第1話 雨夜の転生
雨は午後から降り始め、深夜になっても止む気配を見せなかった。
少年はビルの屋上の縁に腰掛け、六十メートル以上もある虚空へ両脚を投げ出していた。
建物の谷間を吹き抜ける風に乗り、冷たい雨粒が絶え間なく頬を打つ。
すでにずぶ濡れになった服は肌に張りつき、冷たく、ひどく重かった。
手の中では、まだスマートフォンの画面が光っている。
少年はうつむき、そこに表示された成績を見つめていた。
いったい、どれほどそうしていたのか。
もう、自分でも分からなかった。
あと二点。
たった二点、足りなかった。
夕方から夜になるまで、画面のバッテリーは少しずつ減っていき、やがて完全に消えた。
屋上の照明は壊れている。
辺りを照らしているのは、向かいのビルに設置された広告看板だけだった。
明滅を繰り返す赤い光が、少年の濡れた顔を照らしている。
少年はスマートフォンをしまうと、ゆっくりと立ち上がった。
「もし、やり直せるなら……」
その先の言葉は、最後まで口にされなかった。
少年は一歩、前へ踏み出した。
次の瞬間、身体は風にさらわれるように屋上から離れていった。
落下する時間は、想像していたよりもずっと短かった。
恐怖を感じる暇さえないまま、鈍い衝突音が響いた。
周囲が一瞬で騒がしくなる。
誰かが悲鳴を上げた。
誰かがこちらへ駆け寄ってきた。
救急車を呼べと、大声で叫んでいる者もいた。
入り乱れた声が耳へ流れ込んでくる。
しかし、その音は少しずつ遠ざかっていった。
そして最後には、何も聞こえなくなった。
◇ ◇ ◇
アーガは、身体を刺すような寒さで目を覚ました。
瞼を開けると、最初に見えたのは木々の葉に覆われた夜空だった。
枝葉の隙間から月明かりが差し込み、近くの茂みと地面を埋め尽くす枯れ葉を、かろうじて照らしている。
空気はひどく湿っていた。
身体の下にある土からも、雨上がりの冷気が伝わってくる。
起き上がろうとした。
だが、腕にはまるで力が入らなかった。
ほんの少し身体を持ち上げただけで、すぐに枯れ葉の上へ倒れ込んでしまう。
アーガは数秒間、呆然とした。
それから自分の身体へ視線を落とす。
目に入ったのは、赤ん坊の小さな両手だった。
手のひらは小さく、指は短く柔らかい。
身体そのものも、まるで自分のものではないように軽かった。
自分は死んだ。
だが、どうやら再び生き返ったらしい。
しかも、生まれて間もない赤ん坊の姿で。
そう考えた瞬間、何の前触れもなく、一つの名前が脳裏に浮かんだ。
アーガ。
その名前がどこから出てきたのかは分からない。
それでも直感的に、今の自分の名前なのだと理解できた。
(俺は死んだのか? これは……新しい身体?)
アーガは枯れ葉の上に横たわったまま、手足を動かしてみた。
かろうじて動かすことはできる。
しかし、寝返りを打つことさえ難しかった。
ここが見知らぬ森であることは間違いない。
周囲には道らしきものも、人の姿も見当たらなかった。
いったい何が起きたのか。
必死に考えていると、遠くから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「急げ!」
「後ろの連中が追いついてくるぞ!」
何人かが森の中を走っている。
荒い息遣いと、枝を踏み折る音が急速に近づいてきた。
アーガは本能的に、茂みの奥へ身を隠そうとした。
だが、この身体は思いどおりに動いてくれない。
どうにか身体をずらし、影の中へ隠れるだけで精いっぱいだった。
(いったい、どうなってるんだ?)
間もなく、一人の男が前方から飛び出してきた。
しかし、足元の木の根につまずき、勢いよく地面へ転倒する。
男が抱えていたものも宙へ放り出された。
それは小さな斜面を転がり落ち、アーガのすぐそばで止まった。
淡い色の綿布に包まれた、赤ん坊だった。
衝撃で目を覚ましたのか、赤ん坊はすぐに大声で泣き始めた。
静かな森に泣き声が響き渡り、先を走っていた者たちも同時に足を止める。
「赤ん坊を落としたぞ!」
「放っておけ! 早く逃げろ!」
「この馬鹿どもが!」
さらに遠くから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
松明の明かりが、木々の間から急速に近づいてくる。
七、八人ほどの騎士が、森の小道を駆け抜けてきた。
先頭の男が片手を上げる。
その合図を受け、後ろの騎士たちは即座に散開した。
三人の逃げ道を、別々の方向から塞いでいく。
「止まれ!」
逃げていた三人は一か所に集まり、周囲から迫る騎士たちを見回した。
その顔から、みるみる血の気が引いていく。
「そんなはずが……」
「痕跡は全部消したはずだぞ」
先頭の騎士が馬の手綱を引き、地面へ飛び降りた。
年齢は三十代半ばほど。
顎には目立つ古傷があり、右手は常に腰の剣へ添えられている。
「どうして俺たちがお前たちを見つけられたのか、知りたいか?」
続いて、短髪の女騎士が馬から降りた。
彼女が右手を上げると、淡い青色の魔力が手のひらに集まり始める。
やがて魔力は形を変え、一枚のカードとなって指先の上に浮かんだ。
「私の魔法は、魔力の痕跡を追跡できます」
女騎士は三人を見据えた。
「あなたたちが赤ん坊を連れて森へ入ってから、魔力の痕跡は一度も途切れていません」
茂みの陰に横たわっていたアーガは、光を放つカードを呆然と見つめた。
魔法。
ここは見知らぬ世界であるだけではない。
本物の魔法まで存在している。
(元の世界じゃない……まさか、異世界に転生したのか?)
騎士たちは、再び包囲を狭め始めていた。
三人の盗賊がじりじりと後退する。
そのうちの一人が、地面に落ちたままの赤ん坊に気づいた。
男は素早く駆け寄り、赤ん坊を抱き上げる。
「近づくな!」
袖口から短剣を抜き、その刃を赤ん坊の首へ押し当てた。
もう一人の盗賊も、茂みの中に隠れているアーガを見つけた。
男は茂みへ飛び込むと、アーガの腕をつかみ、枯れ葉の上から乱暴に持ち上げる。
アーガが状況を理解するよりも早く、冷たい刃が頬へ押し当てられた。
(ふざけるなよ……!)
「ここにも赤ん坊がいるぞ!」
盗賊が大声で叫んだ。
「部下を下がらせろ! さもないと、こいつらを今すぐ殺す!」
騎士たちの動きが一斉に止まった。
隊長は、人質にされた二人の赤ん坊を見た。
その顔が徐々に険しくなっていく。
剣を抜くことはせず、ただその場に立ったまま盗賊たちを見据えていた。
「下がれ!」
盗賊の頭目が再び怒鳴った。
「道を空けろ!」
短髪の女騎士が馬を進め、隊長のそばへ近づく。
「クロウ隊長、どうしますか?」
声を潜めて尋ねたが、クロウは答えなかった。
二人の赤ん坊に向けられた刃を確認し、続いて森の両側へ視線を向ける。
しばらくして、クロウは左手を上げた。
命令を受けた騎士たちが、ゆっくりと後退を始める。
包囲が解かれ、森の奥へ続く一本の道が開いた。
それを見た三人の盗賊は、二人の赤ん坊を人質にしたまま後ずさった。
アーガは片手で宙吊りにされている。
刃先は目尻のすぐそばにあり、男の手がわずかにずれただけで、顔を切り裂かれてしまう。
この世界へ来たばかりだというのに。
何が起きたのかさえ理解できていないのに。
アーガは再び、いつ死んでもおかしくない状況へ追い込まれていた。
三人の盗賊は、間もなく松明の光が届かない場所まで後退した。
そのまま背を向け、逃げ出そうとした瞬間。
森の両側から、ほぼ同時に弓弦の鳴る音が響いた。
一本目の矢が左側から飛来する。
矢はアーガを拘束していた男の腕を正確に射抜いた。
「ぐあっ!」
盗賊が悲鳴を上げ、反射的に手を離す。
握っていた短剣も地面へ落ちた。
同時に、アーガの身体が宙から落下する。
二本目の矢は、ほとんど同時に反対側から放たれていた。
矢は赤ん坊を抱えていた盗賊の頭部を正確に貫いた。
男は反応する間もなく後ろへ倒れ、腕の中にあった赤ん坊も宙へ投げ出される。
「二人を受け止めろ!」
二人の騎士が同時に馬を走らせた。
彼らの手の中で、緑色の加速カードが光を放つ。
二頭の馬は一瞬で速度を上げ、左右から森を駆け抜けた。
一人の騎士が馬上から身を乗り出し、落下するアーガを受け止める。
そのまま自分の外套で、アーガの身体を包み込んだ。
もう一人の騎士も、宙へ投げ出された赤ん坊を危なげなく受け止める。
二人はすぐに馬の向きを変え、騎士たちの陣形へ戻っていった。
盗賊の頭目が、二人を妨害しようと前へ出る。
だが、そのときにはすでにクロウが長剣を抜いていた。
「閃光斬!」
剣身に白い光が急速に集まる。
次の瞬間、それは弧を描く斬撃となって放たれた。
盗賊の頭目は、かろうじて身体をひねって回避する。
しかし、腰の辺りの服は斬撃によって切り裂かれ、傷口から鮮血が流れ始めた。
直後、三本目の矢が飛来する。
盗賊の頭目は短剣を身体の前へ構えた。
矢じりが刃へ衝突し、激しい火花を散らす。
衝撃によって数歩後退させられた。
男が顔を上げたときには、騎士たちが再び彼と残った部下を包囲していた。
腕を矢で射抜かれた盗賊が、傷口を押さえながら頭目のそばへよろめき寄る。
「兄貴、どうする?」
盗賊の頭目は答えなかった。
周囲の騎士たちを見回し、次に血が流れ続けている腰の傷へ視線を落とす。
やがて、手にした短剣を強く握りしめた。
「捕まって連れ戻されても、どうせ死刑だ」
口元の血を拭い、歪んだ笑みを浮かべる。
「やるぞ。一人でも多く道連れにしてやる」
負傷した盗賊も歯を食いしばり、無事な方の手で地面の短剣を拾い上げた。
二人は同時に騎士たちへ襲いかかった。
ラスティが真っ先に、負傷した盗賊を迎え撃つ。
盗賊は彼女の肩を狙って短剣を振り下ろした。
しかし、腕の傷によって動きが大きく鈍っている。
ラスティは身体を横へずらして刃をかわした。
そのまま下から長剣を突き上げ、盗賊の胸を貫く。
盗賊の動きが止まった。
男は自分の身体へ突き刺さった剣を見下ろす。
それから膝をつき、二度と立ち上がることはなかった。
一方、盗賊の頭目は暗い紫色のカードを発動していた。
紫色の液体が手のひらからあふれ出し、短剣全体を素早く覆っていく。
刃の表面には、腐食性を帯びた緑色の光が浮かんだ。
クロウの長剣と、毒をまとった短剣が何度もぶつかり合う。
刃が交わるたび、少量の毒液が周囲の枯れ葉へ飛び散った。
小さな腐食音を立てながら、葉が黒く変色していく。
盗賊の頭目の攻撃は荒々しく、容赦がなかった。
だが、腰の傷が動きを妨げている。
間もなくクロウに押され、少しずつ後退を始めた。
三度目の衝突の直後、盗賊の頭目が不意に左手を上げた。
手のひらから毒液の塊を放ち、クロウへ投げつける。
毒液は空中で拡散し、紫色の霧となった。
クロウは即座に後退し、正面から迫る毒霧を避ける。
霧は後方にあった木へ降りかかり、その幹を瞬く間に黒く焦がした。
「魔法そのものは悪くない」
クロウは腐食した木の幹へ一度だけ目を向けた。
「だが、お前自身が弱すぎる」
盗賊の頭目は傷口を押さえ、荒い息を吐いた。
「黙れ……」
クロウは、それ以上相手をするつもりはなかった。
長剣を握り直すと、剣身を包む白い光が急速に強まっていく。
「二連斬」
一撃目が横薙ぎに放たれた。
盗賊の手にしていた短剣が弾き飛ばされる。
続く二撃目は、真っすぐ前へ突き出された。
心臓と喉を意図的に避け、刃が肩の下へ突き刺さる。
盗賊の頭目の身体が硬直した。
そのまま力を失い、地面へ膝をつく。
クロウは長剣を引き抜き、倒れた男を見下ろした。
「聞きたいことがある」
剣についた血を払いながら、静かに告げる。
「今はまだ、生かしておいてやる」
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