第32話 白紙の申立書と、七つ目の鈴
平民墓地の静寂を破り、墓守小屋の板扉が硬い音を立てて控えめに叩かれた。
老門番ゲオルグが外郭警備隊の合図とともに扉を押し開けると、冷え切った冬の外気とともに、良質な濃紺の防風衣を深く被った二人の人影が土間へと足を踏み入れた。
先頭に立っていたのは、クラウセル家の法務を先代の時代から取り仕切ってきた老公証人オルセンであり、そのすぐ背後で頭巾を静かに外したのは、クラウセル家の次期当主として家督を継ぐ長女エレノアだった。
凛とした面立ちに疲れの色を滲ませながらもエレノアは粗末な藁の上に身を置く妹を見据え、感情の起伏を押し殺した冷徹な声音を土間に響かせた。
「乳母の墓参りにかこつけて、このような吹き曝しの墓場で何を遊んでいるのです、ルナ。ハロルド伯爵家との約定は、貴女の将来と我が家の交易路を盤石にするためのもの。いつまでも子供のように現実から逃げ続けることは許されません」
厳しい言葉の刃に気圧されそうになりながらも、ルナは腰の小さな銀鈴をそっと指先で押さえ、背後で直立するソナと卓の向こうで見守るケイの眼差しをその背に受け止め、毅然として顔を上げた。
「……逃げているのではないぞよ、姉上。わらわはクラウセル家の娘として、我が家を破滅の淵へ引きずり込もうとする悪辣な罠を暴くためにここにいるのじゃ」
ルナは卓の上に置かれていた清書済みの書類を両手で持ち上げ、姉の前へと差し出した。
それは伯爵令嬢としての流麗な筆跡で克明に綴られた「婚姻契約に関する錯誤無効の申立書」であり、その横にはベルンハルトの手によって十年前の白峰の教令原本とハロルド伯爵家の負債控えが整然と並べられた。
老公証人オルセンは眉をひそめながら羊皮紙を手に取り、老眼鏡を直して専門家としての鋭い視線を走らせた。
教令の発布印、末尾に記された教皇直属の印章、そしてハロルド伯爵家が過剰な鉱山開発によって抱え込んだ返済不能な負債の控えを照合していくにつれ、老公証人の顔から血の気が引いていった。
「……馬鹿な。ハロルド伯爵家は教会の莫大な借財によって首が回らず、破門を免れる見返りとして東方街道の流通権を教会へ差し押さえさせるための手先だったというのか……?我が家の調査役は、王都の商会からも世俗の裁判所からも裏付けを取っていたはずだぞ!」
動揺に声を震わせるオルセンに対し、ベルンハルトが無精髭を撫でながら静かに言葉を継いだ。
「貴殿らの調査に落ち度があったのではない。教会の財務控えは告解の秘匿を盾にした教会法によって固く守られ、街の公証人が立ち入ることは許されないからだ。彼らは信仰の聖域を隠れ蓑にして国中の貴族を欺き、婚姻という不可侵の儀礼を悪用して王都の物資流通を根こそぎ掌握しようとしていたのだよ」
さらに申立書の付帯条項、すなわちソナを不浄の亜人として教会法廷へ引き渡す査問条項を目にした瞬間、長女エレノアの毅然とした仮面が音を立てて崩れ去った。
エレノアは震える指先で書類を強く握り締め、膝を折るようにして卓の縁へすがりついた。
「婿殿と共に王室の遠縁たる血筋の誇りを背負い、どれほど苦心して家政と流通の基盤を守ってきたか……家督を継ぐ重圧のない貴女には、何不自由のない穏やかな暮らしを東方で送らせてあげたかった。それなのに、私たちが進めていたのは妹を教会へ売り飛ばし、幼い頃から家族同然に過ごしてきたソナを地下の牢獄へ送る片棒を担ぐことだったなんて……!」
張り詰めていた責任感の糸が切れ、痛恨の涙を零落とす姉の姿にルナは駆け寄ってその冷えた手を自らの小さな両手で包み込んだ。
「姉上たちの優しさは痛いほど分かっておるのじゃ。だからこそ教会が仕掛けた卑劣な謀略に、わらわたちの家が屈するわけにはいかぬのじゃよ」
妹の温もりに触れて涙を拭ったエレノアは、次期当主としての誇りと決意をその瞳に甦らせ、老公証人オルセンへ向けて力強く告げた。
「オルセン、この婚姻契約の手続きを即座に無期限凍結としなさい。そして私の夫を通じ、この教令の違法な世俗侵害を王室裁判所へ正式に上奏します。教皇がどれほど強権を振るおうと、遠縁とはいえ王室と連なる血筋を引く夫がいる我が家が法廷で公に異議を唱えれば、教会とて一方的な執行はできません」
王室に連なる血筋を味方に据えた裁判所への提訴という強力な一手に対し、オルセンも深く頭を下げて同意の意を示した。
さらにエレノアは直立するソナを見上げ、クラウセル家の当主権限を行使して一枚の任用状に署名を刻んだ。
「ソナ、貴女を『クラウセル家直属・外郭防衛特務兵』として再任用します。ゲオルグ殿、国王軍の登載帳へ彼女の名を準軍属として直ちに記録してください」
「心得ました。外郭警備隊の登載帳に名が刻まれれば王国軍律によって保護され、教会の査問官であっても指一本触れさせることはできません」
老門番の力強い言葉とともに、ソナを巡る王国の軍律による防壁が土間の上で完成した。
護衛兵としての立場を守られ、主の家族からもその存在を認められたソナの瞳から安堵の雫が零れ落ち、水平を保ち続けていた深藍色の尾先が、床の藁を優しく払うように柔らかく揺れ動いた。
「ベルンハルト先生。学問を奪われた貴方を我が家の特別法務顧問としてお迎えしたい。王室裁判所へ突きつける上奏文の論理を貴方が培ってきた王権と国法を支える学問によって組み立てていただきたいのです」
エレノアからの申し出にベルンハルトは息を呑み、青銅の天秤徽章を強く握り締めて深く頭を垂れた。
紙の上の空理空論に絶望していた法学者は、生身の人間と尊厳を守るための本物の武器として己の知性を捧げる道を見出していた。
静かに展開を見届けていたケイは手帳を開き、ベルンハルトの相談の結末、姉妹の和解、そして王権を巻き込んだ新たな防壁の構築を、揺るぎない事実として淡々と速記していった。
「ルナさん、最後の仕上げをお願いできますか」
ケイから羽ペンを手渡されたルナは誇らしげに頷き、手帳の余白へ向けて滑らかな線を走らせた。
描かれたのは、均衡を保つ美しい法天秤と、守られた深藍色の水平尾、そして互いの手をしっかりと握り合う姉妹の温もりを包み込むようにして佇む、誇り高き「七つ目の銀鈴」の絵だった。
冬の冷気が吹き荒れる墓守小屋の土間には、教皇の冷酷な支配を打ち砕き、決戦へと力強く踏み出すための揺るぎない希望の灯火が赤々と燃え盛っていた。




