で生身の戦術のインスピレーションを得ていた。
「ふふっ、陽翔センパァイ♡ 魔力が使えなくても、私への愛の力があれば大丈夫だよぉ〜?」
変身能力を封じられ、元の「美少年」の姿に戻った桃井琉生が、それでも女言葉と完璧な仕草で佐藤にウインクを飛ばす。
「お前、中身男のくせに魔力無しでもその仕草できるの怖すぎるだろッス!!」
佐藤が全力でツッコミを入れながら距離を取る。
朝の清冽な空気の中、魔力を完全に封じられた状態での徹底的な理論と実技。
それは地道で泥臭い稽古だったが、彼らの『器』を確実に拡張させるための、かけがえのない時間だった。
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### 朝食の風景と、迷子の達人
午前八時。朝食の時間。
神社の社務所に併設された広い厨房から、食欲をそそる出汁の香りが漂ってきた。
合宿中の食事は、学生たち自身が担当することになっている。本日の当番は、主将である門を中心とした班だ。
「よし、鮭の塩焼き、卵焼き、豚汁、全部できたぞ。みんな、運んでくれ」
門が、腰にエプロンを巻き、手際よく料理を仕上げていく。北海道出身の父親直伝の味付けは、部員たちの間で大好評であった。
「も、門くん……! 私が配膳しますわ!」
完璧主義の女優志望である高橋玲央が、甲斐甲斐しく料理をお盆に乗せて運んでいく。普段はクールな彼女だが、恋人である門の手料理の前では、どこか嬉しそうな乙女の表情が隠しきれていなかった。
「いただきまーす!!」
大広間に並べられた長机で、全員が手を合わせて朝食が始まった。
魔力無しで過酷な朝稽古を終えた身体に、温かい豚汁と白米が染み渡る。
「うおおおおッ! 門先輩の豚汁、最高に筋肉が喜んでおりますッ! 押忍ッ! 豚汁十杯目お願いしますッ!!」
大文字が、あっという間に丼を空にして、湯気を立てる大きなお椀を突き出した。
「十杯目!? お前、寸胴鍋の底が見えてきてるぞ! 筋肉じゃなくて胃袋がバカになってないか!?」
門が呆れながらも、大きなお玉で豚汁を注いでやる。
一方で、対照的に地獄を見ている者もいた。
「ハァ……ハァ……も、もう限界です……。箸を持ち上げる……上腕二頭筋と前腕筋群が……悲鳴を……」
桐生が、たった一口の鮭を食べただけで、まるでフルマラソンを完走したかのように机に突っ伏していた。全身の筋肉が小刻みに痙攣している。
「いや、桐生くん! 食べるのにも筋力使っちゃってるじゃん! むしろ食べてカロリー摂取して!」
阿部が笑いながら桐生の背中をバンバンと叩くが、桐生は力なく首を振る。
「……はぁ。本当に軟弱者ですね、あなたは」
見かねた南原が、呆れたように深くため息をついた。彼女は自分の箸で鮭の身を器用にほぐすと、それを桐生の口元へと突き出した。
「ほら、口を開けなさい。幼馴染のよしみで、仕方なくですからね」
「フッ……毒舌を吐きながらも世話を焼いてくれる。美しき幼馴染からの『あーん』……これもまた、僕の罪深い魅力が引き寄せた運命ですね……あむっ」
桐生は限界を迎えた身体でプルプルと震えながらも、キザに前髪をかき上げるポーズを必死に保ち、南原から鮭を食べさせてもらった。
「調子に乗らないでください。次、自力で口を動かさないと鼻の穴に突っ込みますよ」
極寒のシベリアのような毒舌を吐きながらも、どこか放っておけない南原の世話焼きな一面だった。
「大文字くんも桐生くんも極端だねぇ〜。あ、陽翔センパァイ♡ 私が愛情込めて作った特製のお弁当、一緒に食べよぉ〜?」
桃井が、美少年の姿のまま、手作りのピンク色のウサギ柄の弁当箱を佐藤の前に差し出した。
「おっ、桃井の手作りか? サンキューッス!」
佐藤が何も疑わずに弁当箱の蓋を開けた瞬間――。
どす黒いオーラと共に、鼻を突く強烈な生臭さと漢方の匂いが爆発した。
「……っ!? な、なんだこれ!?」
「えへへ♡ 魔力が使えなくて疲れてる陽翔先輩のために、『すっぽんの生き血』と『マムシの粉末』、あと『特製プロテイン』をたっぷり煮込んだウサギさんハンバーグだよぉ♡ これで夜までギンギンだねっ♡」
「ギャアアアアアッ!? 毒殺する気かお前はァァッ!! 朝からギンギンになってどうするッスか!」
佐藤は顔面を蒼白にし、見事な受け身の技術で後ろに飛び退いた。
「もう、琉生ちゃん! 陽翔が死んじゃうでしょ!」
阿部が呆れ顔で笑い、神品蘭は「ふんっ、あんな男、そのまま倒れてしまえばいいのに」と鼻を鳴らしつつ、阿部の隣の席をちゃっかりキープして優雅に白米を食べている。
「……ほら、佐藤くん。こっちに普通の卵焼きがありますから。……食べなさいよ」
逃げ惑う佐藤の前に、南原がそっと自分の小鉢を差し出した。
先ほど幼馴染の桐生には呆れ顔で毒舌を吐いていた彼女だったが、想い人である佐藤に対する態度はまるで違った。極寒のシベリアは完全に氷解し、上目遣いで顔を赤くしながら、しおらしく素直な可愛さを覗かせている。
「紗良ちゃん……! まじ女神ッス! ありがたくいただくッス!」
「っ……べ、別に、あなたが倒れたらマネージャーの仕事に支障が出るから、仕方なくです!」
顔を真っ赤にしてプイッとそっぽを向く南原。その初々しいツンデレの様子に、佐藤の胸がドキンと鳴った。
十人十色の騒がしくも温かい、合宿の朝食の風景。
彼らは戦士である前に、ごく普通の高校生なのだ。
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### 午前の稽古と、迷子の達人の旅立ち
午前九時からの稽古は、さらに激しさを増した。
魔力を封じられた状態での合気武道は、己の肉体との対話である。
「視線を固定するな。相手の『全体』をぼんやりと見ろ。殺気は目に宿り、肩に表れる。それを事前に察知するんだ」
影安の言葉に従い、桐生が自慢の動体視力を生身で研ぎ澄ます。しかし、魔力による補助がない彼はすぐに息が上がり、膝に手をついてしまった。
「ハァ……ハァ……見えているのに、身体が……全く追いつきません……!」
「焦るな、桐生くん。見えているなら、あとは身体の『器』を広げるだけだ。反復あるのみ」
佐藤と南原のコンビは、生身での立ち位置の入れ替えを何度も繰り返し、門と高橋は怪力と完璧な型をぶつけ合うシミュレーションを重ねる。
雨宮は影安に教わった「水のような脱力」を必死に意識し、大文字はただひたすらに基礎の素振りと四方投げの反復を繰り返した。
昼の十二時。
午前中の稽古を終えた頃には、全員が立っているのもやっとというほどに疲労困憊し、道着は汗で重く張り付いていた。
「本日の午前稽古はここまで。昼食を取り、十四時まで長めの休憩とする」
影安が告げると、全員がその場にバタバタと倒れ込んだ。
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昼食は、疲れた胃にも優しい素麺で簡単に済ませた。
食後、大広間でお茶を飲んでくつろいでいる十人の前に、影安が再び姿を現した。
しかし、その服装に全員が目を丸くする。道着ではなく、本格的なマウンテンパーカーにトレッキングパンツ、背中にはパンパンに膨らんだ大きなリュックサックを背負った『完全な登山スタイル』だったのだ。
「えっ、影安先生……? その格好は」
門が不思議そうに尋ねる。
「ああ。初日のオリエンテーションでも伝えた通り、僕の合宿での指導は午前中までだ。午後十四時からは、スノーの本多鮎くんと、ルージュくんが特別講師として君たちの指導を引き継ぐ。……僕は、少し近くの山に登山に行ってくるよ」
その名前が出た瞬間、大広間の空気がピキリと凍りついた。
恋問持子に絶対の忠誠を誓う狂戦士・本多鮎と、三百年の時を生きる吸血鬼の元女王・ルージュ。これから自分たちを待ち受けているのが、単なる部活動の範疇を遥かに超えた『裏社会の狂った特訓』であることを、十人は嫌というほど理解していた。
「あ、鮎先輩が……午後から……」
雨宮がガクガクと震え始める。
影安は、青ざめる生徒たちを意に介する様子もなく、穏やかな顔で続けた。
「この時期の山には、珍しい高山植物が咲くんだ。たしか『ミヤマキスミレ』の群生地があるらしくてね。写真を撮りに行きたい」
圧倒的な凄みを放つS級の武術家でありながら、休日の午後は植物の写真を撮るために登山を楽しむという、あまりにもマイペースな趣味。
「へぇ、植物好きなんスね! リュックもパンパンッスけど、登山の本格的な装備ッスか?」
佐藤が尋ねると、影安は厳つい顔を少しだけ綻ばせた。
「いや。これは全部『おやつ』だ。羊羹、チョコレート、大福にグミ。山登りはカロリーを消費するからね。糖分は脳のガソリンだ。……君たちも一つ食べるかね?」
「「「どんだけ甘党なんスか!!」」」
リュックの中にぎっしり詰まったお菓子の山を見て、全員のツッコミが見事にハモった。
「では、夕食までには戻るよ」
影安は満足そうに頷くと、クルリときびきびした足取りで歩き出した。
そして――。
ガラッ。
「……先生。そっちはトイレです」
南原が冷静に指摘する。
「……おや。おかしいな。山の入り口は北の方角だと地図に書いてあったのだが」
影安はピタリと足を止め、首を傾げた。
「先生、北はあっちッス! トイレは完全に南ッスよ!」
佐藤が慌てて神社の出口を指差す。
「なるほど。宇宙は広いな」
「いや宇宙関係ないッス! 完全にただの方向音痴じゃないッスか!」
『凄まじい実力を持つ達人』でありながら、『極度の甘党』で『植物好き』、おまけに『絶望的な方向音痴』。
そのあまりにも人間味に溢れたポンコツな一面を見て、部員たちは顔を見合わせてドッと笑い声を上げた。張り詰めていた恐怖感が、フッと解ける。
影安は少しだけバツが悪そうに咳払いをすると、真面目な顔で振り返った。
「いいか。万が一、僕が夕食までに戻らなくても、決して探しに来ないように。……明日の朝稽古までには必ず戻る。だから遭難したかと心配しなくていい」
「遭難する前提ッスか!?」
佐藤が叫ぶ。
極度の方向音痴でありながら、なぜか『仕事など時間が決まっていることには、絶対に間に合う』という謎の能力(?)を持つ影安ならではの、力強い宣言であった。
「……では、午後からの本多くんたちの指導、心してかかるように」
影安は今度こそ正しい出口に向かって歩き出した。
「「「「「いってらっしゃーい!!」」」」」
十人の元気な声に見送られ、迷子の達人の背中は新緑の森の奥へと消えていった。
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それから午後二時までの長い休憩時間。
五月の心地よい風が吹き抜ける神社の縁側や大広間で、部員たちは思い思いに身体を休めていた。
大文字と桐生は畳の上で大の字になって爆睡し、規則正しい寝息を立てている。
門と高橋は縁側に座り、静かに肩を寄せて麦茶を飲んでいた。
阿部と神品は一つのクッションを共有しながらファッション雑誌を眺め、佐藤と南原、雨宮、桃井は木陰にレジャーシートを敷いて談笑している。
「……なんか、平和ッスね」
佐藤が、空を流れる雲を見上げて呟く。
魔力を使わない地道な稽古で身体はバキバキだが、心はどこか清々しかった。
「そうね。……でも、まさに『嵐の前の静けさ』って気がしない?」
南原が、眼鏡のブリッジを押し上げながら不吉なことを言う。
「やめろよ紗良ちゃん、縁起でもない」
「だって、初日から言われていたじゃない。午後からの担当は、あの鮎先輩とルージュさんよ? ただの体力作りで終わるはずがないわ」
理詰めの南原の言葉に、佐藤も思わず「確かに……」と冷や汗を流す。
恋問持子への狂信的な愛で動く第一下僕、本多鮎。彼女の指導となれば、文字通り『命懸け』になることは目に見えていた。
時計の針が、午後一時五十分を回った。
風が止み、森の木々がざわめきを潜める。
ふと、遠くの山道から、かすかなエンジン音が聞こえてきた。
(……来た)
佐藤は、縁側で立ち上がり、神社の鳥居の方角を見つめた。
空は青く澄み渡っているというのに、なぜか肌がピリピリと粟立つような悪寒がする。
大文字と桐生も目を覚まし、門や阿部たちも無言で立ち上がった。
午後二時。
休憩時間の終わりを告げるように、彼らの『真の地獄(禊)』への扉が、ゆっくりと開こうとしていた。




