解離性健忘
「私は解離性健忘の一種だと考えています」
翌日。快里と依入は、克之から現在わかることの説明を受けていた。
快里は試験当日だったが、いつも通り、大して勉強もせずに、普通に試験を受けてきた。満点は難しいかもしれないが、恐らくほとんどの問題は解けているだろう。今はそれよりも、大切なことがある。そう考えて学校帰りに克之の研究室に直行していた。
「それは……どういう病気なんですか?」
「誤解を恐れずに言うと、よく言われる記憶喪失のような状況です。依子さん個人の重要な体験が思い出せなくなっているという状況です。簡単に言えば、辛い体験とかを忘れて精神が楽になろうと言っている状況ですね。一般にはたとえば、幼児期の虐待とか、戦争とか、災害とか、大事故とか、レイプ体験とか……。本人にとって認めたくない状況があると起きたりします。その記憶を抑圧することで、忘れてしまおうというわけです。そこにはある種の強迫観念が常に突きつけられている可能性もあります」
「じゃあ兄ちゃんは、依子さん自身に辛い体験があったという風に見てるってこと?」
「そう」
克之は快里に対してうなずいた後、依入を見た。
「なにか思い当たることはありますか?」
依入は伏し目がちになりながら考えていた。
「平凡な日を送ってましたから……私には思いつきません。会社とかでなにかあったのなら別なんですが……」
「ねぇ兄ちゃん。依子さんは僕を夫として間違えた。そして子供を産んだと言っている。そのことを話してる時は、表情が妙に若々しくなっている気がする。依子さんの頭の中が今現在ではなくて、過去といると考えてみたんだけれど、どう思う??」
「過去に……トラウマになるようなことですか?」
「依子さんの旦那さん、依入さんのお父さんってどういう人だったんですか?」
「私たちがおなかに入っている時に、事故で亡くなったそうです」
「そうですか……え、私たち?」
「あぁ私、おなかの中では双子だったみたいなんです。男の子がいたんだけど死産で……」
依入は、ふと快里の方を向いた。
「一つ子……って、依子さんはいってた……。気がついた?僕はすごく違和感を感じてたんだけど……」
「あぁ」
「依子さんは、一つ子の男の子を産んだ……。産む必要があったのかな?」
「お母さん……私ぐらいの歳の時に妊娠して……、その間にお父さんが事故で亡くなって。そして子供の一人が死産で。私が産まれるちょっと前に、いろいろあったんだよね……。頼れる人もいないし、一人で私を育てないとならなくて、すごい不安だったんだろうな……。ずっと二人だった。そこがどこだかもう私は覚えてないけれど、子供の時は小さな1Kのアパートに住んでたの」
「それって何年前のことですか?」
「私が今25才だから、25年ちょっと前ですよね……」
「25年ほど前か……。トラウマになりそうなことが連続して起きたんですね。でも、苦労しても結局依入さんは無事に育ったわけですし……」
「ええ……私が大学を卒業したぐらいの時期から、お母さん、変な感じに……」
一つ子……
快里はその話を聞きながら想像をしていた。
依子さんが今言っていることは、おそらくその必要があったことなんだ。なぜだかわからないけれど、依子さんは男の子を産む必要があった。そして、依入さんという名前は現実に引き戻されるキーなんだ。だからそれを拒もうとする。
でもなんで、双子ではなくて一つ子じゃないとならないんだろう?いや、どうして男の子と一緒に「えいり」という女の子を産んではいけなかったのだろう?
そしてその男の子の名前がなぜ僕と同じ「快里」という名前なんだろう?
男の子を産まなくてはならない強迫的観念があった?それがトラウマ?依子さんを襲った25年前の一連の災いは、25年間封じられてきたということだろうか?
「じゃあ、学生時代はそんなそぶりは見せなかったんですか?」
「ええ」
「依入さんが、社会人になってから?」
「そうですね……苦労させましたから。それで気が抜けたんでしょうか」
「多少はあるかもしれませんけど、原因じゃないですね。原因はもっと別な物だと思います」
克之はそう説明しながら、快里の方をみた。快里は目を開けたまま、表情に力を失い宙を見ていた。克之はあわてたように快里に寄っていくと、快里の頬をぴしゃぴしゃと柔らかく叩いた。
「おい……快里……」
依入は突然のことにびっくりした。
「快里君。どうかしたの?」
「いやちょっと……。こいつ考え事して集中しすぎると、そのまま寝るんですよ」
「あぁ……、ごめん兄ちゃん」
そのまま寝る……情けない口上だけど、案外良い言い訳かもしれない。
「僕、考えたんだけどさ……。依子さんは男の子を産まなくてはいけない理由があったんじゃないかな。それが依子さんにとっての今の現実で、依入という名前は、依子さんが本当の現実に戻される鍵になってしまっているんじゃないだろうか」
「私じゃいけなかったのかな……。だから忘れちゃったのかな……」
「いや依入先生。そんなことはないですよ」
克之はあわてて否定した。
「解離した記憶は忘れられているんじゃないんですよ。意識の下で生きているんです。快里が言っている通りならば、依子さんは自分自身へ強迫して真実を抑圧してるのです。ただ、それは抑圧されているだけなので、思い出さなくてはならないという葛藤もあります。依入さんの存在が、葛藤を呼び起こしているのでしょう?だから忘れているわけではないんです。むしろ、葛藤をしているということは、それだけ依入さんとの想い出を思い出さなくてはならないと、心の底で感じているはずなんです」
「そうですか……私、母に会ってきます」
「じゃあ、私も行きましょう。今は介護の人だと言っておいたほうが良いかもしれませんから」
依入は克之に連れられて、母の病室へと向かっていった。
快里は克之と依入を見送り、克之の研究室の椅子に座り込んだ。
「あら、先生」
依子は克之の顔を見ると、うれしそうに話しかけた。
「こんにちは、依子さん。調子はどうですか?」
「ええ……。昨日、男の子が生まれたんですよ……」
そう言うと依子は、ベッドに置いてあった人形を抱きかかえて、克之に見せた。
ふと目を依入の方に向けて質問する。
「えっと……あなたは?」
「ええと……」
「あぁ紹介します。しばらく依子さんの世話をしてくれる介護役の方です」
「あぁ。そう。よろしくね……えっと、お名前は?」
「え……依里と言います」
一瞬空気が固まったような感じがした。また同じ過ちを犯すところだった。
「……えり?」
「えぇ」
「そう、依里さんね。どういう字を書くの?」
「え?え〜っと。依子さんの依と同じ字に……里です」
依入がとっさに思いついたのが、自分の名前に快里君の名前を足した物だった。
「そう。いい名前ね。よろしくね、依里さん」
「よろしく……」
「じゃあ我々はちょっと用があるので……」
「えぇ?もう?」
「依里さんと仲良くしてあげて下さいね」
「えぇもちろん」
「じゃあ」
克之は快里を連れて、依子の病室を出た。
他愛のない話……。話の核心にも触れず、母親の思っていることを他人として聞く。見たことがない母親の側面を見ながら、意味のない雑談をする。
それもカウンセリングとして良い効果をもたらすという。
依入は依子とひとしきり話した後で、一人、帰路についた。たとえ自分のことを忘れていたとしても、母と話をできるのは自分にとってもうれしい話だった。
快里は克之の研究室で思考の渦の中にいた。
わかったことがいくつかある。
依子さんの夫、快さんは25年ちょっとまえに亡くなった。そして当時、依子さんのおなかには2人の子供がいた。
しかし一人は死産。依子さんは女の子「依入」を産んだ。
ここまでは、事実の話。この中のすべてか何かに、依子さんのトラウマがある可能性が高い気がする。
それから現在の依子さんの頭の中の話。
依子さんは男の子を一人産んだ。そして快(実際は僕と見間違っている)に話しかけていることから、依子さんの頭の中は二十五年前のでき事なのだろう。
男の子の名前は「快里」
依子さんの頭の中でのでき事……わからないことが増えてしまった。
そもそも双子を妊娠していて、一人が死産。それがトラウマだったとしても、なぜ二人とも無事に産まれたことになってないのだろうか?
双子ではなくて一つ子でなくてはならない理由はなんだったのだろう?
双子ではいけない理由があった?そこにトラウマになるような理由があるのだろうか。
だいたい男の子を産まなくてはならない理由はなんだったのだろう?男の子が欲しかった?それはトラウマになることなんだろうか?
一番不気味なのは、死産だった子供が僕と同じ名前だったということ。なぜ快里という名前なんだろうか。
双子。快里、依入。かいり。えいり。
「いめい」と「いねい」のように似てる名前だ。
メイとネイの名前はどうしてああいう名前になったんだろう?双子が産まれると、親はそう言う風につけたくなるのかな?親になったことないから、そのときの気持ちはわからないや……。
「えいり」と「かいり」も、「いめい」と「いねい」に負けないぐらい、双子の名前としてはシナジーを感じてしまう。
そして快里は死産。
僕が生まれる8年前とはいえ、なんとなくそこが一番気味が悪い。
快里はハーマンミラーの椅子にもたれて、目を開けながら静かに揺れていた。




