【第五の演習領域:包容の闇と、涙の奥の素顔】
【第五の演習領域:包容の闇と、涙の奥の素顔】
スノー本社ビル地下五階、特殊地下演習場。
広大な空間のあちこちで、大文字の気合いの入った打撃音、神品の放つ凄まじい雷鳴、そして桐生の悲痛な絶叫が響き渡る中。
演習場の一番奥の壁際、最も安全で静かなエリアだけは、外界の喧騒から切り離されたような穏やかな空気が流れていた。
「さてと……。千歳ちゃん、まずは深呼吸してリラックスするッスよ」
副主将の佐藤陽翔は、怯えた小鹿のように肩をすくめている雨宮千歳に向かって、いつもの爽やかな笑顔を向けた。
佐藤の手には、スノーから共有された一年生の能力データが表示されたタブレットが握られている。
「『念力』『霊視』『結界』『透視』『短距離テレポート』……いやぁ、改めてプロフィールをじっくり見ると、マジで凄まじいッスね! B級能力者ってだけあって、まさに異能のデパート状態ッスよ! 俺たちの覚醒当初より、よっぽど凄いポテンシャル秘めてるッス!」
佐藤が心からの感嘆の声を漏らすが、千歳は嬉しそうにするどころか、分厚い丸眼鏡の奥の瞳を伏せ、ぎゅっと自分の道着の裾を握りしめた。
「で、でも……私、極度のビビリで……その、感情が少しでも揺れると、すぐに力が暴発しちゃって……。威力の調節も全然できないし、いつもいつも、周りの人に迷惑ばかりかけて生きてきました……。こんな能力、ない方がよかったって……」
ぽつりぽつりと、どもりながら己の不甲斐なさを卑下する千歳。彼女の背中には、これまで自身の制御できない強すぎる能力のせいで、周囲から孤立してきた孤独な影が張り付いていた。
「……千歳ちゃんの能力が、純粋に強すぎるだけッスよ。器の成長が、中身の出力にまだ追いついていないだけだ」
佐藤は優しく、しかし確かな力強さを持って言葉を紡いだ。
「それに、ここはスノーの地下要塞だ。魔力を完全に吸収する壁と結界があるから、千歳ちゃんがどれだけ暴発させても絶対に壊れないし、誰にも迷惑はかからないッス。だから……今日は俺を信じて、まずは一通り、千歳ちゃんの持ってる能力を全部俺に見せてほしいッス!」
佐藤の真っ直ぐな瞳と包容力のある声に、千歳は少しだけ顔を上げ、小さく頷いた。
「は、はい……! 私、やってみます……っ!」
「よし、その意気ッス! じゃあ、まずは『念力』からいってみようッスか」
佐藤はそう言うと、傍らに積んであった演習用の硬質なブロック瓦を十枚ほど抱え上げてきた。
「いきなり俺に向けて念力を撃てって言っても、千歳ちゃんはビビって手加減しちゃうと思うッス。だから、まずはこの瓦を持ち上げてみてほしいッス。できるッスか?」
「持ち上げる、ですね。……はい、やってみます」
千歳が両手を前にかざし、小さく息を吐いて集中する。
ピキィィィン……!
空気が微かに震えたかと思うと、佐藤が地面に置いた十枚の分厚い瓦が、まるで重力を失ったかのようにフワリと空中に浮かび上がった。
「おおっ! すげー! 十枚の重い瓦が完全に宙に浮いてるッス!」
佐藤が目を輝かせて拍手をする。
「あの、これくらいなら……」
「じゃあ次! これ、空中で一気に割れるッスか?」
「割る……やってみますっ! えいっ!!」
千歳が気合いと共に両手にギュッと力を込めた、その瞬間。
ドォォォォォォンッ!!!
空中に浮遊していた十枚の瓦が、四方八方からの見えない強烈な圧力によって押し潰され、文字通り「粉微塵」に粉砕された。パラパラと砂埃となって床に降り注ぐ瓦の残骸。
「うおぉぉぉぉっ!! マジか、すげーーーーッ!!!」
佐藤は両手を挙げて大興奮の声を上げた。
「すげぇよ千歳ちゃん! 一瞬で粉粉ッスよ!? これ、実戦でコントロールできるようになったら、遠距離から怪異に物理攻撃し放題じゃないッスか! めちゃくちゃ強いッスよ!!」
「ほ、本当ですか……? 私の念力、役に立ちますか……?」
「もちろんッス! 超強力な大砲を手に入れたようなもんッスよ!」
佐藤の素直な大絶賛に、千歳の強張っていた頬が少しだけ緩み、はにかむような笑顔がこぼれた。
「よしよし、いい調子ッス! じゃあ次は『霊視』ッスね。……千歳ちゃん、俺のこと、霊視で観てみてほしいッス」
佐藤が胸を張ってポーズをとる。
千歳はコクンと頷き、丸眼鏡の奥の瞳に淡い魔力を集中させた。彼女の視界が現実世界から霊的な次元へと切り替わり、佐藤の周囲を漂うオーラや、彼に縁のある霊的な繋がりが可視化されていく。
「……あ、あの……」
千歳は少し驚いたように目を瞬かせた。
「何か見えたッスか? 俺に悪霊でも憑いてるッスか!?」
「い、いいえ、悪霊じゃないです! ええと……佐藤先輩のすぐ横に……大きめの、柴犬が、見えます」
「柴犬……?」
「はい。とっても穏やかなオーラで……ちぎれるくらい尻尾を振ってて……佐藤先輩のことが、だぁい好きみたいです。今も、先輩の手を一生懸命舐めようとしています」
千歳の言葉を聞いた瞬間、佐藤の顔からいつもの軽薄な笑みがスッと消え、驚きに目を見開いた。
「……タロウ……」
佐藤の口から、無意識にその名前が漏れた。
「え?」
「……そっか。二年前の冬に、老衰で亡くなったうちの愛犬の『タロウ』だな……」
佐藤は自身の右手を見つめ、そこにいるはずの愛犬の感触を確かめるように、そっと虚空を撫でた。
「俺が中学の時、野球で肘を壊して落ち込んで部屋で泣いてた時も、タロウはずっと俺の顔を舐めて励ましてくれてたんだ。……そっかぁ、アイツ、死んでからも今でもずっと、俺の側で見守ってくれていたんだな……」
佐藤の瞳の奥が微かに潤み、しかしその顔には太陽のように優しく、温かい笑顔が浮かんでいた。
「千歳ちゃん。……教えてくれて、本当にありがとうッス。タロウが元気だって分かって、俺、めちゃくちゃ嬉しいッスよ」
「……っ! い、いえ……私の方こそ、お役に立てて嬉しいです……っ」
千歳の胸の奥が、じんわりと温かくなる。
自分の霊視能力は、今まで『見えないはずの恐ろしいもの』ばかりを引き寄せてしまう呪いのようなものだと思っていた。だが今、初めて自分の能力が、誰かの心をこんなにも優しく癒すことができたのだ。
「よし! この調子でどんどん行くッスよ! 次は『結界』ッス! 俺の前に、千歳ちゃんの全力の防壁の盾を張ってみてくれッス!」
「はいっ! いきます!」
千歳が両手を前に突き出すと、バチィィィン!という音と共に、空中に青白い幾何学模様の強固な光の障壁が出現した。
「おー! 密度が高くて、結構強いッスね! これなら第三層の怪異の突進も完全に防げるかもしれないッス! 素晴らしい防壁ッスよ!」
佐藤が感心しながら結界をコンコンとノックする。
「……でも!」
ニヤリと笑った佐藤の右拳に、ズワァァァッ!と『極黒の魔力』が纏われた。
「えっ!?」
千歳が驚く間もなく、佐藤がその黒い魔力を纏った拳で、トンッ、と軽く結界の表面を叩いた。
パリッ……パリパリパリパリッ!!
パァァァァンッ!!
まるで見えないハンマーで殴られたガラスのように、千歳の全力の結界が一瞬にしてひび割れ、音を立てて粉々に崩れ落ちてしまった。
「あはは! ごめんッス! さすがに、俺の極黒の魔力の方がまだちょっとだけ強いみたいッスね!」
佐藤が頭を掻きながら笑う。
(すごい……! 私の全力の結界を、あんなに軽く触れただけで壊しちゃうなんて……。佐藤先輩、やっぱり規格外の強さなんだ……!)
千歳は改めて、目の前に立つ先輩の底知れない実力に戦慄と尊敬の念を抱いた。
「よし、じゃあ次は『透視』……ッスね。これも実戦の索敵でめちゃくちゃ役に立つはずッス。……千歳ちゃん?」
佐藤が次の指示を出そうとすると、千歳はなぜか両手で顔を覆い、茹でダコのように顔を真っ赤にしてガタガタと震えていた。
「あわわわわ……っ、ど、どうしよう……っ」
「千歳ちゃん? どうしたッスか? 具合でも悪くなったッスか? もしかして……」
佐藤はふとある可能性に思い至り、サッと自分の身体を隠すように両腕を交差させて胸の前に当てた。
「あ、あれ!? もしかして今、俺の裸、見られてるッスか!?」
「ご、ごごご、ごめんなさいぃぃぃぃぃッ!!」
千歳が顔を覆ったまま、しゃがみ込んで土下座の勢いで謝罪した。
「わ、わざとじゃないんです! さっき結界を破られた反動で、少し魔力が乱れちゃって、視覚のコントロールが効かなくなって……っ! そ、その……先輩の腹筋が、すごく綺麗に割れてて……じゃなくて! 本当にごめんなさい、変態じゃないんですぅぅぅっ!」
パニックを起こして涙目でしどろもどろになる千歳。
しかし、佐藤は怒るどころか「あはははは!」と快活に笑い飛ばした。
「おおぅ……それは確かにちょっと恥ずかしいッスね! でも、まぁ男の裸なんて見られて減るもんじゃないし! 千歳ちゃんはわざとじゃないんだから、全然怒ってないッスよ!」
「えっ……怒って、ないんですか……?」
千歳が恐る恐る指の隙間から佐藤を見上げる。
「当たり前ッスよ! 能力のコントロール訓練中に暴発なんて付き物ッス! 大丈夫、気にしないで深呼吸して、視界を元に戻すッス!」
佐藤の言葉には、微塵の嫌悪感も怒りも含まれていなかった。
(なんて……なんて心が広くて、優しい先輩なんだろう……っ)
千歳はホッと安堵の息を吐き、佐藤の言う通りに深呼吸をして透視能力を解除した。
「よし、視界戻ったッスね? じゃあ最後は『短距離テレポート』だな。俺の周りを飛んでみせてくれッス!」
「はい……っ!」
千歳が意識を集中させると、ポンッ!という軽い破裂音と共に彼女の姿が消え、三メートルほど離れた佐藤の背後へと転移した。
さらにポンッ、ポンッ、と、空間を跳躍するように数メートルの移動を繰り返す。
「すげーーーーッ!! マジで瞬間移動したッス!! これ漫画の世界の能力ッスよ!!」
佐藤が目をキラキラさせて拍手喝采を送る。
だが、千歳は転移を終えると、少し息を切らしながら肩を落とした。
「でも……これ、一回で五メートルくらいしか跳べないんです。連続で使うとすぐに魔力酔いしちゃいますし……。あまり役に立ちません。もっと長い距離を跳べたら、敵から逃げる時とかにも役立つんですけど……」
自分の能力の限界を嘆く千歳。
しかし、佐藤の顔からは笑顔が消え、戦術を俯瞰する『遊撃手』としての真剣な眼差しに変わっていた。
「千歳ちゃん。何言ってるッスか」
「え?」
「敵と戦う時には、その五メートルの瞬間移動は、何にも代えがたい『絶対的な宝』ッスよ!!」
佐藤の力強い断言に、千歳は目を丸くした。
「た、宝……ですか?」
「そうッス! 五メートルあれば十分すぎる! 相手の死角に一瞬で回り込んで奇襲したり、味方のピンチに即座にカバーに入ったりできる! 陣形や戦術を根底からひっくり返せる、マジのチート級能力ッスよ! 千歳ちゃんのテレポートは、絶対に部活の皆の命を救う最大の武器になるッス!!」
佐藤の熱を帯びた言葉が、千歳の胸の奥底に真っ直ぐに突き刺さった。
(私の欠点だと思っていた短い転移が……戦いのプロである佐藤先輩から見れば、みんなを救える『宝』……っ!)
千歳の視界が、急激に涙で滲み始めた。
佐藤は千歳の前にゆっくりと歩み寄り、立ち止まった。
そして、彼の全身から、あの夜の闇を凝縮したような、濃密で、しかし底知れぬ温かさと優しさを持った『極黒の魔力』がドクドクと溢れ出した。
「俺たち二年生は、魔王みたいな無茶苦茶な先輩から、この極黒の力を受け継いだッス。……俺のこの魔力は、どんな衝撃も、どんな能力の暴発も、すべて吸収して無効化できる。……だから」
佐藤は大きく両手を広げ、千歳に向かって、太陽のようなこの上なく温かい笑顔を向けた。
「俺は、千歳ちゃんがどれだけ感情を揺らして、思いっきり全力を出して暴発させても、絶対に全部受け止められる。……だから、これからは『周りに迷惑をかけるかも』なんて一切気にしないで、俺に思いっきりぶつかっておいでッス!!」
その言葉は、千歳が物心ついてからずっと、誰かに言ってほしかった言葉だった。
自分の強すぎる力を恐れず、引かず、正面から受け止めてくれる存在。
千歳の心の中に分厚く張り巡らされていた、孤独と恐怖という名の結界が、佐藤の優しく温かい闇の包容力によって、跡形もなく溶け落ちていく。
「……っ、う、あ、あぁぁぁぁぁぁっ……!」
千歳はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って、大粒の涙をポロポロとこぼしながら、子供のように思いっきり声を上げて泣き出した。
「おわっ!? し、しまった! 俺、なんか変なこと言って泣かせちゃったッスか!? ごめんッス千歳ちゃん!」
慌てふためく佐藤。
「ちが、違います……っ! う、嬉しくて……っ! 私、生きてきて……こんな風に言ってもらえたの、初めてで……っ! ありがとうございます、佐藤先輩……っ! ありがとうございますぅっ!!」
千歳はしゃくり上げながら、何度も何度も佐藤に向かって頭を下げた。
「なんだ、そういうことッスか。ビックリしたッス……」
佐藤はホッと胸を撫で下ろすと、しゃがみ込んでいる千歳の前に膝をつき、「よしよし」と優しく、大きな手で彼女の頭をポンポンと撫で下ろした。
「これからは一人じゃないッスよ。俺がずっと千歳ちゃんの力、受け止めるッスからね」
「……はいっ、はい……っ!」
千歳が涙を拭いながら、ゆっくりと顔を上げた。
泣きじゃくったせいで、彼女の顔の半分を隠していた分厚い丸眼鏡が、少しだけ下にズレていた。
その瞬間。
眼鏡のフレームに隠されていた千歳の素顔——その瞳が、佐藤の視線と真っ直ぐに交差した。
(——えっ?)
佐藤の思考が、一瞬だけ完全に停止した。
涙に濡れた長いまつ毛。
吸い込まれそうなほどに大きくて、透き通るような美しい琥珀色の瞳。
ほんのりと赤く染まった、形の良い小さな唇。
普段はおどおどとしていて、地味な眼鏡とポニーテールで隠されていた彼女の本当の顔は、驚くほど整っていて、儚げで、そして——。
ドキンッ。
佐藤の心臓が、自分でも驚くほど大きな音を立てて、激しく跳ねた。
(……あれ? 千歳ちゃんって……もしかして、めちゃくちゃ……可愛い……?)
顔がカッと熱くなるのを感じ、佐藤は慌てて千歳の頭から手を離し、立ち上がって後ろを向いた。
「お、おうッ! と、とりあえず能力の確認はこれで終わりッス! じゅ、十分すごいポテンシャルだって分かったから、今日はこれで休むッスよ!」
「あ、はい……っ! ありがとうございました、佐藤先輩っ♡」
千歳が涙と笑顔の入り交じった、この上なく愛らしい表情で微笑む。
(や、ヤバいッス……! 俺の健全な男子高校生としての理性が、急に警鐘を鳴らし始めたッス……!)
スノーの地下要塞の片隅。
激しい戦闘訓練が続く演習場の中で、佐藤陽翔の純情ピュアピュアな心に、全く予期せぬ方向からの『恋の暴発』のフラグが、静かに、しかし確実に立ち上がっていたのであった。




