最終話 白紙の束と、止まり木の看板
大聖堂前広場を揺るがした熱狂と祝祭の喧騒が遠くの城壁の内側で続く中、冬の陽光が降り注ぐ平民墓地の土間には、いつもの穏やかな静寂と生活の温もりが戻っていた。
かまどにくべられた太い薪が赤々と爆ぜる音を立て、鉄鍋から立ち昇る蕪と干し肉の素朴な煮込みの湯気が、薄暗い部屋の隅々を柔らかく満たしている。
卓の上には先代から受け継がれた縁の欠けた大椀の隣に、ケイの素朴な器、ルナの小ぶりの器、そしてソナの深みのある大振りの器が並べられ、四つの素焼きの器が心地よい調和を保って湯気を立ち昇らせていた。
長椅子に腰掛けたローランドの着古した上着の胸元には、国王陛下から直接授与された精巧な細工の「青獅子名誉騎士勲章」が鈍い銀色の輝きを放っていた。
国王軍総司令部からは外郭防衛総監という破格の要職を用意されていたが、元騎士隊長は名誉職の籍だけを留め置き、現場の指揮官への復帰をあっさりと辞退していた。
「城の偉い旦那方の会議室で上等な椅子に座って茶を啜るなんざ、俺の性分じゃねえよ。隣の穴で眠っている先代の親父も『墓守の仕事を放り出して何を着飾っているんだ』と呆れて笑うに決まっているからな」
無骨な顎髭を撫で回して豪快に笑うローランドは、自らの靴と厚手の靴下を脱ぎ、土間の藁の上へ足を伸ばしてまじまじと見つめた。
十年前の白峰で赤黒く引きつれ剥がれ落ちて歪んでいた足の爪が、広場でルナが解き放った光の木漏れ日を浴びたことで、まるで何事もなかったかのように綺麗に再生していた。
剣戟の嵐を潜り抜けてきた太ももや腕の無数の古傷は、男が生きて戦い抜いた誇りある証としてそのまま刻まれており、身体の芯を苛み続けていた凍傷の疼きだけが跡形もなく消え去っていた。
その傍らで小ぶりの器を両手で包み込み、大好物の煮込みを美味しそうに口へ運んでいたルナは、満足そうに吐息を漏らしながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ふふん、わらわの祈りの温もりが効いた証拠じゃな!それにしても朝から屋敷の門前に『奇跡の聖女様を一目拝みたい』などと市井の連中が押し寄せてきて大騒ぎじゃったぞよ。あのような窮屈な場所には居られぬとソナに合図を出して裏門から一目散にここへ逃げてきたのじゃ」
特務兵の制服を凛と着こなしたソナは瞳を和らげ、仙骨から伸びる尾を水平に保ちながら、ルナの器へ温かい汁を注ぎ足した。
東方ハロルド伯爵家との縁談は、相手方が教会の莫大な負債を隠蔽して王都の交易利権を強奪しようとしていた重大な背信行為が王室裁判所によって認定され、無条件の破綻として完全に白紙撤回されていた。
春の社交季に向けた鳥籠の恐怖は跡形もなく消え去り、ルナは自らの足で立つ表現者としての自由を確固たるものにしていた。
「……そういえばケイ、姉上や母上が屋敷でとんでもない企みを真顔で囁き合っておったぞよ」
「エレノア様たちがですか?」
ペン先を休めて顔を上げたケイに対し、ルナは卓に身を乗り出して楽しげに言葉を継いだ。
「相手の不実で縁談が流れたとはいえ、春の社交季には我が家の次代を支える良縁を結ぶのが貴族の習わしじゃと申してな。『いっそのこと、墓守小屋で動かぬ証拠を揃えて教皇の謀略を打ち砕いてみせたあの相談屋の青年をルナの婿としてクラウセル家に迎えてしまうのが一番安全で確実なのではないか』と、本気で相談を始めておるのじゃ!」
思いもよらぬ言葉にケイは持っていた素焼きの器を取り落としそうになり、感情の波風を立てぬはずの表情を珍しく強張らせて居住まいを正した。
「……エレノア様たちには感謝しておりますが、私は身元証明すら持たぬ行き倒れですし、伯爵家の婿などという重責は私のような中身のない空っぽの人間には到底務まりません。ルナさんにはもっと家格の釣り合う立派な殿方がふさわしいはずです」
いつもの職業病めいた客観性と自らを卑下する冷めた理屈で身を引こうとしたケイに対し、ルナの瞳に勝ち気でいて泣き出しそうなほど愛おしさに満ちた強い光が灯った。
「ふん、誰が勝手に引き下がってよいと申したのじゃ!」
小柄な身体を椅子から弾ませるように立ち上がった少女は、土間の床板を踏み越えてケイの膝元へ迷いなく詰め寄ると、躊躇う素振りすら見せずにその首筋へ柔らかな両腕を回し、小さな身体ごと胸元へと力いっぱいに飛び込んできた。
藍色の薄手ワンピースの布地を内側から豊かに押し上げる柔らかく量感のある胸元が、ケイの胸板と腕へ向けて逃げ場のない確かな弾力をもって容赦なく押し当てられる。
転移前の四角い部屋で理不尽な苦情を何千件と捌き、自らの感情をすり減らして平らな壁になっていた青年の思考回路が、至近距離から漂う甘い野花の香りと圧倒的な肉感の熱量によって一瞬にして沸騰し、紡ぐべき言葉のすべてを喉の奥で詰まらせた。
さらにルナは腰の小さな銀鈴をチリンと甘く鳴らしながら、健康的で肉感的な太ももを惜しげもなくケイの腰元へ密着させ、背伸びをしてその耳元へ熱い吐息とともに言葉を忍ばせた。
「何を他人事のように逃げ腰になっておるのじゃ。……わらわはな、そなたが婿に来てくれるというのなら一向にかまわんのじゃぞ?……それとも、わらわでは女として不満かのう?」
耳をくすぐる鈴を転がすような美声に、普段は愛想笑いか平坦な会釈しか浮かべないケイの素朴な顔立ちが、耳の付け根から首筋に至るまで瞬く間に真っ赤に染め上げられていく。
動揺のあまり指先を震わせるケイを見つめながら、ルナはからかいの笑みをふっと緩め、抱きついた腕の力をさらにきゅっと強めて自らの柔らかな頬をケイの胸元へと優しくすり寄せた。
「……そなたはいつも自分のことを空っぽじゃと卑下ばかりする。でものうケイ、わらわが屋敷の鳥籠で息もできずに怯えていた夕暮れも、夜の街道で狼の遠吠えに震えて泣きじゃくっていた時も、そなたはその空っぽの器を差し出して、わらわの吐き出した泥水を一滴も零さずに受け止めてくれたのじゃ。そなたが言葉を整理してくれたからこそ、わらわは自分の足で立ってあの大聖堂の前で歌うことができたのじゃぞ?」
ルナの胸の奥から溢れ出る熱い吐息が、作業着越しにケイの胸板へと直接染み渡っていく。
少女はケイの胸に預けた顔をゆっくりと上げ、潤んだ大きな瞳で青年の顔を真っ直ぐに見つめ上げた。
「今もそなたの心が空っぽだと言うのなら、わらわが全部満たしてやるまでのことじゃ!わらわの歌も、わらわの笑顔も、わらわの命も、そなたへ向けたこの大きな愛のすべてを注ぎ込んで、そなたの器が溢れて溺れてしまうくらい幸せで満杯にしてやるのじゃ!そなたがわらわを救ってくれたように、今度はわらわが、そなたの空っぽを一生かけて愛してやる番なのじゃぞ!」
逃げ場のないほどの抱擁とともに叩きつけられた混じり気のない魂の告白に、ケイの胸の奥底で何年も凍りついていた冷たい虚無が、春の陽光を浴びた残雪のように音を立てて崩れ去っていった。
ただ他人の言葉を受け止めるだけの乾いた空洞だったはずの胸の真ん中に、小柄な少女の甘い体温と柔らかな肉感、そして測り知れない情愛の質量が怒涛のように流れ込み、青年の全身を熱い痺れで満たしていく。
その凄まじい密着と熱烈なやり取りにソナが瞳を零れ落ちそうに見開き、仙骨から伸びる尾を慌てて二人の間へと滑り込ませて、隙間を空けようと力いっぱいに叩き始めた。
「お、お嬢様、いくらなんでも密着しすぎです!それにそこまで本気の愛の告白を白昼堂々となさるなんて、聞いてるこちらまで顔から火が出そうですよ!抜け駆けは感心しません、私だってケイ様に救われて、一番近くでお仕えしたいと思っているのですから!」
「何が抜け駆けじゃ、わらわの婿選びなのじゃからこれくらい初手から全身全霊で愛を叩き込んでおかなければ、この朴念仁はまた『なんでもいいです』と逃げてしまうぞよ!ほれケイ、そなたの器は今どんな心地じゃ?わらわの愛でちゃんと満ち足りておるかのお?」
首筋に巻きついた腕を解こうともせず、上目遣いに顔を寄せて勝ち誇ったように笑うルナと、尾先で必死に主の腰を引き離そうとするソナの姿に、長椅子で大椀を傾けていたローランドが腹を抱えて豪快な笑い声を土間に響かせた。
「おいおい、貴族のお嬢様が吹き曝しの墓場で真昼間から婿を骨抜きにしちまいそうじゃねえか!ケイ、お前さんの頑丈だったはずの空っぽの器も、あのお転婆娘のとびきり重たい愛で底までひび割れちまったようだな!」
温かなからかいと幸せな笑い声が土間いっぱいに満ち渡る中、ケイは胸元に残る柔らかな弾力と熱い余韻に鼓動を激しく跳ねさせながら、生まれて初めて自分の心が誰かの温もりで満たされている事実に、言葉を失ったままそっと息を吐き出していた。
かつては恐ろしい鳥籠の象徴でしかなかった婚姻の話題は、二人の心を永遠に結びつける甘く誇り高い誓いとなって、墓守小屋の未来をこの上なく眩しく照らし出していた。
ソナの抵抗もあり、首筋に巻きついた腕をようやく解いてくれたものの、藍色のワンピースの裾を揺らして席へ戻ったルナは、上気した頬に勝ち誇ったような笑みを浮かべながら小ぶりの器を両手で包み直していた。
ケイの胸元には少女の柔らかく豊かな胸元の温かな重みと甘い野花の香りが焼き付いたように残り続けており、耳の付け根を赤く染めたまま整わぬ呼吸を必死に押し殺す青年の足元へ、ソナが水平尾の先端でツンツンと少し拗ねたような、それでいてどこか嬉しそうな小突きを入れていた。
昼前になって扉が遠慮がちに叩かれると、雪を払って土間へと顔を出したのは村の少女ミリーだった。
外郭警備隊の詰所から指抜き手甲の追加注文が隊員総出で舞い込み、村の家族へ送る冬の仕送りと手紙をバルトの荷車部隊へ無事に託すことができたのだと、少女は溢れんばかりの笑顔で頭を下げた。
「ミリー、本当によかったのじゃ!そなたが心を込めて紡いだ糸が、この王都の城壁を守る男たちの頑丈な防壁になったのじゃぞ!」
自慢の妹を称えるように身を乗り出して喜ぶルナの姿にミリーは嬉しそうに目を細め、通りがかりに顔を覗かせた若い兵士マルクも手甲を嵌めた手を高く掲げて「見張りの指先がまったく冷えません!」と白い息を弾ませて駆け去っていった。
さらに街道警備の隊列を率いるバルトが軒先で立ち止まり、差し出された温かい白湯を一気に飲み干して「他の村の連中にも、トマの旦那の歌を届けてくるぜ!」と豪快に手を振って出発していった。
凍えるような冬の街道を行き交う人々が立ち寄り、冷え切った身体に温もりを取り戻して再びそれぞれの持ち場へ向かっていくための、かけがえのない通過点のベンチとして、この墓守小屋は確かに王都の外縁で息づいていた。
夕暮れが迫り、名残惜しそうに立ち上がったルナは、外套のフードを目深に被る直前、土間に佇むケイへ向けて悪戯っぽく片目を瞬かせてみせた。
「春の社交季を待たずとも、明日もまたここへ来るから覚悟しておれよ、ケイ!わらわの注ぎ込んだ愛の温もりが冷めぬうちに、また確かめに来てやるのじゃからな!」
チリンと誇らしげに銀鈴を鳴らして雪の街道へ駆け出していく主の後ろ姿を見送りながら、ソナもまた「明日もよろしくお願いいたしますね」と瞳を和ませ、深藍色の水平尾をしならせて背中を軽く叩いて去っていった。
夜の帳が降り、夕暮れの雪かきを終えたローランドがかまどの前へ腰を下ろすと、昼間の賑やかな喧騒が嘘のように引き潮となって、土間には心地よい静けさが戻っていた。
ケイは長椅子の端で手帳を開き、卓のランプの灯火に照らし出された紙面を見つめていた。
見開きのページには、これまで小屋を訪れてきた迷える人々の生きた言葉と、ルナが羽ペンで描き足してくれた九つの愛らしい銀鈴の絵が、誇らしげに並んでいる。
そしてその記録の先には、まだ何十ページもの、どこまでも白く平らな余白が静かに広がっていた。
胸元に触れると、昼間にルナから全身全霊で注ぎ込まれたあの熱烈な告白と、小柄な身体を押し当てられた時の確かな質量が、今も青年の胸の奥底で熱い鼓動となって脈打っていた。
他人の感情を吸い取るだけの無色透明な器だと思い込んでいた自分の内側に、誰かの生身の愛が満ち溢れているという感覚が、冷え切っていた男の全身を芯から温め続けていた。
素焼きの大椀に残った温かいエールを一口飲んだローランドが、かまどの薪を火箸で整えながらふと思い出したように低い声を投げかけてきた。
「おいケイ。お前さん、最初にあの墓穴で行き倒れていた時は、何を尋ねても『なんでもいいです』としか言えねえ抜け殻だったが……この小屋の居心地はどうだ?」
転移前の四角い部屋で理不尽な苦情を吸い続け、自らの心を削り落として空っぽになっていた男は、胸ポケットにあるボールペンの硬い感触を指先で確かめた。
マニュアルも組織の掟も存在しない異世界の片隅で、他人の言葉に耳を傾け、事実の交通整理を重ねてきた日々の記憶が、確かな重みとなって胸の内に宿っている。
何よりも、自らの空っぽさを丸ごと抱きしめ、溢れるほどの愛で満たしてくれたあのお転婆な少女の笑顔が、青年の瞳の奥に鮮やかに浮かび上がっていた。
ケイは手帳の真っ白な頁にそっと指を滑らせ、愛想笑いではない本物の穏やかな微笑みをその唇に浮かべて言葉を紡ぎ出した。
「……ここにいたいです。私自身が何なのかはまだ分かりません。ですが、ここへ立ち寄る人たちの言葉を受け止め、そして……あの方が注いでくれたあの温もりを裏切らぬよう、この手帳の白紙を一つずつ埋めていくことが、今はとても楽しみです」
初めて自分の望みを真っ直ぐに、そして愛する者への誠実さを込めて口にした相棒の姿に、ローランドは満足そうに口元を緩め、欠けた大椀を掲げてみせた。
「なら決まりだ。明日の朝も早いぞ、お転婆娘が押し掛けてくる前に、薪割りと相談所の看板拭きから手伝ってもらうからな」
板扉を押し開けて外へ出ると夜の凍てつく風が心地よく頬を撫で、軒先に吊るされた角の丸い不揃いな木製看板の『相談所』の文字が、雪明かりの中に頼もしく揺れていた。
見上げた冬の夜空には澄み渡る無数の星々が瞬き、広大な白紙の先へと続いていく彼らの確かな歩みを、どこまでも静かに照らし出していた。
お読みいただきありがとうございました。
真夏の酷暑時に最小限の動きだけで生きてた頃に浮かんだ内容を元にしたのですが、やはり心が死んでおりますね。
そこへ癖までぶち込むと地の文だらけの暗い話になってしまいましたが、何かを戻せた気もします。
その辺りは活動報告に書こうと思います。
ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。




