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夜風が、カーテンを揺らしていた。
蝋燭の火が一瞬だけ揺れ、壁に映る影がかすかに震える。
「カティア。少し、時間をいただけますか?」
セルヴァンの声は静かだった。
けれど、どこか迷いを含んだその響きに、私は無意識に頷いていた。
「……なあに?」
「今日は、僕の話をしたいと思います……昔の話です。貴女が過去を気にしていらっしゃいましたから。」
椅子に座る彼の横顔は、いつものように整っていた。
白銀の髪は夜の闇を受けて少しだけ冷たく、紅の瞳の熱がより際立った。
「僕は、小さい頃から……少し、普通じゃなかったんです。」
静かに、彼は語りはじめた。
「見た目のせいか、家の出自のせいか、何をしても、”あの子とは関わるな”と言われました。話しかけても返事はなく、遊びに入れてもらえず、何をしても、どうしても、僕だけが輪の外でした。」
彼の手が、自分の胸元をそっと握る。
まるで、古傷をなぞるように。
「どれだけ努力しても、ただのふりをしているだけだ、って。泥を投げつけられて、”汚れている”、”気持ち悪い”、そんな言葉が、いつしか僕の輪郭を作るようになった。」
初めて聞く、彼の弱さ。
今の堂々とした姿からは想像もできない過去の痛みが、そこにあった。
「でも……そんな僕に、手を差し伸べてくれた子がいた。」
セルヴァンの目が、真っ直ぐこちらを見た。
まるで“今の私”の奥に、“かつての私”を見ているかのように。
「貴女だったんです、カティア。まだ十歳くらいの頃でした。君は、泥にまみれた僕に躊躇なく手を差し出した。」
「……私が?」
「覚えていませんよね。」
彼は静かに笑った。寂しさを滲ませて。
「貴女は言ったんです。そのままでいいのに、って。誰かが汚れてるって言うのなら、それを汚れだと思う人の心が汚いんじゃないかしら、って。」
「……そんなこと……私、言ったの?」
「ええ。まっすぐ、僕を見て。泥だらけの僕を、普通の男の子として扱ってくれた。」
私の胸の奥が、ふっと熱くなった。
それは記憶というには不確かすぎるものだった。
けれど、なぜかその光景だけが、ライトの点滅のように目の裏に一瞬浮かんだ気がした。
「でも、貴女という光を見たあとも僕は、何度も傷ついて、何度も絶望しかけて……ある時、本気で、自分の生を終わりにしようと思ったんです。」
セルヴァンの声が、少しだけ震えた。
「崖の上に立った時、偶然貴女が現れた……あのときの言葉、今も忘れません。」
彼は目を伏せ、低く呟くように語った。
『もし、それがあなたにとっていちばん幸せだと感じるなら、私は止める権利はない。でも、私は……この一年、あなたと出会って、すごく大切な人だと思ったから。いなくなったら、私はきっと寂しいわ。』
静かな空気に、その言葉だけが響いて残った。
「……私は。」
カティアは、唇を震わせた。
「そんなこと、言えたのかしら。」
「貴女は、そういう人です……ずっと、そういう人でした。」
セルヴァンの言葉は、どこまでもまっすぐだった。
「だから僕は、貴女を守るって決めたんです。どんなに離れていても。貴女が誰を選んでも。貴女の幸せが僕でなくても、それでも、貴女が幸せに生きているなら、それだけで良かった。」
その晩、私は自室に戻っても、しばらく眠れなかった。
ベッドの天蓋を見上げながら、ぼんやりと、彼の言葉を思い返していた。
私には、そんな過去があった。
私は、誰かの命を救ったことがあった。
それなのに、覚えていない。
忘れてしまっていた。
その人にとって大切な思い出で、今でもその思い出から、こんなにも優しく私を包み込んでくれているのにーー。
(……ごめんなさい。)
ぽろりと、涙が落ちた。
それがどこから来た感情なのか、自分でもわからなかった。
ただ、彼の想いの深さに、胸がしめつけられた。
そして、初めて、はっきりと”想った”。
(私は……この人のことを、もっと知りたい。たとえ、その過去に苦しみがあっても……)
翌朝、ベッドの脇に、小さな紙が置かれていた。
セルヴァンの筆跡で、ただ一言だけ。
『今日も、1日、貴女が笑ってくれますように。』
私はその紙を胸元で抱きしめて、そっと目を閉じた。
守られていることに、初めて感謝したいと思った朝だった。
そして私は、まだ知らなかった。
あの夜、セルヴァンの語らなかった部分。
どこかが欠けたような、ぼんやりと霞のかかった時間の隙間に、彼が何をして、何を選び、何を、私に、隠したのかを。
けれど、それを知るには、まだ少しだけ、心が追いついていなかった。
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