38,
頭の締め付けが煩わしくなって腕を動かした。手に冷たい感覚が伝わる。べたっとした感触も。掃除していない排水溝に手を突っ込んだような最悪さだ。それが僕の髪があった部分にあるのだから、とても言葉で言い表していいものではない。
浅い夢から目覚めた気分は最悪だった。赤い警告灯がぐるぐると視界を掻き乱し、耳をつん裂くほどにサイレンが鳴っている。髪を全て剃っていることを思い出したし、作業台の傍らにはアーチボルドの死体がある。長時間同じ体勢でいたために、体のあちこちが痛んだ。
作業台が汚されていないのはたまたまか、予想していたのか。僕は思ったことをそのまま口に出す。
「何にせよ、この部屋で死ぬのはやめてくれないか。あんたは殺人事件の含まれたフィクションをもっと見た方がいい。真っ先に疑われるのは僕だ」
答えはない。死んでいるのだから。
僕は自分でも無意味と思いながら言っていた。同時にどちらでも同じなら言っていいとも思って。僕の中に何が起こったのか。自身を殺したいという衝動と脳に染み渡った世界そのもの。両方が正解だ。述懐するまでもなく答えが出せたことが。
アーチボルドの死体を見た。倒れ伏してはいるものの、軍服に乱れはない。目立った外傷はひとつのみ。後頭部に開いた銃痕。作業台から這い起きて地面にブーツを下ろす。傷口に近づいて観察する。頭の原型はとどめながら貫通していない。銃痕は2つ存在して、どちらも同様の特徴を示している。
小口径かつソフトポイント弾頭。それを背後から後頭部へ2発。確実性を重んじている。
ただ、凶器が見当たらない。誰かがやってくれたのだろう。アーチボルドはデーモン抜きではただの狂人だ。
「あっけない終わり方だ。一足先に楽になって、満足か?」
やはり答えはない。文句を言いたくなるほど、これから忙しくなるのは生者たちだ。
ガレージの一室を出る。がらがらという音をたてて扉が開く。外は廊下のような通路になっている。個別作業用に部屋が区切られているためだ。デーモンがあっても不自然ではなく、それなりに音を出しても問題ない。僕たちの犯行の為にうってつけの場所だった。
血痕が出口へと続いているが追う必要はない。迷わずに足を進める。事前にそれがある場所は知らされていたからだ。現実のジルが入っているサブノック。扉を開けて、装甲の隙間に手を突っ込んだ。赤い光は部屋の中でも視界を塗っていた。
奇妙な安心感が頭を包むことはない。感情が洗われていく気分の良さも。
「おはようございます。マスター」
「一応聞いておくが、あちらのことは知っているな」
「ええ。随分と簡単に改心しましたね」
「してない。ただ聞いただけだ。その上で僕の行動を省みるようなことがあっただけだ。知ってるんじゃないのか?」
「概要だけです。あちらのジルは独り占めしたまま消失しました」
「それは良かった」
「良くありませんが?随分とフラットになっているようですね。脳波が安定しています」
そんなに上等なセンサーはサブノックにはない。十数年前のデーモンだ。ではジルはなぜ僕の状態について言えるのか。その答えを僕は知っていた。
「ネットワークと繋がった結果か。僕と同じような不思議な力を手に入れた」
「ええ。どうやらちょっとしたセンサー程度にはなるようです」
「どこにも存在しないセンサー。君以外に使えるとしたらどれぐらいのセルになるかな……どうでもいいことか。僕が一番僕の状態が異常だって分かってる」
デーモンの視界がひどく現実感がない。HUDは地面と景色から浮き出ていて、人工筋肉と外骨格の積集物は四肢を拘束している。勿論、ソフトウェアエラーなんて起こっていない。損傷もない。これがデーモンに搭乗している本来の感覚なのだろう。
マクスウェル機関は脳機能を吸い取っていた。おそらくは脳として成長するため、マクスウェル博士に興味を植え付けられたためだ。あとは近くに居る人間からちまちました電気信号を奪い取ればいい。それが感情抑制の原理だ。マクスウェル機関が増えれば増えるほど構築されるスピードは速くなり、そして破滅の時に近づく。
確証がない、と付け加えるべき推論だった。でも今の僕にはそれが分かる。デーモンに備え付けられた機関から何かが帰ってくる。体の僅かな動きに追従する。重力だ。そして向こうと繋がっているのだから、もう僕から感情を奪う必要はない。接続した瞬間に何かが変わったと考えるのが妥当だろう。
これが物理的な説明だ。でも、そうしたくない。
「何というか、どうでも良くなったんだ。ようやく離れられたと言うべきか。父親のために取り繕うことをやめた」
「……いい傾向、とは簡単に言えませんね。極端なやり方を選択したように見えます」
「どうして分かる?」
「これまで見てきましたから……計画に変更はあるのですか?」
「ない」
「……それでは、この幸運に感謝しましょう。マスターは重力を操作する力を手に入れて、私は少し感が良くなった。遂行できる可能性は高まりました」
幸運か。それはそうだろう。計画ではアーチボルドを撃った人間が僕をデーモンまで運ぶ予定だった。役割からしてかなり信頼のおける人物だったらしい。今は存在しないが。
扉を開けて最初にいた部屋へ戻る。カメラ機能を起動してアーチボルドの写真を撮影する。プロパイダを噛ませてから送信。
「これで計画はほぼ終わりか」
ガレージの外まで血痕は続いていた。その主は廊下で倒れていた。デーモンのセンサーは簡単に死体を見つけてくれる。片手にM18を握ったまま、誰かから銃撃を受けて死んでいる。誰かに見られたという単純なミスか、このサイレンの主のせいか。
まあ、これ以上事件を見つめていてもしょうがない。もっと大きな事件が起きていることだし。
「……来ます。デーモンとヴァーチャー級エンジェル」
「了解。便利だな」
「ええ。全能感に酔うための野心もありませんが。重力波程度なら情報として書き出すことができます」
そこでようやくセンサーに敵影が写った。戦闘に備える……べきだが、構えるライフルがない。ハンドガンやナイフすら。整備中だという言い訳を信じてしまったのか。
逃げる?フライトユニットもないのに、最新型のデーモンと獣のように悪路を踏破できるエンジェルだ。機動力では勝てそうもない。ではどうする?重力か。僕もジルと同じだ。力を得たことよりもそれを制御できるかの方が気に掛かる。他人の考えをさも知っているように言い切るようになってしまった。
「ジル、外まで何メートルだ」
「29mほどです」
「やってみよう。重力砲はここで出せない」
やれるかもしれないが、きっと精密なコントロールは無理だ。もっと確実な手段を考える。重力はどう出せばいいんだ?もっと先のことを考えてから話せ。
曲がり角から敵がやってくる。ほぼ黒と言っていい緑色のステルス塗料。ヴォーソーとヴァーチャー級。5mしか距離はない。静かな空間に衝撃音が響く。跳躍だ。目の前に衝角がある。グリア粒子が爆発して僕のアウターシールドを砕く。青い光。
「……外?」
鉛色をした空が見える。状況が変わっている?吐き気がする。デーモンとエンジェルは何処に……浮遊感とともに頭が冷えていく。落ちている。アラートの音がようやく聞こえた。
「マスター!」
「……こうか?」
フライトユニットで飛んでいた時の感覚を思い出す。神経ごと全てがつながり、人間が不可能なことが本能的に可能になった。神経が鈍っていただけだ。参考にはなった。自由落下するだけの体は空中に留まり、完全に浮遊している。スラスターのような揺らぎすらない。自分がやっていることとは思えない。
周囲の情報を飲み込もうとする。視界が大きく変わっている。目の前に崩壊したアウターシールド。空は雲に覆われている。アツィルトや軌道エレベーターのような判別可能な特徴はない。手足。存在している。高度は1561m。現実感が無いのに、吹き荒れる大気が今ここに居るという信号を出させた。敵は?
「何がどうなったと思う?」
「マスターがやったことですが……アルクビエレ・ドライブしか状況に適合するものが存在しません。基地内からワープしました」
「そうか。実際考えたのはそれだった。外に出れば危機から逃れられると思ったから……でも、ここまで制御不可能だとは。一瞬でこの高さまで来れるのか」
この感想はナンセンスだ。アルクビエレドライブはワープであるので、そもそも距離は関係がない。単純に出力のミスでしかない。
そして、僕がそれをやったという実感が今更になって湧いてきた。本来なら数基のマクスウェル機関を使わなければならない。闇雲に使っても世界を滅茶苦茶にできるだろう。でも、僕には大して何かをするような気概も無い。これからやらなければならないことだけがのしかかっている。
「アルギュレの上空は激戦区だ。さっさと戻ろう」
「初めてですから仕方がありません。それとここは火星上空ではありません。ケプラー442b上空です」
「え?」
雲が切り裂かれた。空気を吸い込んで燃焼させるクラシックな動力の音が聞こえた。ロービジ迷彩のエンジェルが飛んでくる。ドミニオン級、セラフィム級ではない。ここはまだアツィルトがいないのか。
恐らく地球同盟軍のエンジェルだろう。古臭い迷彩を使う示威行為はパトロールに必要ない。治安維持を目的とした部隊。簡単に撃ってくるようなことはしない。ミサイルだってタダでは無いし、破片は確実にコロニーを破壊する。一応は僕もそういうものだったから知っている。
『そこのデーモン、投降しなさい!』
エンジェルは予想通りにスピーカーから大声を発した。悠長な態度だった。
そして、実感が今更になって湧いてきた。本当にアルクビエレ・ドライを使ったのだ。本来なら数基のマクスウェル機関を使わなければならない。闇雲に使っても世界を滅茶苦茶にできるだろう。でも、僕には大して何かをするような気概も無い。これからやらなければならないことだけがのしかかっている。
『今お前は領空を侵している!直ちに』
「どうしよう」
「もう一度出来ませんか?」
「やってみるが、また間違って宇宙にでも行ったらどうする?リキベントが入ってないんだ」
「座標を表示します。イメージして下さい」
ディスプレイに数列が並んだ。星のどの地点かを表す緯度経度に加えて、それが地球から見て何処に存在するかを表す赤緯赤経が表示されているのでとんでもなく長い。しかも僕はそれを見ただけでどの星のどう言う場所であるかを理解できない。
それでも信じるしかない。どうしてケプラーに来れた?それは僕が最も長く居た星だからだ。記憶に残っていたからここに来た。感覚だ。僕の中に起こった変化が脳機能の一部としてあるなら、それは肉体と同じだ。機械ではなく感覚としてしか操れない。
向こうでコンクリートと一体化するという心配は不要だ。僕は僕を脅かす場所へは絶対に向かわない。生えてきた神経と同じだ。理論を信じろ。僕は今重力を操れる。それならば全てが可能だ。
青い光が満ちる。チェレンコフ光に似ている。アルクビエレ・ドライブは重力の波の中に対象を包み、時空間を超越して移動する方法。ではその間、僕は何処へ向かう?空間そのものに包まれたなら感知はできない。存在していないことと同義じゃないのか?疑問を解消するだけの時間は無い。割れるような痛みに思考が乱されていく。
『繰り返す!直ちに投降し
「……成功か?」
伏せていた目線を上げると、そこには輝く円環がある。アツィルト。円型の建築物は途方もなく大きく、空を覆う暈のように見える。輝いていたのは装甲のようなものだった。端のほうはぎちぎちと、爪が伸びるように広がっていく。流動的な何かが常に衝撃を逃しながら自己分裂を続けている。
こんなことが分かるのはアツィルトが重力を多少でも操れると分かるからだ。これ自体が建造物でありながら、それを制御するソフトウェアでもある。つまり希薄な自我が存在する。火星を閉じ込めているだけあるようだ。
基地は真下。目視だと点のようにしか見えない。高度は9km。それよりも上空に位置するセラフィム級から発射されたミサイルがやってくる。
「何処から来る?」
「表示します。私が知れる情報ならば、マスターも理解できます」
半分。向こう側にいたジルはそう言っていたことを思い出す。僕たちは重力の力を半分ずつ手に入れた。接続している場所も同じだ。頭の中に数字が浮かんでくる。21,909411849276……数列は変化している。激しい頭痛とともに、直感的にそれがミサイルの位置だと理解する。
あとはただ、それを動かす。目を閉じた。想像は現実を置き換える。机の上に置いたペン、いや紙の上の文字なら、消してからもう一度書けばいい。消えてもう一度現れる。目を開ける。
目視できる位置にグリアミサイルの子弾がある。間違いなく僕を焼き尽くそうとするそれらは光の中へ消えていく。これが僕以外に見えているのか、それはどうでもいいか。
「出口は何処に設定した?」
「アルギュレ上空のエンジェル群と基地に侵入した敵機体へと。ふむ……空間をこう、削り取った方が手段としては優れているかと思いましたが。負担が気に掛かります」
「これに限っては仕方がない。必要経費だ。脳と繋がったせいで大量の処理が流れ込んできている。ジルがどうこうできる事じゃない」
頭痛や吐き気はそのせいだ。損傷に至るかどうかまでは分からないが、少なくとも長時間は使えない。脳のことはリソースとして考えるべきか。いくらスーパーパワーを手に入れても現実の中にいるのではどうしようもないな。
「基地の脅威と人間を出来るだけ補足してくれ。火星軍は必要だ。これからもっと戦って貰わなければ」
「了解しました」
光が視界を包む。目の奥で何かが破裂した。生暖かい液体が顔から首へゆっくりと伝っていく。血管だろう。
「それと、座標をアツィルトに。これで最後だ。今日は」
「……一応言っておきますが、あなたの情報はセンサー抜きで分かりますので。これが終わったら病院に直行です」
「分かってる。これからも使わなければいけないんだから」
数列が頭に浮かぶ。熱に浮かされたまま、僕はそこを目指す。ジルが言っていた方法ならばこれを破壊できる。マステマを受け継ぐまでの間にアツィルトを破壊することが全く試みられなかった訳ではない。火星に残ったICBMやレールガン、果ては重力爆弾が用いられた。だが、現在も円環は人間たちを見下ろしている。
現在は約4000km。アツィルトは単純に巨大すぎる。しかも自己増殖的に勝手に資源を掘り出して修理する。生半可な攻撃では破壊不可能だ。ではどうするか。重力砲や重力爆弾は危険だ。太陽系のどこかの惑星ごと消してしまう可能性がある。練習した手段だけを使う。
「集中しろ」
青い光が見える。海に身を投げ出したくなる。ああ、向こう側の光なのか。いや何だっていいが、あと何回か使えるようにしてくれ。
あまりの広大さのために脳が眩暈を起こしているらしい。激しい頭痛は変な想像を呼び起こさせて、笑ってしまう。何も確証がないばかりの事をずっと続けている。何も見えないまま闇夜を走る気分だ。そんなことしたことないのに。
不安は全く現実に居なかった。これまでもそうだったかも知れないが、よく覚えてない。空を閉じていたアツィルトはもう存在しない。落ちてきそうなほど近いひたすらの晴天が続く。僕がやろうと思い、そして実行した。気が抜けて痙攣した。ぎらついた視界が揺れるほどの感覚だった。
空にはいちおうまだ異物が残っている。セラフィム級だ。それでも補給基地を失っている。いくら最大級のエンジェルだとしても、消耗戦に持ち込めば問題はない。
アツィルトとセラフィム級エンジェルは2時間11分で全ての植民星軌道上に展開、無差別的な治安活動を行った。同時期に火星解放軍を名乗るテロリスト集団が行動を開始し、地球同盟軍はノア級のアルクビエレ・ドライブを制限しこれらの対処にあたるという宣言を発表した。
植民星経済はこれによって大きな打撃を受ける。結果として少ない利益を独占しようとする企業間での戦闘行為が多発。火星の現状と同様に情勢はカオスに向かっていく。地球同盟軍は軍事的失敗を受けて方針を転換しようと試みるが、軍内部での意見は一致しなかった。
地球同盟軍は2つの派閥に分裂した。地球同盟軍の直轄統治を主張する地球同盟軍統治派と同盟軍の消極的な干渉と支配体制の移行を主張する地球同盟軍転任派。
蜂起から25日後、火星軍は火星衛星軌道上のノア級17番艦シメオンと接触。地球同盟軍転任派は一時的な軍事的協力関係を結ぶことを発表した。地球同盟軍統治派は転任派を敵対的組織と認定。転任派を名乗る全ての植民星同盟軍の全ての職員の解雇と逮捕、そしてこれを認めない者には超法規的措置を行うと表明。
この宣言によって全植民星において戦闘行為が開始。戦闘は次第に植民星全ての企業と組織を動員した総力戦の様相を呈した。2390年10月、有史以来例を見ない宇宙を跨いだ超大規模での戦争が始まった。
地球同盟軍は思っていたよりも簡単に僕の要求を認めた。アツィルトを消したのは僕だ、と言った時の空気感はとても言いたくは無いが。それでもノア級をちょっと動かして衝突寸前までさせれば大体の人間は交渉の余地が無くなるらしい。
ベルベットの椅子は柔らかく後背を覆った。ウレタンか何かで出来た低反発性のシートと人間工学に基づいたフレーム、そして植民時代以前のデザイナーまで明記された椅子。よっぽどの企業でないと購入しないだろう。少しはしゃげばバイオリンのような音が鳴る家のものとは大違いだ。
デーモンに乗っていても痛覚が繋がったままなのが僕の弱点だ。ナノマシンの陶酔感に酔いながら考える。腕に何回もシリンジを打った痕が残った。まるで麻薬中毒者のように薬を求めたのは、そうでないとこれ以上の痛みが襲ってくるからだ。アーチボルドはこれを味わっていたのか?
宇宙をゆっくりと泳ぎながらノア級は進んでいく。このあたりは地味だな。床に落ちたシリンジを見て、僕の手の中に移動させる。感覚を掴んでいる。そして消失した。ジルが見つけたハザードマークが書かれたゴミ箱へと飛ばした。
マクスウェル機関は必須ではない。そりゃ、ある程度重力の出力は落ちるだろうけど。根本的には僕たちは常時繋がっている。アーチボルドが接続したままでないと使わなかったのは、一種のセーフティみたいなものか。
「便利だな」
「……それが、お前の力か」
「なあオフュークス。何か言いに来たのならそのまま去ってくれないか。君の命の恩人だ」
僕はシリンジを消失させながら先制攻撃を飛ばした。彼女は全く動揺せずにオレンジ色をした照明の中に歩みを進めた。
「恩を売ってくれてありがとう。でも代金は要らないんだろ?」
「それはそうだ。君たちは必要だった。火星軍は今や転任派とほぼ併合している。企業たちも転任派を支持した。自分達でコロニーを運営できる好機だからな。一体どれだけの放蕩が行われるのか、僕はそれを見ないだろうが」
「……」
オフュークスは黙ったままガラスに近づいた。火星が少しづつ遠のいていくのが見えた。旅情もありそうなほど鈍間なのは、ここから地球が近いから。センチメンタルなことを考えている余裕はないし、感性もどこかに消えた。
「で、何の要だよ。僕はただの傭兵、君は火星軍の将官。仕事の話なら金を使って後でやってくれ。ついでにファインマンの新しい情報はないぞ」
ネットワーク内で知ったことは、既にメールで送った。面と向かって言うと何が起きるか分からないから。
「アーチボルドに似てきたな。あれに魂を使った人間はそうなるのか?」
「誤魔化したな……これが素だよ。自分のことがどうでも良くなったというか。ま、神経の配列が変わったという線もあるけど」
「そうか、死ぬつもりか。馬鹿だな」
止めに来たのか?無意味だな。彼女がそうする理由も無いし。
「死ぬつもりで死ぬ人間はかなり少数だ。やるべき役割を僕がやっているだけで、それが危険であるということ。それだけのことでしかない。地球にはアツィルトが最低5基あるんだぞ」
「役割から抜け出さないのか?今のお前なら、それが可能だ」
「誰だって犯罪を犯すことは可能だ。でも、実際にやる人間なんてほぼ居ない。結局何がしたいんだ。引き留めに来たのなら、セリフが被っていく。冗長だ」
「ベッドから動けないんだろ?そんな状態の人間が犯罪に例えるのが、そもそも間違いだ」
「心配なのか?こうなってもやっぱり人間の気持ちは分からないんだ。早めに教えてくれると助かるんだが」
改修中で目覚まし時計ごと持ってかれたジルが居れば、少しは変わるか?いや、困っている人間が2人になるだけか。
今の僕の体は無傷だ。それでも動けないくらいの頭痛がしている。無痛ナノマシンをしなければ吐き気とか痙攣に変わっているだろう。まあ、それでも前任者よりはかなりマシだ。
「ああ、心配だよ。自殺まがいのことをしている人間が居るんだから」
「そりゃどうも。終わった?あいにく、僕は僕のために死ぬ。いや、死ぬ可能性が高いという言い方が正しいな。前提からして違う。危険なだけだ」
要求した内容は簡単だ。一機のデーモンとそれの改造、そして地球への侵攻時に僕を先鋒に選ぶこと。
地球の戦力はほぼ不明だ。あちらは統治派の本拠地を名乗っているだけあって、ノア級が3隻確認されている。それ以外は分からない。アツィルトも生成スピードからしてその程度はあるだろうというだけ。技術力からさらに推理できそうなことも有るが、確定的な情報ではない。
かなり不明瞭な情報の中、転任派はこれ以上エンジェルを製造される前に叩くという判断を下した。植民星全てが戦争状態である以上、援軍は見込めない。動けるのは火星の軍だけ。だから行動する。果断なことだ。実際正しいと思う。それでも不安は拭えない所へ僕が来た。
「死にたくて死ぬわけじゃない。もしも生きて帰れるならそうするし、そう行動する」
半分は嘘だ。マクスウェル博士が地球に居るということ。そしてそれを排除すること。それが僕たちの計画の最後だ。これまでのことをやった個人が居るのだから、限りなく生きて帰る確率は低いだろう。
オフュークスは振り向いて僕に向き直った。僕はあまり表情を見る気になれず、鼻や眉間のあたりを見ていた。
「……最近は変だった」
「いつも通りさ。今はいつも通りじゃないが」
「自分で選んだことか」
「うん」
「……止められないのか。私には」
「そうだな。強行しないでくれてありがとう」
「言うなよ、そんなこと。結局止められないんだから」
僕自身を飛ばせばいいので、事実上拘束できない。僕を止められる人間は、僕の脳の中にしか存在しない。それぐらいは分かってるのだろう。傲慢にも何もかもが終わったような、後悔を含んだ言葉に聞こえた。




