第38話 魔法の授業
午後の基礎魔法演習。
Aクラスの生徒たちは、広大な演習場へと集められていた。
「いいか、諸君。魔法の基本は、呪文による起動と、術式による制御の合致にある」
教壇に立つのは、鋭い眼光をした教官、ユルゲン・ベッカーだ。
生徒たちの前には、標的となる木製の演習用ゴーレムが整然と並べられている。
「まずは、戦闘魔法の基本である火弾だ。杖で空中に術式を描き、呪文を唱える。……始め!」
周囲の生徒たちが一斉に杖を構える中、リディアは白樫の杖を静かに振るった。
彼女が空中に描いたのは、教本に載っている最も標準的な術式だ。そこに、マグダレーナに教わった通り、環境に合わせた補助式をそっと加える。
(基本に忠実に。マグダレーナ先生の教えを汚さないように……)
「――火よ、弾けて貫け」
シュッ、と鋭く空気を切り裂く音とともに、小振りの火弾が放たれた。
火弾は風に乱されることなく滑らかな軌跡を描き、ゴーレムの胸部へ吸い込まれるように命中する。
(よかった。イメージ通りだわ)
「……素晴らしい。教本の図解通りの、見事な構築だ」
ユルゲンが感嘆の息を吐いた。
カイはピューッと口笛を鳴らし、トビアスは興味深そうに術式の残滓を見つめている。
「リディア嬢、君の術式……少し、情報量が多くなかったか?」
「基本の術式に、風抵抗を抑える補助式を加えています。今日は風が強いので、念のために」
リディアは風で乱れた白銀の髪を耳にかけながら、当然のことのように答えた。
「補助式を加えただと? 基本の術式を維持しながら、並列して書き込んだというのか……」
ユルゲンは驚きを隠せない様子だった。
だが、次の瞬間、さらなる興味が湧いたのか、リディアへ一段高い課題を突きつけた。
「では、エルヴィン嬢。次は『炎の槍』を試せ。条件は三つだ。第一に、火力を安定させるため『赤く、強く燃やす』こと。第二に、障害物に逸れぬよう『軌道を一点の狂いもなく一直線』に保つこと。第三に、威力を維持したまま着弾させること。できるか?」
それは、術式に複数の補助式を加える高度な要求だった。
ユルゲンとしては、リディアの限界を試すつもりだったのだろう。
「……はい。やってみますわ」
リディアは真面目だった。
(赤く、強く。そして、一直線。……お言葉通りに)
リディアはユルゲンの指示を、頭の中で術式へと変換していく。
白樫の杖が、すっと空をなぞった。
本来の『紅炎の直槍』の術式の周囲に、彼女は「炎の色と密度を固定する」術式と、「周囲の空気の流れを整え、弾道を固定する」補助術式を組み込んでいく。
まるで、パズルのピースをはめるように。
迷いのない動きで、術式を描く。
「――紅炎の槍よ、風を切って貫け」
直後、演習場に異様な圧力が走った。
放たれたのは、あまりに鮮やかすぎる炎の槍。
それは風に煽られることも、熱が拡散することもなく、文字通り、定規で引いた赤い線となってゴーレムの中心部を貫いた。
標的だったゴーレムの胴体に、完璧な円形の穴が空く。
演習場には、ぱらぱらと木片が落ちる音だけが響いた。
「……指示通り、『赤く』『真っ直ぐ』にいたしましたが。……ユルゲン先生、いかがでしょうか?」
リディアが不安そうに振り返ると、演習場は水を打ったように静まり返っていた。
ユルゲンは開いた口が塞がらない様子で、標的を見つめている。
「あ、ああ……。指示通り遂行したな。……だが、まさか複数の補助術式を、あの速度で安定させて発動するとは」
「君……今のやり方、本来なら宮廷魔導師が精密射撃の時に使う手順だよ。学生の演習でやることじゃない」
トビアスが呆れたように、それでも驚きを隠しきれない様子で笑った。
リディアは宮廷魔導師という言葉を聞き、納得したように頷く。
「家庭教師の先生が元宮廷魔導師の方でしたから、たしかに同じ手順なのかもしれませんわね」
「なるほど。兄君のアレクシス様も素晴らしかったが、家庭教師が元宮廷魔導師とは……もしや、あのマグダレーナ様では?」
「そうです。マグダレーナ先生ですわ」
リディアがそう答えると、ユルゲンは納得したように何度も頷いた。
「合点がいった。あの御方の『鉄の基礎』を、君は完全に自分のものにしているのだな……」
ユルゲンから褒められ、リディアは緩みそうになる口もとに力を入れながら、白樫の杖を握り直した。
(ふふ。マグダレーナ先生に、美しい丸を何万個も描かされた賜物ですわね……)
魔法式の基礎は、美しい円から。
そう何度も言われながら、紙にも空中にも、ひたすら丸を描かされた日々を思い出し、リディアは胸の中でそっと感謝した。
放課後の教室。
リディアが今日の演習課題のレポートをまとめようとしていると、カレンがそわそわとした様子で席へやってきた。
「リディア様、もしよろしければ……この後の課題、ご一緒にいかがかしら? 私、今日の術式構成について、もう少し詳しく伺いたくて」
「ええ、喜んで。トビアス様がいらっしゃれば心強かったのだけれど、今日は家の用事で早退されましたものね」
リディアの言葉に、カレンは「そうですわね、残念ですわ」と言いながら、どこか安堵したような笑みを浮かべた。
「それなら、我が家へいらっしゃいませんか? 図書室に参考になる文献もたくさんありますわ」
「えっ、エルヴィン公爵家へ!? ……あ、あの、それは……その……」
誘った瞬間、カレンが目に見えて狼狽し始めた。
ハンカチを握りしめ、頬を林檎のように赤く染めている。
「カレン様? 体調でも優れないのですか?」
「い、いえ! 滅相もありませんわ! ただ、その……あ、アレクシス様は、今日はお帰りになっていらっしゃるのかしら、なんて……」
「お兄様? 今日は外交院の仕事に行っているはずですから、夜まで戻られないと思いますわよ」
「……そうですのね。お仕事、ですものね。……ええ、それならぜひ! お邪魔させていただきますわ!」
先ほどまでの動揺が嘘のように、カレンはぱっと表情を明るくした。
リディアは不思議に思いながらも、彼女を連れて馬車へと向かった。
その時だった。
ひゅん、と小さな影が二人の方へ飛んでくる。
「……っ!」
リディアが気づいて視線を向けた時には、カレンがすでに一歩前へ出ていた。
軽やかな身のこなしで飛来したそれを蹴り上げ、勢いを殺して地面へ落とす。
(カレン様、なんてかっこいいの……!)
「すみません! 魔道具が暴走してしまいまして!」
上級生と見られる生徒が、慌てて駆け寄ってきた。
「ぶつかりそうになったので、つい蹴り飛ばしてしまいました。もしかしたら壊してしまったかもしれません」
「本当に申し訳ありません。お二人にぶつからなくてよかったです。試作品なので、壊れても大丈夫ですから」
その生徒は魔道具を拾い上げ、何度も頭を下げて戻っていった。
「カレン様、さすがですわ。おかげでぶつからずにすみました」
リディアが尊敬の眼差しでカレンを見る。
「反射的に足が出るなんて、品がなくてお恥ずかしいですわ」
カレンは頬を少し染め、制服の裾をそっと払った。
(素敵……この反射神経は憧れるわ)
カレンの横顔を見ながら、リディアはほうっとため息をついた。
エルヴィン公爵邸に到着し、二人が談話室へ向かおうとした、その時だった。
「おや、リディア。お帰り」
廊下の先から、柔らかな声が響いた。
そこに立っていたのは、資料の束を抱えたアレクシスだった。彼は穏やかな微笑を浮かべて、こちらへ歩いてくる。
「お兄様、お仕事は夜までではなかったのですか?」
「ああ、思ったより早く用が済んだんだ。……おや、お客様かな」
アレクシスの視線が、カレンに留まる。
「カレン嬢、お久しぶり。学園でも妹がお世話になっているようだね。今日も一段と素敵だ」
アレクシスがさらりと、彼にとっては社交辞令に近い、けれど真心のこもった挨拶を投げかけた瞬間。
隣にいたカレンが、みるみる顔を真っ赤にし、その場で石のように硬直した。
「あ……あの、お、お久しぶりでございます、アレクシス様……!」
普段の彼女からは想像もつかない、消え入りそうな声だった。
いつもはリディアをエスコートするほど凛々しい彼女が、今は自分の指先をぎゅっと握り、視線をあちこちに泳がせている。
「カレン嬢? 顔が赤いようだが、熱でもあるのかな」
アレクシスが心配そうに一歩近づき、彼女の顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫ですわ! 失礼いたしますっ!」
次の瞬間、カレンは逃げるように談話室へと駆け込んでいった。
残されたリディアとアレクシスは、呆然とその背中を見送る。
「……お兄様、何かカレン様に失礼なことをおっしゃいました?」
「いや……挨拶をしただけなんだが。嫌われてしまったかな」
困ったように眉を下げる兄を見て、リディアは先ほどからのカレンの不自然な言動を頭の中で繋ぎ合わせた。
(お兄様がいるかどうかを気にして、いないと分かったら安心して……でも、実際に会ったらあんなに赤くなって……)
――あ。
「…………お兄様。カレン様は、お兄様のことがお嫌いなわけではないと思いますわ。……おそらく、その、真逆ですわね」
リディアは確信した。
前世では自分のことばかりで、周囲の恋模様などこれっぽっちも気づかなかった。
けれど今のリディアには、親友が抱える瑞々しい恋心が、手に取るように分かってしまった。
「そうか? それなら良いんだが。お茶の手配をしてくるよ」
まったく気づいていない様子の鈍感な兄の背中を見送りながら、リディアは談話室の方を見て、くすりと微笑んだ。
(強気なカレン様が、お兄様の前ではあんなに可愛らしくなるなんて。……ふふ、これは課題どころではなくなりそうですわね)
その後、アレクシスも交えて術式構成の補足をしたものの、カレンがどこまで聞いていたのかは、少し怪しいところだった。




