第58話 学園に戻る日常
トビアスから手紙が届いた。
『父上に報告したところ、「疑わしい点があることは認める。だが、今回の証言だけをもって、ローレンツ・グラウが事件に関与したとは判断できない」とのことだった。
現時点では捜査に値するだけの証拠はなく、ローレンツ本人への追及も行わないそうだ。こちらが彼を疑っていることを、わざわざ悟らせる必要はないとのことだった。
ただ、何もしないというのも早計だとして、念のため学園にはこちらの者を何人か置くことになった。
また、何者かによるベアトリクスへの精神干渉が認められたことで、罪が少し軽くなるかもしれない』
(やはり、今の段階ではローレンツ様を追及することはできないのね)
ローレンツはベアトリクスに危険な深部の存在を教え、図書室にダンジョンの地図があることを告げ、フィオナへの嫉妬を煽るようなことを言った。
だが、ベアトリクスに事件を起こすよう指示したわけではない。
ベアトリクス本人も、フィオナを深部へ連れていくことを考え、計画し、実行したのは自分だと認めている。
そして、ベアトリクスが精神干渉を受けていたことは分かっていても、それをローレンツが行ったという証拠はなかった。
(これだけでは、ローレンツ様が事件に関わっていたとは言えないわね……)
それでも、学園にアイゼン公爵家の者を置いてもらえることになったのは、一つの安心材料だった。
少なくとも、学園内で何か不審な動きがあれば、これまでよりも早く気づける可能性は高い。
リディアは手紙を畳みながら、そっと息を吐いた。
そして数日後、ベアトリクスに対する正式な裁定が下された。
ベアトリクスは学園を退学となり、王都を離れ、地方の修道院で数年間謹慎することになった。精神干渉を受けていた事情も、多少は考慮されたようだ。
かつてのリディアは、離島への追放を言い渡された。
あのときは、フィオナが魔物の毒によって神経を侵され、二度と元通りには歩けない身体になってしまった。
また、第一王子クラウスの婚約者という立場でありながら事件を起こし、王家の名誉を傷つけた。さらに、断罪されたあとでさえ、自分のしたことを認めようともせず、フィオナに対して「死ねばよかったのに」とまで口にした。
今思い返せば、重い処分を受けたのも当然だった。
(ベアトリクス様は退学になってしまったけれど……斬首刑や離島への追放ではなくて、よかったわ)
それから数日が過ぎ、ベアトリクスの姿がなくなった学園にも、少しずつ日常が戻り始めていた。
それでも、しばらくの間は廊下や食堂で、彼女の話をする生徒たちの声を耳にすることがあった。
「本当に退学になったんですって」
「修道院へ行くことになったそうよ」
そんな囁きが聞こえるたび、リディアの胸には複雑な思いがよぎった。
ベアトリクスがしたことは許されることではない。
もしあの日、フィオナたちの救出が間に合わなかったら。
前の人生と同じように、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
だから、罰を受けるのは当然だ。
それでも、裁定院で顔を覆って俯いていたベアトリクスの姿を思い出すと、心が締めつけられるような感覚がよぎった。
(……ベアトリクス様は、とても後悔されていた)
そんな割り切れない思いを抱えながらも、学園での日々は続いていく。
ローレンツは、以前と何も変わらなかった。
ある日の休み時間。
廊下を歩いていたリディアは、少し先でフィオナと話しているローレンツの姿を見つけた。
「ありがとうございます、ローレンツ様」
「いえ。この程度でしたら、どうということはありませんよ」
ローレンツはいつもの穏やかな笑みを浮かべている。
フィオナも、ごく普通に笑っていた。
詳しい話の内容までは分からない。
ただ、その光景だけを見れば、そこに不自然なものなど何ひとつなかった。
(ローレンツ様を疑うのは、間違っているのかしら……?)
リディアは思わず足を緩めた。
ベアトリクスの記憶から、ローレンツの名前が出てきた。
彼との会話に関する記憶だけが封じられていた。
疑う理由はある。
けれど、目の前にいるローレンツは、リディアがこれまで知っていた彼と何も変わらない。
誰に対しても物腰柔らかで、困っている相手には自然と手を差し伸べる。
フィオナに対する態度にも、怪しいところは見当たらなかった。
そのとき、ローレンツと目が合った。
「リディア様、また図書室へ行かれるのですか?」
「ええ。まだ読んでいない本がたくさんあるので」
「リディア様は本当に本がお好きですね」
フィオナが明るく笑う。
ローレンツも、いつもと変わらぬ様子で笑っていた。
「お二人は礼拝堂へ行かれるのですか?」
「ええ」
「お勤めご苦労様です。では、また後ほど」
「ええ。また」
二人と別れ、リディアは再び歩き出した。
振り返りはしなかった。
(……何の変哲もない。いつも通りね)
疑っていることを悟らせてはいけない。
それはアイゼン公爵の判断でもあり、リディア自身もそうすべきだと思っていた。
トビアスも、ローレンツへの態度を以前と変えてはいなかった。
そうして、一学年の大きな山場だったダンジョン探索実習を終えたのも束の間、息つく間もなく学年末試験が近づいてきた。
試験科目は中間試験と同じく、「魔法学」「王国史」「魔物・生物学」「薬学・植物学」「外国語」「礼法・社交」「実技」の七科目だ。
試験期間が近づくにつれ、学園の空気も少しずつ変わっていった。
廊下ですれ違う生徒たちの口数は、いつもより少ない。
談笑しているように見えても、手には暗記用の紙片を握っていたり、教室へ向かいながら参考書に目を走らせていたりする。
「みんな必死ですね」
放課後、図書室の一角でカレンが周囲を見渡しながら、小声で呟いた。
「カレン様のノートの書き込みもすごいです」
フィオナが言うと、カレンはぱっとノートを手で隠し、顔を赤らめた。
「汚いノートで恥ずかしいですわ」
「汚さなら、私も負けませんよ」
フィオナがどこか得意げに、自分のノートを見せた。
余白には補足の説明がびっしりと書き込まれ、覚えようとした単語が何度も繰り返し書かれている。
たしかに、本人が汚さを自負するだけの必死さが伝わってくるノートだった。
「たしかに……頑張り屋さんのノートですね」
カレンが慎重に言葉を選んだのが伝わってきて、リディアとフィオナは思わず笑った。
「ふふ、率直に汚いと言っていただいていいんですよ。カレン様は優しいですね」
「今回は覚えることが多いですよね。魔物・生物学が特に……」
リディアは不安そうに教科書を見つめる。
「そこは僕も苦手だなあ」
トビアスが本から顔を上げて言った。
「トビアスはそう言いながら満点を取りそうだから、その言葉は信じられないな」
セドリックが呆れたように返した。
「まったく、セドリックは。僕だって、いつも頑張って勉強しているのが分からないかな」
そんな会話の向こうで、カイとクラウスは王国史の試験範囲について話している。
いつもの光景だった。
そして、その輪の中にはローレンツもいた。
「フィオナ様、そこはこの分類で覚えると分かりやすいですよ」
「あ、本当ですね。ありがとうございます」
ローレンツが参考書の一か所を指しながら説明すると、フィオナは納得したように頷いた。
リディアは手元のノートへ目を落とした。
(……今日も、いつものローレンツ様だわ)
誰もローレンツを疑っていない。
当然だ。
ベアトリクスの記憶について知っているのは、ごく限られた者だけなのだから。
「リディア様?」
声をかけられて顔を上げると、ローレンツが不思議そうにこちらを見ていた。
「先ほどから手が止まっていますが、何か分からないところでも?」
「……いいえ。少し考え事をしていただけですわ」
「そうですか」
ローレンツはそれ以上尋ねることなく、静かに微笑んだ。
「では、ここが終わったら、外国語で分からない箇所を見てもらってもいいですか?」
「ええ。もちろんです」
リディアも、いつもと同じように微笑み返した。
窓の外では、夕暮れの光が学園の庭を淡く染め始めている。
事件が終われば、日常は戻ってくる。
けれど、すべてが元通りになったわけではない。
胸の奥に残った小さな疑念を抱えたまま、リディアは再び教科書へと視線を落とした。




