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風が柔らかく草を撫で、遠くで馬車の鈴の音が鳴っていた。
晴天のファンティアは、青空と緑とで満ちていて、領地の空気はどこまでも、のどかだった。
「ここが……ファンティアの中心部?」
私は、ルルミアが用意してくれた大きな麦わら帽子を被り、裾の長い白いワンピースの裾をつまんだ。
周囲には、石造りの建物と、木造の店が並んでいる。
小さな果物屋、パン屋、そして香草を扱う薬屋。
まるで絵本のような風景。
「……そうです。ファンティアの中心部です。」
ガルドが短く答える。
今日も彼は私の護衛として、ぴたりと背後につき従っていた。
セルヴァンは、朝になっても来なかった。
何やら王都からの手紙が届いたらしく、執務に追われているらしい。
それなら、今がチャンスだと思ったのだ。
少しだけでいい、この屋敷の外に出て、この土地の空気を肌で感じてみたい。
許可が出るとは思わなかったが、意外にもセルヴァンは静かに頷き、ただ一言。
「絶対に、無理はしないように。ガルドが付き添いますから。何かあればガルドに言ってください。」
村の人々は、私を見るなり、誰もが丁寧に頭を下げた。
けれど、言葉をかけてくる者はいない。
誰一人として、私に話しかけない。
(あれ……?)
違和感がじわじわと広がっていく。
私が目を合わせれば、皆、微笑みを浮かべる。けれどその微笑みは、どこか遠巻きで、何かを怖れているようだった。
まるで、触れてはいけないと決められた宝石のように。
(私、何か……怖がられてる?)
「お姉ちゃん、きれい!ソレイユが言ってた通りだね!」
弾けるような声に振り向くと、五、六歳ほどの女の子が走り寄ってきた。
栗色の髪を編み込んで、麦の花を飾っている。
「ありがとう。あなたもとっても可愛いわ。」
「ねえねえ、お姉ちゃんって、王都のお姫さまだったんでしょ?」
「え……?」
小さな質問が、周りの空気を変えた。
周囲の人たちが一斉に息を呑む気配がした。
周囲の視線が、ピンと張り詰める。
「ルナ!」
後ろから母親らしき女性が駆け寄ってきて、慌てて娘の肩を抱いた。
「ごめんなさい……この子、知らなくて……!悪気はなくて……!」
「いえ……私は……大丈夫……」
喉がひどく渇いていた。
身体の奥がひやりと冷えていくのを感じる。
「……ガルド。帰りましょう。」
「……はい。」
私はもう振り返らなかった。
領地の人々の沈黙と、少女の無垢な瞳と、母親の顔に浮かんでいた、あの、哀れみのような色を、心のどこかに焼き付けながら。
「……おかえりなさい。」
屋敷に戻ると、最初に出迎えたのはクレアだった。
その表情はいつも通り、無表情に近かったけれど、私の手が少し震えているのを見て、そっと眉を顰めた。
「……何か、ありましたか?」
「……別に。何でもないわ。ただ、少し、疲れただけよ。」
「そうですか。」
クレアは深くは問わなかった。
けれど、その視線の奥には、何かを押し殺すような静かな観察があった。
私を、観察している。
そう、思った。
夕方、紅茶の時間。
ポミエがそっと声をかけてきた。
「今日は……外の空気を吸われたんですね。良いことですわ。」
「ええ。綺麗な場所だった。けれど……」
ポミエは頷く。
まるで、私が続けようとした言葉の先を、すでに知っているかのように。
「皆、良い人たちです。領地の人たちはみんなカティア様を大切に思っています。ただ、外から来たお客様に慣れておらず、接し方が分からないだけなのです。もし、彼らが無礼を働いたのなら申し訳ございません。」
「……どういうこと?」
「カティア様がとても誠実で優しい方だとみんな理解しております……だからこそ、傷つけたくないだけ……ただ、黙って見守っていることしかできないのです。」
「私が……傷つかないように?」
ポミエは答えなかった。
ただ、カップに紅茶を注ぎながら、微かに瞳を伏せた。
夜、セルヴァンが部屋に入ってきた時、私は彼の顔をじっと見つめていた。
「……どうかしましたか?」
「セルヴァン。私、王都にいたことがある?」
こちらに向かっていた彼の足が、ほんの一瞬、止まった。
けれど、すぐに笑顔を浮かべて、私の隣に腰を下ろした。
「カティア。今、ここに貴女がいる。それ以上に、大切なことはありますか?」
「あるわ。」
「……本当に、ですか?」
「私は、私の全部を知っていると思っていた。けれど、違った。知らないことが、こんなにも多いなんて。」
セルヴァンは静かに目を伏せた。
「……貴女が、過去を思い出さずに、今のままで笑えるのなら、僕はそれを守りたい。」
「でも、それは、ただの……幻ではないのかしら?」
「幻でもいい。貴女が生きているなら。笑ってくれるなら。」
「それは、セルヴァンのため? 私のため?」
「……僕のため、かもしれません。」
しばらく沈黙が続いた。
その夜のミルクは、蜂蜜の甘みが少し濃かった。
けれど、私は一口飲んだ以上、飲まなかった。
セルヴァンは気がついていたけど、飲むことを強要することはなかった。
ただ、窓を開けて、夜風を受けながら、星を見上げた。
この空は、王都にも、ファンティアにも境目なく続いている。
私がどこにいたのか、何を失ったのか、何を守られているのか。
きっと、もうすぐ知ることになる。
そんな予感がした。
一方そのころ、セルヴァンは執務室で机に両肘をつき、疲れたように眉間を押さえていた。
「……やはり、免疫ができたのか、幻覚が薄くなってきましたね。」
セルヴァンの言葉に、ガルドが壁際に立ったまま言う。
「村の者たちは口止めを守っています。問題は……子供たちです。制止できず、申し訳ございません。」
「仕方のないことです。子供は、真実を知らぬまま、核心に触れますから。それに、領土の者たちは、僕の身勝手な願いに付き合ってくれている。これ以上、何かを強要するのは、酷でしょう。」
「このまま記憶が戻れば、カティア様はーー。」
「そうだな……その時は、僕がすべてを背負いますから、貴方達はいつも通りにしていなさい。」
「承知いたしました。失礼いたします。」
ガルドが退室したのを確認すると、セルヴァンは椅子から立ち上がり、窓を開け放った。
夜風が髪を揺らし、遠くでフクロウが鳴いた。
「カティア、僕が貴女を愛したのは、幻ではないですよ。記憶が戻っても、それだけは変わらない。」
彼の紅い瞳が、夜の闇を真っ直ぐに見つめていた。
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