あなたの妻ですから
領主だけでなく、メリルもたまに手をインクで汚していることがある。趣味の活動のためと言っていたが、内容はルーチェには教えてくれない。
差し出されたのは、普段から仕事のやり取りで使っている封筒。仕入れの一覧かと何気なく受け取ったのだが。
「エリオット様からお手紙です」
「ありがと…………え?」
続いた言葉に硬直する。
「お手紙?」
「はい」
「お仕事の書類ではなく?」
「はい。私的な、お手紙でございます」
「まあ……!」
おぼつかない指を叱咤して、そっと封を開ける。文字は間違いなく本人のもの。したためられた文面も実に彼らしく、緊張も忘れてくすりと笑う。
「気になる?」
「……ええ、正直」
幸せな気持ちついでに見せると、侍女は覗き込んだ姿勢のままで絶句した。
「あんなに渋っていたくせに……?! 女心がわからないにも程があるでしょう」
「そんなことないわ。お食事を召し上がってくださるだけでも嬉しいのに」
「……」
「ふふ。初めてのお手紙、大事にしなくちゃ」
たった一行、ごちそうさま、とだけ。
他の人からすれば手紙とは呼べないものかもしれない。でもルーチェにとっては、彼が自分のためにペンをとって、そしてたぶん苦心して書いたであろう一文を丁寧に包んでくれたことが、堪らなく嬉しかった。
◆
習慣に従いエリオットの部屋を訪ねると、まるで待ち受けていたかのように素早くドアが開かれた。
いつもなら先に扉越しの返答が投げられるのに。ルーチェが驚いて立ち尽くしていると、彼の側もなぜか瞳をさまよわせている。
「こ、こんばんは……?」
「ああ、ええと、そうだな? こんばんは……」
奇妙な沈黙。
ルーチェは急いでお盆を差し出す。
「こっ、お夜食をお持ちしたので! よろしければ召し上がってください」
しかし彼は受け取ることはせず、代わりに半身を退いて室内へ促すような素振りをする。つられて揺らいだ『影』は、心なしか前よりも薄い。
「じ、時間があるなら少し話をしていかないか? 先日のホットミルクの礼というか、紅茶くらいなら淹れられる」
「へ……?」
「もちろん君さえ嫌でなければ、だが」
早口で付け足すことも忘れない。
ルーチェはようやく言葉の意味を理解した。身を乗り出してしまったために、危うく器の中身を溢しかけたのはご愛敬だ。
「いっ――嫌なはずがありません! ぜひ!」
「そうなのか……?」
そんな妻の姿に、エリオットは間の抜けた声で呟くのだった。
普段はまっさらなはずのテーブルには珍しくポットが出してあり、ルーチェは彼が来訪に備えていたのを知った。
部屋には書籍や資料の束も多い。どれも雑然と床や机に平積みされているのが常だが、慌てて端に追いやりでもしたのか、雪崩の痕跡がある。
「いま紅茶を――」
「エリオット様はお掛けになっていてください。このお湯を使っても?」
「え、ああ」
領主様にそんなことをさせるわけにはいかない。どうにか腰を落ち着けてくれたが、じっと見られるのは少し恥ずかしい。ルーチェは震える手で缶から茶葉を掬う。
「今日も砦に行っていらしたんですか?」
「まあ」
最近は試験勉強のため、後をつけ回すことはしていない。忙しくあちこち飛び回っているのは相変わらずのようだ。
「大変ですね。北の、山のほうですよね?」
「ずっと机に齧りついているのも性に合わない」
「なんだか意外です」
「馬で遠出するのは好きだ」
ぽつりと溢す。
彼は居心地悪そうに椅子でもぞもぞとしていたが、やがて意を決したように自ら口を開いた。
「俺……私は……いや、もういいか。俺は昔からここの騎士に憧れていて」
「それでは夢を叶えられたんですね」
「想像とは違ったが。もっぱら規則とにらみ合いをするばかりだ」
顔をしかめる。
「そういえば、君が慕う相手も騎士なんだろう?」
「はい。笑顔が素敵で優しくて兄のような……ですが、子供の頃の話ですから!」
「……きっと俺とは全然違うのだろうな」
「え?」
ぼそりと呟きエリオットは俯く。ルーチェは曖昧な相槌をうちながら、皿の傍らにカップを置いた。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がってください。わたしは一足お先に済ませてしまいましたから」
「申し訳ない。結局はお茶まで」
「気になさらないでください。できることがあるのが嬉しいのです」
あっと気付いて、力強く拳を握ってみせる。
「毒見もばっちりですので!」
彼は複雑そうな表情で何かを言いかけ、やはり気が変わったのかそのまま目線を器の中に落とした。
「……これは?」
「小麦粉を練ったお団子のスープです。野菜もたっぷり入れました。とろみをつけているので、火傷されないようお気をつけくださいね」
温かいまま提供できて良かった。故郷のセシリア領でよく食べられていた料理は、ちょっとした自信作だ。
「初めて見る。いただいても?」
「は、はい! お口に合うといいのですが」
食前の祈りを捧げる。なんてことのない食卓の風景であるはずなのに、その静謐な表情にルーチェはまたどきりとした。
「うん……」
どぎまぎしている間に、一匙、口に運んだらしい。噛みしめながら小さく頷いている。美しい所作はまるで高級な飲食店での振る舞いのよう。
目が合わないのを良いことに見つめていると、とうとう彼はスプーンを置いた。
「ずっと、言わなければと思っていたんだが」
身構える少女を余所に、生真面目な表情で皿を見下ろしたまま。
「いつもありがとう。温かい食事がこんなにも身や心を満たしてくれるものだと、君のおかげで思い出した」
「エリオット様……」
「もし負担なら無理しなくていい。だが、なんというか……こうして帰りを待っていてもらえるのは、嬉しい……と思う」
尻すぼみな言葉は社交辞令かもしれない。それでも、状況さえ許せばルーチェは泣いてしまいそうだった。
「あなたの妻ですから」
それだけを絞り出すのが精一杯。弾かれたように顔を上げたエリオットは、はっとした表情でしばらく瞬きを繰り返し
「妻か……そうだな」
再び、目を伏せる。その背には黒いモヤが静かに揺れている。
「俺は君を、仕事仲間のように扱うばかりで」
「充分です。少しでもお力になれるなら」
浅ましい心を悟られないように笑顔を示す。喜んでもらいたいのも恩を返したいのも、そして彼に健康になってほしいのも本心には違いない。たとえ一番の理由ではなくとも。
「初めてなのでうまくできているかわかりませんけど……でも、わたしはレネシュに来て良かったと思っています」
「結婚なんてそう何度もするものではないさ」
「あ」
「いい、気にしないでくれ」
謝る間もなくエリオットは大きなため息を吐いた。
「こうしていると幼い頃を思い出す。辛いことがあっても、食卓で父や母と話すと気が楽になったものだ」
「素敵なご家族ですね」
彼は黙って頷くだけだった。
ずっと気を張っているようなこの人をほんの少しでも癒すことができたなら。たとえ契約だとしても、きっとそれが妻としてのルーチェの役目。
「何か、君のためにできることはないか?」
思考を代弁するように出し抜けに問われた。エリオットは初対面の時よりもよほど緊張した様子だ。
「わたしが恩返しをしたいのに、更にいただいてしまっては追い付きません。お手紙もくださったじゃありませんか」
「あれは……っ。いや、あんなことしか」
「すごく嬉しかったです」
「きちんと礼をさせてほしいんだ」
「そう仰られても……」
上着のお礼もまだきちんと述べていないのに。思い出すだけで胸の奥がじわりとあたたかくなる。
彼はルーチェが身勝手な願望を抱いているとは夢にも思わないだろう。騙しているような心苦しさに蓋をし、毎日考えていることを口にする。
「あ……それでは、ごはんを!」
「ごはん?」
「はい、一緒に食べたいのです」
「……そういえば俺は、君と食事を共にしたこともないんだな」
ぽつりと呟く。食い意地が張っただけのような言い方になってしまったが、立派な食卓にひとりで座るのは寂しく思っていたから。
「わかった。明日の朝食は一緒に食べよう」
大真面目に、大仰なことのように言うのがなんだか可笑しかった。
「それで……渡しておきたいものが」
おもむろに立ち上がり、何やら机の中を探る。首を傾げるルーチェの前に差し出されたのは、手のひらに載るくらいの小さな白い箱だ。
大きな手がそっと蓋を開けた。たっぷりの余白をとった真ん中に固定されている、細身の指輪。
思いもよらない品に言葉が出てこない。エリオットは眉をひそめ、焦ったように箱を握らせた。
「式に間に合わずすまなかった。なにぶん急だったから」
「わたしに? ですか?」
「当然だ」
契約にもかかわらず用意されていた立派な結婚指輪。別に、例えば、シロツメクサで作った指輪だってルーチェは嬉しかったのに。
ぼうっと見つめていると気まずそうな咳払いが聞こえた。
「大きさが合うといいんだが」
「え、で、でも」
記憶の限り、指を測られたことなどなかった。見上げた表情は先ほどより一層に渋い。
「君、アーサーに手を握られたことはないか?」
「手を?」
この城に来てから、誰かに触られるようなことは――あれ?
「ひょっとして、馬車に乗る前?!」
「ああ、だろうな」
「ええ……?」
「あいつは女性の体の大きさも見ただけでほぼわかるらしい」
「かなり特殊な技をお持ちなんですね……」
やはりあの執事長は色々な意味で有能らしい。
とんでもないお土産を持たされ、まだ夢見心地のまま部屋を後にする。エリオットはわざわざ戸口まで見送りにきた。
「あの、今日はありがとうございました!」
「こちらこそ」
「あと指輪も! ありがとうございます」
「無理して着けなくていい。不要なら売ってくれても」
勢いよく首を振る。
「大切にします。絶対に」
小箱を手でぎゅっと包み込む。売るだなんてとんでもない。契約のためだとしても、ルーチェにとっては人生で初めての妻の証で、エリオットから贈られた大事な指輪なのだ。
「メリルとアーサーに自慢します。それからロディにも。あっ、あとラジー達にも見せたいですけど、ええっと、お水を扱う時には着けたくないので……」
「――ふはっ」
緊張を紛らわしたくて名前を連ねていたら。
「いや。楽しく過ごしてくれているなら何よりだ」
ルーチェは呆気にとられた。優しく目尻を下げた笑顔は今までに見たどんな顔とも違う、やわらかく、思わずといった様子で。
優しい、あたたかい――この人が好き。
こみ上げる感情は飲み込まなくてはいけない、はずなのに。
「また、こうしてお話ししてくださいますかっ?」
それでも、一度限りだなんてどうしても嫌だった。端正な顔が驚きに染まる。
「それは……俺で良ければ」
「事前に予約するよう仰っていたので」
「そうか、そうだったな。了解した」
彼はなんだか痒いのを我慢しているみたいな、妙なしかめ面をする。きょとんと見上げていると再び「いや」と頬をかいた後、真剣な顔でゆっくりと瞬きを。
「何でもない。わざわざ時間をとってくれてありがとう。おやすみ」
「はっはい、おやすみなさい……!」
自室が近くて助かったと思う。辿り着いた途端に足腰から力が抜けてしまって、少女はその場にへなへなと座り込む。
「あんなの、ずるいわ」
向けられた笑みを思い出す。聞いていた話と全然違うではないか。もし義理であの振る舞いができるとしたら、なんて罪作りな人なのだろう。
冷酷だなんて、甲斐性なしだなんて、絶対に嘘!
指輪の箱を両手で握りしめる。今夜もルーチェは眠れそうにない。




