二十年前の悪意 第二話(完結)
広場は陰鬱で静まり返っていました。はるか遠くの方から、汽車が鉄路の上を走る音が聴こえてきました。あの恐ろし気な神官から告げられたルールによれば、私は自分以外の侵入者をこの手で殺害するか、または殺害されるかしない限り、この魔境の世界から抜け出すことはできないわけです。何という呪われた運命でしょうか。私は胸の前で渡された銃を構えながら、なるべく足音を立てずに二つの階段を順に降りて、南方にある細い路地に入りました。すると、その暗い路地のはるか前方で、何か黒い影がうごめいているのが確認できました。始めは野良犬かドブネズミなどの小動物の影かと思いましたが、近づくにつれ、それは人間、それも老年の男性だと分かりました。
私の心臓は高鳴りました。自分が殺さざるを得ない相手は、足腰の弱った、ただの老人だったのです。驚いたことには、その老人も右の手に拳銃を握っていたのです。彼の方も、私という存在がここにいて、少しずつ近づいていることに気づいている様子でした。しかし、その老人は両腕をだらんと下に降ろして、私と命を争う姿勢をなかなか見せませんでした。そのだらしない姿は、まるで使えないカカシのようでした。そのみすぼらしい老人に向けて、私は拳銃を構えて見せました。すると、彼はその顔を上げて、ようやくこちらを見据えました。この一発の銃弾は絶対に外すことはできません。もし、こちらが打ち損なえば、弾丸を残している相手側が確実に勝利することになってしまいます。生き残って、元の世界に無事に戻ることができるのは、どちらか一方だけなのです。
私は五歩ほど離れた位置から、その老人の頭部を目がけて慎重に狙いを定めました。まさに銃を撃とうとしたその瞬間、その老人は突然叫びました。
「待ってくれ!」
確かにそう口走ったのです。私の動きは止まりました。何と、命を賭けた殺し合いの最中に、彼は命乞いを始めたのです。
「今は分からんだろうが、君が持つその銃は決して発射してはいけない」
遠い夜の話ですが、たしか、そのようなことを言っていたと思います。私は老人への答えとして、黙って首を横に振りました。自分だけを光りある未来へと救うために、目の前の獲物を易々と逃がすわけにはいかないのです。その老人は手に持っていた拳銃を地面に投げ捨てると、とうとう、這いつくばって命乞いを始めました。私には彼のそのような行為が、とても見苦しいものに思えました。自分の人生の中の、もっとも大事な瞬間において、戦うこと自体を拒否するような人間は、ほとんど屑と同様です。その老人の皺だらけの見苦しい顔も気に入りませんでした。こんな情けない男をひとりあの世に送ったとて、天使からのお咎めがあるとは思えませんでした。
その老人は最後に、「私にはどうしたらいいのか分からない。いったい、どうしたらいいのだろう」と喚きました。私はその情けない台詞を確認すると、まったく動じることなく銃の引き金を引きました。老人はその頭部から真っ赤な血液を吹き出すと、力なく地面に倒れました。駆け寄ってみると、すでに呼吸はしていませんでした。そのとき、私の心中には何の罪悪感も生まれなかったことを覚えています。ほどなくして、この狭い路地に朝日が差し込んできました。この不思議な街に再び希望の朝がやってきたのです。
朝になって辺りを見渡してみれば、そこは見慣れたパリスの街の中央広場の一角でした。悪魔たちの住処のような、おぞましい光景はどこにも見当たりませんでした。あの禍々しい聖堂のあった広場は、市場でのバザーの準備に勤しむ商人たちの賑やかな売り場に変わっていました。私は自分の立っていたはずの細い路地を、少し後戻りしてみました。先ほど、この手で撃ち殺したはずの老人の遺体は、今はもうどこにもありませんでした。おそらくは、あの不思議な聖堂にいた六名の神官たちが、私が運命との戦いに勝利した報酬とばかりに、後片付けをしてくれたのでしょう。その時はそう思うことにしました。
それからの毎日は充実していて、時間はとても速いスピードで過ぎていきました。あの夜、異次元の街の、恐ろしい区画に迷い込んでしまった一連の出来事は、ほんの些細な過ちだったのでしょう。それからの新生活の中で、新しい職業、新しい恋愛、友人知人との出会いや別れ、失敗や成功など多くを体験しました。幸福な時間は足早に過ぎてゆき、私は少しずつ歳を重ねました。その間、あの特別な夜に自分の手で撃ち殺したはずの老人の姿を思い出すことはなく、彼の外見についての記憶は、そのほとんどが脳内から綺麗に消え去っていました。もちろん、私の罪悪を咎める者もついに現れませんでした。時間の流れの中で、ごく自然に自分の罪を罪とは思わなくなっていたのです。
怒りや悲しみや歓喜、そして、感動といった多くの人生体験の中で、年月はあっという間に過ぎ去っていきました。ふと気がつけば、私もいつしか老年を迎えていました。あの不思議な夜から、すでに二十年の時が経過していたのです。この視力はすっかり衰え、膝や腰の神経痛に悩まされるようになっていました。ただ、充実した時間の中にあって、この偉大なパリスの街が実際には魍魎の住処と繋がっているなどという伝説を、私はまったく信じなくなっていました。自分の家が夜になると悪魔の街と隣接してしまうなどと考えることは、完全に愚かしいことだと思うようになりました。運命神などという人知を超えた存在とは、絵本の物語の中にだけ登場するものなのです。
あの夜からちょうど二十年後の夜、それは今夜のことですが、私は家事を終えると、何の気なしに外出することにしました。特に重要な用事があったわけではありません。ふと、家の外の空気に触れたくなったのです。あるいは、冥府に棲む人知を超えた何者かに、呼ばれたのかもしれません。今夜のパリスの姿は、明るかった昼間とはまったく変わっていました。彷徨い歩いている酔っ払いの姿、街路の壁際に置かれている酒樽や古い工具や使用できない武器、悪質な労働へと若者を誘う怪しげな男たち……。そして、裕福な商人を求めて彷徨う遊女たち。そのすべてがまるで別世界のように見えました。ほとんど意識もないままに、私の両足はいつしか、そういった見知らぬ区画へと吸い込まれていきました。半時も歩いているうちに、自分が迷子になっていること、そして、いつの間にかパリスの中央街を離れ、二十年前、あの不可解な夜に迷い込んだ死霊の街にいることに気がつきました。
そこまで来ると、ようやく、何者かに操られていた私の理性は解放されました。目の前に拡がる見慣れぬ世界に、すっかり慌てふためきました。錯乱状態にさえ陥りました。長く暗い一本道の細い路地を、仕方なしに進んでいきますと、あの不気味な広場、今になってようやく思い出したのですが、この死霊の街からの解放を求めて、かつて立ち寄った聖堂のあるはずの広場へとたどり着いていたのです。私はそこまで来て、ようやく、もっとも恐ろしい運命のいたずらに気づかされたのです。噴水を挟んで狭い通りのある向こう側の敷地を、若い頃の、いえ、正確には二十年前の若い自分が、その足をふらつかせながら、あの聖堂に向けて歩いていくのが見えました。私は慌ててこの身を隠しました。数分後、若き自分が武器を持たされて聖堂から出ていくのが確認できました。
さあ、これで貴方にも、私の人生には恐るべき結末が待ち構えていることがお分かりでしょう? おそらく、あの夜、はるか遠い夜ですが、私はもしかすると、自分の手で未来の自分の頭部を撃ち抜いたのではないでしょうか? やがて、若者の姿は広場の南方向へと立ち去りました。私は覚悟を決めると、忍び足で懐かしき聖堂の扉まで近づくと、震える手でその扉を開きました。ああ、するとどうでしょう。あの夜とまったく同じように、その内部では貴方が待ち構えているではないですか。いったい、これはどういうことでしょう? 運命を司るという貴方の姿は、二十年前のあの夜とまったく同じように、凛として見えます……。貴方はまさしく、運命神の使いに違いありません。このような説明で足りるでしょうか? ど、どうか、この私をもう一度お救いください……。
シャリド・オスクと名乗る老人は、その興味深い話をそのように締めくくった。私は「特別な対処が必要な事案とは、とても思えません」とだけ伝えて、二十年前のあの夜とまったく同じように、彼の手に弾丸一発だけ込められた拳銃を手渡した。
「このような仕打ちはあんまりです。ど、どうか、お救いください……」
「どうやら、勘違いをされているようですが、貴公は運命の街から逃げおおせたわけではありません。いまだ、あの夜の延長線上にいるのですよ」
すっかり絶望したオスクという男性の顔は、私の目には実年齢よりもさらに十年も老けて見えた。彼は憔悴しきった表情で、その拳銃を受け取ると、重い足取りで夜の街へと出ていった。己の運命を果たすために……。
しばらくすると、夜の静寂を突き破るように、外の路地において一発の銃声がとどろいた。ひとりの愚かな男が、己が手によって、その人生を終えたのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。他にも多くの短編作品がありますので、できればそちらもご覧ください。よろしくお願いします。




