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第5話 泥のついた手のひらと、空っぽの器

 朝の冷気を含んだ薄靄が、墓石の列を静かに包み込んでいた。

 板敷きの片隅に敷かれた薄い藁布団の上で目を覚ましたケイは、固まっていた身体をゆっくりと起こし、深く息を吸い込んだ。

 土壁の隙間から差し込む淡い陽光のなかに、昨夜のかまどの残り香と湿った薪の匂いが淡く漂っている。


 すでに起きていたローランドが古びた鉄鍋に昨晩の残りのスープを注ぎ、温め直しているところだった。

 手入れの行き届いた無骨な横顔に向かって、ケイは背筋を正し、深く頭を下げた。


「ローランドさん、おはようございます。昨夜は行き倒れの私を泊めてくださり、温かい食事までご馳走になりまして、本当にありがとうございました。身元も定かでない不審者を受け入れていただいたご恩は、決して忘れません」


 形式的な謝罪ではなく心の底からの感謝を込めて紡いだ言葉に、元騎士は鍋をかき混ぜる手を止め、呆れたように片眉を跳ね上げた。


「朝っぱらから堅苦しい頭を下げられると肩が凝って仕方がない。礼なんぞ腹の足しにもならんから顔を上げな。……それよりお前さん、自分が今どこに転がり込んでるのか、少しは理解できているのか?」


 手渡された素焼きの器から白湯を啜りながら、ケイは正直に首を横に振った。

 スマホとパソコンのモニタに囲まれた世界から、突如としてこの墓場へ放り出された彼にとって、周囲の地理も社会の成り立ちも、霧の向こうにあるのと同じ状態だった。

 木べらで鍋底を叩きながらローランドは、立ち昇る白い湯気の向こうから冷めたような眼差しをこちらへ向けていた。


「あのお嬢さんと並んで世間知らずか。まあいい、教えてやるよ。ここは王都の城壁の外、平民どもが土に還るための共同墓地だ。教会が丁重に囲い込んでいる立派な聖域とは違って、身分のない職人や日雇い、あるいは街道で行き倒れた名もなき連中が最後に流れ着く掃き溜めさ」


 柄杓で注ぎ分けられた薄い野菜の煮込みをケイの前の板敷きへ差し出しながら、元騎士は己の無骨な掌を広げてみせた。

 爪の間に深く入り込んだ黒い土の汚れは、どれほど水で洗い流しても落ち切らない頑固な染みとなって刻み込まれている。


「街の中で暮らす小綺麗な連中にとって、墓守ってのは『生きた人間』の枠に入っちゃいねえのさ。死人の腐敗や疫病を運び込む不浄の存在として忌み嫌われ、同じ酒場の長椅子に腰掛けることすら嫌がられる。肉屋の皮剥ぎや首切り役人と同じで、誰かがやらなきゃ回らんくせに、誰もが目を背けて触れたがらない最底辺の汚れ仕事だ」


 淡々とした調子で吐き捨てられた言葉には、世間への激しい怒りというよりも、とうの昔に現実を受け入れきった者特有の冷え切った諦念が漂っていた。

 墓守という役割が背負わされている歴史的な重みと偏見の実態を突きつけられ、ケイは手にした素焼きの器を見つめたまま、喉の奥をぎゅっと強張らせた。


「……そんな忌み嫌われる場所に、私のような素性の知れない者を置いてくださっているのですね」

「感謝するような話じゃない。王都の衛兵に見つかってみろ、身分証も持たない無一文の行き倒れなんぞ、間者か泥棒の疑いをかけられて即座に地下牢か強制労働送りだ。だがここは、生きている連中が最も寄り付きたくない墓場だからな。役人もわざわざ死臭の漂う土くれの山まで踏み込んじゃこねえ。お前さんが息を潜めて生き延びるには、この世で一番都合がいい場所ってだけのことだ」


 なぜ騎士が、誇りを捨ててこのような人目を避ける場所に身を沈めているのか。ケイはその乾いた背中に漂う孤独の深さに、静かに胸を衝かれていた。

 器に残っていたスープを飲み干したケイは、板敷きの上に両膝を揃え、今度はさらに深く、床板に額が触れるほど頭を下げた。


「置かれている境遇がどれほど危険なものか、よく分かりました。私を役人に突き出さず、命を繋いでくださったことに、改めて御礼を申し上げます。……どうか私に墓場の仕事を一から教えていただけないでしょうか。土を掘ることでも、石を運ぶことでも構いません。ここで暮らすための恩を少しでも返したいのです」


 居候としての甘えを捨て、自らの手で労働の対価を支払いたいという真っ直ぐな申し出に、ローランドは木べらを置くと、珍しく毒気のないため息を小さく漏らした。


「殊勝な心がけだが、元騎士の道楽に付き合わされる羽目になるぞ。ま、飯を食わせる以上は骨の髄までこき使ってやる。まずは西側の崩れかけた盛り土の修繕からだ、シャベルを持ってついてきな」


 差し出された重みのあるシャベルを握りしめ、ケイは朝露の残る墓地へと踏み出した。

 転移前の空調の効いた室内で受話器を握り、パソコンの画面と向き合い続けてきた身体にとって、冷え切った湿土をすくい上げる動作は想像を絶する負荷となって襲いかかってきた。

 数回土を跳ね上げただけで呼吸は乱れ、擦れ慣れていない手のひらの皮膚が赤く腫れ上がり、腰の奥に鈍い軋みが走る。

 それでも目の前の盛り土を一つ修復するたびに、死者を野犬や雨風から守るための確かな輪郭が形作られていく実感が、摩耗しきっていたケイの精神に不思議な充実感を与えていた。


 正午を過ぎた頃、雑木林の木陰で冷たい白湯を分け合いながら、ケイはポケットの奥にある手帳の硬い角にそっと指先を触れさせた。

 昨夜、王都の令嬢であるルナを裏門まで見送った記憶と、彼女が残していった小さな鈴の絵が、土埃にまみれた思考の隅で鮮明に蘇ってくる。


「……ローランドさん。少し、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「なんだ、もう腕が上がらなくなったか?根を上げるのが早いぞ」

「いえ、そうではなくて……昨夜のお嬢さんの話のことです。私は以前、誰かの不満や悩みを淡々と聞き届ける仕事をしていました。ですが、他人の迷いや弱音を紙に書き留め、それを自分の生きる糧にするというのは……どこか他人の痛みを都合よく消費しているようで、強い後ろ暗さを覚えてしまうのです」


 ぽつりと零れ落ちた本音に、ローランドは手入れ用の布を動かしていた手を止め、腕を組んだ。


「ましてや私自身、自分の希望を聞かれても『なんでもいい』としか答えられないような中身の空っぽな人間です。自分の足元すら定まっていない者が他人の人生や覚悟に言葉を挟むなど、思い上がりも甚だしいのではないかと……そう思えてならないのです」


 かつて電話口で無数の感情を機械的に要約し、その場の帳尻を合わせることだけに長けていった結果、自分自身の欲求を削ぎ落としてしまった男の告白だった。

 空っぽの器であることの引け目と、他人の人生に介入することへの恐れを静かに吐き出したケイに対し、元騎士は鼻を鳴らし、乾いた笑いを零した。


「思い上がり、ね。お前さんが偉そうに人生の指南役でも気取って、説教垂れて金を巻き上げるつもりなら、俺が真っ先にその紙束ごと墓穴へ蹴り落としてやるよ。だが、昨夜お前さんがやってたのは、そんな大層なもんじゃなかったはずだ」


 ローランドは立ち上がり、足元の乾いた土を靴底で軽く均してみせた。


「あのお嬢さんはな、屋敷の重圧に押し潰されそうになって、誰にも言えない弱音をどこかへ捨てたがっていたんだ。お前さんはただ、そのゴミを散らかさないように受け止めて、足元にある石ころを拾ってやっただけに過ぎん。空っぽの器だからこそ、相手の吐き出した泥水を濁らせずにそのまま受け止められたんだろうが」


 突き放すようでいて物事の本質を冷徹に見透かした言葉が、ケイの胸の奥底に溜まっていた重たい迷いを静かに解きほぐしていく。


「他人の痛みを消費してるだの、資格がないだの、そんな小難しい理屈は腹を満たせるようになってから捏ねるもんだ。生業にするかどうかなんて先の話だろ。今のところお前さんは、俺の飯を食うために墓参り客の愚痴を聞かされてるだけのただの居候だ。分かったらさっさとシャベルを持て、日が暮れるまでに南側の草むしりも終わらせるぞ」


 手厳しくも温かい指図を背中に受けながら、ケイは泥に汚れた作業着の袖で額の汗を拭い、再びしっかりと立ち上がった。

 手のひらの豆は痛み、身体の節々は悲鳴を上げていたが、その疲労感は以前の職場で味わっていた底知れない虚無とはまったく異なる、生きている実感に満ちた確かな手応えだった。


 夕暮れの茜色が墓地を染め上げる頃には、荒れ果てていた一角の盛り土が綺麗に整えられ、冷たい夜風が静かに通り抜けていった。

 自分自身の白紙をどう埋めるべきかは、いまだ霧の向こうにある。

 それでも、この土の匂いと死者の静寂に包まれた場所でなら、いつか自分自身の言葉を見つけられるかもしれないという予感を抱きながら、ケイは重い足取りで小屋の灯りを目指して歩き出した。

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