二十年前の悪意 第一話
以下の文章は、シャリド・オスクという名の男が、ある夜、私に語って聞かせた逸話である。私自身の素性や職については、その物語の理解にまったく必要とされないために伏せておくことにする。オスクはその夜、私が勤める部屋に突然飛び込んでくると、その奇怪な話を有無を言わさぬ調子で語りだしたのである。彼がどこの世界の何者であるのか、は私にはついに判別できなかった。いったい、何に脅えているのか、その表情はまるで重病人のように青ざめていた。彼の細長い脚は、語られていくその物語の途中からずっとガタガタと震えていた。まるで、自分の命の灯火が今まさに消えかけていることを知っているかのようだった。元より神経質そうな男である。私の目には、彼が狂人であるかのように映っていた……。
(以下、オスクの証言)
私の話を聞いてくださることに心から感謝いたします。そもそも、このパリスという街の特性というものは、遥か昔から、どんな人間であっても、好きな土地に思い通りの建物を建設できる自由度の高さにあります。人間的社会活動に寄与するものであれば、申請や当局の許可を必要としないというルールのみが記され、そのあってないような法に則って、これまでも無数の建築物が造られてきました。現在では、この余りに広大な街の総面積を測れる者はおらず、どれほど多くの建物が実在するのかを正確に把握している人間もおりません。人が人を建物が建物を生み出し、この街の広さは日々増大していきます。もののわかる地図屋は、とうの昔にこの街を作図することを諦めて、その店を閉じております。日々、何の必要性もなく適当に建てられていく新たな建設物のために、ほとんど人通りのない路地が次々と生まれていきます。人間たちが見捨てた暗がりの土地には、魍魎や悪霊の類いが自らの住処を造っていきます。ここには官吏による取り締まりもありません。人間世界と魔境とのはっきりとした境を見定めることもできません。
私が体験したおぞましい事件につきましても、そのような人類未踏破の土地において起こったのだと確信しております。ああ、ご質問ありがとうございます。「君はいったい、どのような事件を起こしたのか?」ということでございますね。私は自分の手でこの世でもっとも重い罪、殺人をしでかしました。この手でひとりの老人を残忍に殺害したのです。しかしながら、警察の手によって捕らえられることもなく、重い処罰を受けることもなく、これこの通り、今を無事に生きております。どんなに優秀な警官にも、魔境においての殺人事件の捜査は困難であったはずです。被害者の遺体は、事件後、こつ然と消え失せてしまったのですから……。
第二のご質問をありがとうございます。「その事件はいつ起きたのか?」という問いかけでございますね。あれは今からちょうど二十年前、今夜と同じように月のない静かな夜のことでした。その日、私は仕事の疲れを理由にして大衆酒場に立ち寄り、豚肉をつまみにして、安い葡萄酒をたらふく飲みました。日付の変わる頃には、前後不覚にまで陥っていました。たまに飲む酒です。自分ではそれも構わないとまで思っていました。ただ、比較的法のゆるいこの街においても、深夜に泥酔して街を徘徊することは、まったく推奨されておりません。理性を失えば、先ほど挙げたような人外の魔境に簡単に踏み込んでしまうからです。
自分以外の人間の姿を見ることのない夜道を一時間も歩くうちに、私は自分の足がすでに普段のパリスの街を抜け、魔境の土地に入り込んでいることに気がつきました。夜道は進むに従って細くなっていき、複雑に分岐していきます。その頃には、命の危険を感じるようになっていました。この土地の住民の情けにすがって一晩の宿を借りようと思い、通りに並んでいる木製の扉を順番に叩いていきましたが、どの部屋の内部からも、反応はありませんでした。時折、この身に吹き付けてくる夜風の鳴く音が、獲物の狼狽を高笑う魔物たちの声にさえ聴こえました。次第に不安は恐怖へと変わります。未開の土地において、立ち止まることもできずに、私は酒の勢いに頼りつつ、その不可解な街を奥へさらに奥へと進んでいきました。
しばらく暗い路地を進んでいきますと、その側壁にはおびただしい数の文章が刻まれていることに気づきました。それは人間社会のいかなる言語にも当てはまらぬ言葉で彫られていました。その中のほんの一部については、パリスの人間にも分かる言語であったために解読することができました。繋げてみると、それは次のような文言でした。
『窓の外には、冥府のような夜が拡がって……』
『永遠を目指すが、決して報われぬ旅人のように……』
『異臭を放つ、人間どもの影が……』
『恋も惑いも一夜忘れて……』
『時は巡り巡りて、運命を知らされる……、あの夜から二十年の時を経て……』
私は空恐ろしくなって、その落書きからこの身を離しました。そうしてさらに小半時ほども歩きますと、視界の先にはひと気のない不気味な広場が見えてきました。その辺り一帯には紫色の瘴気が漂っていました。広場の中央付近には、こじんまりとした古い聖堂が建っていました。しかし、その聖堂は一見して人間の信者が祈りを捧げるための建物ではないようでした。その外壁にはガーゴイルやサラマンダーなどの古代の魔物が彫られていました。そして、今まさに滅びゆく人間たちが、戦いに敗れて悶え苦しんでいる最終戦争の様子を、真っ赤な血液のようなインクで描いた、巨大な絵画が掛けられていました。しかしながら、すでに正気を失っていた私の理性は、このまま暗く危険な街路に佇んでいるよりも、その聖堂の内部に進むことを選択しました。
聖堂の内部は天井から吊るされている六つの橙色のランプの光によって、明るく照らされていました。壁は薄いシアンに統一され、神秘的な雰囲気を醸していました。その場には六名の神官が、中央のテーブルを取り囲むように佇んでいたのです。ご存知のように、この国においては、六とは神を表す神聖な数字であります。祭壇にも六本の立派な蝋燭が並べられていました。神官たちは皆、その胸に美しい紋様が刺繍された黒いローブを纏っていました。しかし、そのお顔は暗がりになっていてよく見えませんでした。聖堂内部はこの世のものとは思えないほどの厳粛な空気に包まれていたのです。
彼らはほぼ同時に、中央付近に据えられているひとつの椅子を指し示しました。そこに腰をかけろということでしょう。私は深く深呼吸をして、気を落ち着けてから、ゆっくりとその席に腰をかけました。そうして、冷静にこの聖堂を眺めてみますと、その場は得も言われぬ威厳と静寂に包まれ、まるで、神の御前に立たされたような気持にさせられたのです。
「どうやら、とんでもない場所に迷い込んでしまったようです。私は夜の道に迷ったひとりの子羊です。どうか、お救いください」
私は震える声でそのように切り出しました。
「ここは運命を司る神々の棲む聖堂。神界と地上との接点であります。たかが人間などが入り込む場所でないことはご存知でしょうか?」
冷たい声で突き放すようにそう告げられました。
「この建物が人間界のものでないことは、よく理解しているつもりです。おそらく、ここは魔界に属する聖堂。しかし、あなた方はどうやら神官のようだ。よもや、この命を奪うとまでは言いますまい」
「一夜にひとつの過ちであれば、神のご意向に沿ってそれを許しましょう。しかしながら、今夜は地上の街の汚れた存在が、ふたりもここを訪れております。運命神は愚かな人の過ちを二度も許しますまい。どちらかの人間は責任を取らねばなりません」
私は床に跪いて許しを請いました。しかしながら、いくらへりくだっても、六名の神官たちは、その冷徹なる表情を崩してはくれませんでした。
「ならば、自分の手によって、もうひとつの災いを取り除くことです」
右の壁際に立っていた若い神官が足音も立てずにこちらに近寄ってきました。そして、私の眼前にあるテーブルの上に幾つかの武器を並べてみせました。指し示された武器の中から、私は一丁の黒い拳銃を手に取りました。
『弾は一発だけです』
左側の壁に寄り添っていた神官が視線も寄こさずにそう呟きました。私は腹をくくりました。彼らに向けて深く一礼すると、聖堂の入り口の大扉を開き、再び夜の街に出ました。
ここまで読んでくださりありがとうございます。二話で完結します。今後ともよろしくお願いします。




