第4話 夜道のランタンと、小さな約束
月明かりすら届かぬ鬱蒼とした並木道を、ランタンが落とす心もとない橙色の輪が、三人の足元を辛うじて照らし出していた。
昼間は穏やかな静寂を保っていた街道の木々は、夜風をざわざわと不穏な音を立て、遠くで響く野獣の遠吠えが冷えた大気を鋭く切り裂いている。
ローランドを先頭に、周囲への警戒を怠らず一定の間隔を保ちながら進むなかで、ルナは肩をすくめ、ケイのすぐ隣で小さく足音を刻んでいた。
「……夜の街道というものは、思っておったよりもずっと暗くて、底冷えがするものじゃな」
吐く息を白い靄に変えながら、ルナは腰に下げた銀鈴が鳴らぬよう、そっと掌で包み込みながら囁いた。
昼間に語っていた「街道沿いの見張り台」や「賑やかな村祭り」という輝かしい幻想が、暗闇という圧倒的な現実の前に薄氷のように脆く崩れ去っていくのを、彼女自身が生々しく実感しているようだった。
「昼と夜とでは、同じ道であってもまったく別の顔を見せます。適切な装備と護衛を揃えなければ、ほんの距離ですら命取りになりかねません」
ケイは手にしたランタンを少し高く掲げ、ルナの足元にある木の根の隆起をそっと照らし出しながら応えた。
過酷な現実を突きつけるばかりでは、人は心を閉ざして投げやりになってしまう。
痛みを自覚させた上で、次の一歩を踏み出すための安全な足場を整えてやることこそが、以前の現場で幾度となく絶望した相談者を繋ぎ止めてきた彼の本領だった。
「先ほど屋敷にお戻りになるよう申し上げましたが、それはあなたの願いそのものを諦めろという意味ではありません」
「……本当にそう思っておるのか?わらわはただ家の敷居を跨ぐのが怖くて、子供のように逃げ出してきただけの臆病者なのじゃぞ?」
自嘲気味に俯くルナの横顔に、ランタンの淡い灯火が細かな陰影を落としていた。彼女が抱え込んでいるのは、単なる世間知らずの甘えではない。
自分という人格が家格や政略の都合で塗りつぶされ、愛する歌すら奪われていくことへの魂の奥底からの悲鳴なのだ。
「恐れるのは当然です。ですがルナさん、あなたはその縁談の相手がどのような人物で、いつ、どのような形で話が進んでいるのか、具体的な事情をご存知なのですか?」
「え……?いや、それは……父上たちの立ち話を小耳に挟んだだけで、詳しいことまでは……聞かされておらぬし、知りたくもなかったのじゃ!」
戸惑いながら視線を泳がせるルナの反応に、ケイは穏やかに頷きを返した。
「相手の素性も、要求されている条件も分からないままでは、戦うことも上手く躱すこともできません。輪郭の定まらない霧に向かって剣を振り回しているようなものです。まずは屋敷という最も情報が集まる安全圏に身を置き、敵の正体を冷静に見極めてください」
「敵の正体……?」
「あなたを縛り付けようとしているものの正体です。本当に歌を禁じられるのか、対話の余地はあるのか、あるいは別の道筋を交渉できるのか。事実を集めないことには、覚悟の決めようもありません」
感情の濁流に呑まれて視界を塞がれていたルナにとって、事実を一つずつ切り分けて整理していくケイの言葉は、暗闇の足元に敷かれた確かな石畳のように響いた。
丸い瞳を瞬かせながら、彼女は胸の前で握りしめた拳をゆっくりと解いていく。
「わらわは……ただ逃げることばかりを考えて、何も見ておらなかったのじゃな。見たくないものから目を背けて、都合のよい夢のなかに飛び込もうとしていただけじゃった」
「最初からすべてを正しく見極められる人間などいません。大切なのは、破滅的な選択をする前に立ち止まり、余裕を残して考え直すことです」
前方で歩調を緩めたローランドが、茂みの切れ目から顔を覗かせ、二人に向かって低く合図を送った。
木立の向こうには、松明の火に照らされた王都の巨大な外壁と、頑丈な鉄格子の落とされた裏門の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。
門番の詰所からは微かな談笑の声が漏れ聞こえ、まだ屋敷から大規模な捜索隊が放たれてはいない平穏な気配が保たれている。
「あそこの通用口なら、俺の顔馴染みの老兵が番をしている。適当な理由をつけて中へ滑り込ませてやるから、お嬢さんは何食わぬ顔で屋敷の裏庭へ戻りな」
ローランドの乾いた指図に、ルナは深く息を吸い込み、冷えた両頬を掌で軽く叩いて気合を入れた。
貴族令嬢としての凛とした佇まいを僅かに取り戻しながら、彼女はケイに向き直り、腰の銀鈴を涼やかに鳴らした。
「ケイ、お主の言う通りにするぞよ。屋敷に戻り、目と耳をしっかりと開いて、わらわを取り巻く現実というものを確かめてみるのじゃ。……それでな、もしまた息が詰まりそうになったら乳母の墓参りをして、あの小屋へ行ってもよいかの?」
すがるような色を含みながらも、自らの足で立とうとする微かな光を宿した瞳が、ケイを真っ直ぐに見つめていた。
他人の都合に合わせて擦り減るだけだったかつての人生では、決して出会うことのなかった種類の、誰かが自分という器を必要としてくれている確かな手応えが、ケイの胸の奥底を静かに満たしていく。
「いつでも歓迎しますよ。今日の続きを書き留めるための用意して、お待ちしています」
「ふふ、約束じゃぞ!次はもう少し鈴の絵を上手に描き足してやるからのう!」
悪戯っぽく笑ったルナは、ローランドの促しに従って音もなく闇に紛れ、裏門の詰所へと向かって軽やかに駆け出していった。
番兵と言葉を交わし、門扉の隙間へと滑り込んでいく小さな背中を見届けた後、ケイは夜風に吹かれながら手帳の感触を確かめた。
白紙の束の片隅に刻まれた、小さな鈴の絵 それはまだ何の解決ももたらしていない、ただの頼りない走り書きに過ぎない。
それでも、誰かの迷いを受け止め、歩き出すための余裕を残すことができたという静かな実感が、冷え切った夜道を行くケイの背中を微かな温もりとなって確かに支えていた。
私の癖の塊を投げつけているので、作品そのものは長くはならないと思いますが、よければブックマークをしていただいて見守ってくださると嬉しいです。




