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耐えきれなくなった脆い入れ物

「道が狭いから、お兄さんのクルマじゃ入りにくいかも」

 依入はそう言うと、家の近くのコインパーキングに克之のクルマを止めて貰った。

 ごつ……。

 鈍い音がなる。

「痛った……痛いよう」

 依入が頭をピラーにぶつけて痛そうにしていた。

「大丈夫?ごめんこのクルマ、普通のクルマより天井が低いんだよ。降りるときに言ってあげれば良かったね」

 克之がクルマから降りた後でドアを閉めながら気づかう。

「うぅん、ちょっと私がおっちょこちょいなだけなの……」

 依入は涙目になりながら苦笑いした。家に男性を連れて行くのが始めてだったので、ほんの少しだけ緊張してたのかもしれない。

 依入は照れくさい感じがしながら、アパートの階段を駆け上がった。

「ただいま。お母さん、お客さんつれてきたよ」

「いらっしゃい。どうぞ」

 奥から声がする。快里は、依入、克之の後に続いてリビングに通された。入りしなに依入の母と目があう。なるほど母娘(おやこ)だ。よく似てる。ただ快里はすこしだけ母親が卑屈そうな印象を感じた。

「紹介するね。彼が私のはじめて受け持ったクラスの生徒さん。本間快里君。ほら、この前話した本間病院の息子さん」

「……」

 快里には、依子が話を聞いているようにはとても見えなかった。じっと自分を見つめ、何かを思惑しているように感じた。

「それで、こちらが快里君のお兄さん……」

 依入は返事がない母を不審に思って振りかえると、そこには表情が完全に凍り付いた母の姿があった。

 快里から全く目を離そうとしない依子。

 そして少しの沈黙。

 依子は急に甘えたような表情に変わると、快里に話しかけた。

「……あなた、お帰りなさい。早いのね、今日は。私、まだお夕飯の支度してないわよ。急いでするわね」

 突然、依子が快里に話し始めた。

「お、お母さん。どうしたの?」

 慌て出す依入。

「先生、どういうこと?」

 快里はじっとりとした汗を手に書きながら、依入に話しかけた。快里としては珍しい。そしてそれに自分自身が気がついていないことも……。

「わかんない。お母さん、どうしたの?」

「依入先生!」

 克之が制止して、依入に耳うちして聞いた。

「お母さんのお名前は?」

依子(よりこ)

「わかった。快里、依子さんとちゃんと対話しろ」

「え?どんな風に?」

 快里は突然、そう言われて慌てた。快里が、慌てることも珍しいのだが。

「自然に。お前のことを夫だと思ってるんだ……考えろ。想像力を働かせろ」

 快里は息を吐いた。さっき兄が言ったこと咀嚼(そしゃく)する。

 病人扱いしないこと、闇雲に否定しないこと、けれども同調しないこと。否定せずに同調しないってどうするんだ?快里はそう思いながら、息を大きく吸い込み、再びゆっくりと息を吐く。

「えっと……そう……」

 人違いだと思いますよ?僕が何方かに似てらっしゃるのですか?そう言おうとしたとき、依子が慌てて話し始めた。

「あなた、ごめんなさい。ご飯よね。今すぐ用意するわね」

 すぐにキッチンに行こうとする依子。快里は普通、慌てることはないのだが、どうして良いかわからなくなってきた。

「えと……。依子、ただいま」

 克之が快里を睨み付けるように凝視したが、快里は依子の目をみてそれに気がつかなかった。依入は快里をみながら、固唾をのんで快里と母を見つめた。

 依子の目からは、(せき)が切れたように、涙が流れ始めていた。

「あれ?なんでかな。私、なんで泣いてるんだろ。あれっ。ごめんね。涙が止まらなくなって来ちゃった。お夕飯の支度しないとならないのに」

 快里は言葉を選ぶ……。

「……。どうかした?ご飯にするか」

「ごめんね。私、どうしちゃったんだろう」

「どうした?大丈夫だよ、なにもないよ」

 快里は再び笑顔で話しかけながら依子の肩を抱き寄せて、ポンポンと2度背中を叩いた。

「ありがとう。私、ご飯の支度するわね」

 依子は落ち着くと幸せそうな表情をして振り返った。そこに依入がいた。

「あなた、だれ?ねえ、あなた、この方はどなた?」

 言葉が詰まる、どうして?びっくりして、依入は叫びそうになった。

「お、お母さん……」

「お母さん?知らないわ。ねえ、あなた、この人は誰?」

「お母さん……私よ、依入」

 毎日ずっと一緒にいた母。なのに、私を忘れてしまうなんて、そんなことがあり得るのだろうか?

「依入先生っ」

 克之が指を縦にして黙るように合図を送る。

「ねぇ、この方はどなた?」

 甘えるように快里に寄り添う。

「ほら、この前言ってた僕の友達とその彼女なんだ。ごめんね、早めに連絡すれば良かったんだけど、つれて来ちゃったよ」

「そ、そうなんだ」

 安堵の顔をする。


 克之が依入に聞こえるように小声で話した。

「お母さんは、前からこんな状態だった?」

「いえ。こんなひどいのは今日が初めてです」

「多分快里のことを自分の夫だと思ってるんだと思う。本当の旦那さんは?」

「私が生まれる前に亡くなったそうです」

「なるほど、旦那が生きている時のことだと思ってるんだな。とりあえずここじゃなくてうちの病院につれてったほうがいいかもな。良いですか?」

「いっ今からですか?」

「えぇ、細かいことは病院で聞きます」

「わかりました」


 依入の了承を得ると克之は快里に小声で話しかけた。

「快里、とりあえず病院につれていくぞ、話を合わせろ」

「どうやって?」

「自分で考えろ。頭、良いんだから」

 快里はすこし考えた。とはいえ、こんなことは経験がないから、どうしていいかわからない。自分がこんなに落ち着かない状態なのが珍しく、少し狼狽(ろうばい)しながら、口を開いた。

「えと……。依子、ご飯はあとでいいよ。そういえば最近、調子悪かったよな。彼は医者なんだ」

「あら……。そうだったかしら?」

「そう言ってたじゃないか。知り合いのお医者さんを紹介して欲しいって」

「そんなこと言ったっけ?あっ、そういえばそんな気がしてきたわ」

「僕はまだ、あまりおなかが空いてないんだ。とりあえず一緒に病院に行ってからに、それからご飯にしようよ」

 依子は少し笑って、快里を見つめた。

「あなた、『僕』だなんて、珍しいわね」

「えぇと普段なんて言ってたっけ?意識したことないや」

「いつも、『俺』って言ってるじゃない」

「……。あぁ。俺だったね。そういえば。依子、とりあえず俺の友達のクルマを下に止めてるから、それで一緒に行く約束になってただろ?」

 快里は我ながら取って付けた変な会話だと思いながらも話を合わせる。

「そうだったかしら?でもなにも支度してないわよ」

「そのままで良いよ。その前に紹介するよ。俺の友達のお医者さんの本間克之さん」

「依子さん、初めまして。快の友人の克之です」

「あ、初めまして。本間さんって本間俊克さんとご親族か何かかしら?」

「えっ?えぇ。彼は私のいとこなんですよ」

「あぁどおりで、似てらっしゃると思ったわ」

「さ、依子さん、下にクルマとめてあるんで、行きましょう」

 依入のことを聞かれる前に克之が(うなが)した。

「あ、戸締まりしなくちゃ」

「俺がやっておくよ」

「あなたは?」

「戸締まりが終わったらすぐ行くよ。まってて」

 快里と依入は、克之につれられる依子を見送った。

「ふぅ」

 快里は溜息をついた。この対処で良かったのか?かなり自信がない。こういう人をいつも扱っている兄貴が、急に崇高(すうこう)に見えてきた。

 依入は、呆然としながら立ち尽くしていた。

 なぜ?どうして?そんな風に考えているようだった。

「お母さん……どうしたんだろう。毎日ずっといっしょにいたのに、どうして私を忘れちゃったんだろう」

 依入は呟いて、身震い。そして倒れるように座り込んだ。

 バサッ。

「大丈夫?依入先生……とりあえず、お母さんのことは兄貴に任せて、お母さんの入院の支度をしないと」

「お母さん……」

「依入先生、しっかり。先生がしっかりしないと、ほら」

 しっかりしてって言われてもできない……依入は落胆しきっていたが、快里に肩をつかまれてじっと見つめられていた。がんばれと励ましているのだろう。

「そうね……」

 依入と快里は、依子の入院する支度をはじめた。

 どうして僕のことを自分の夫だと間違えたのだろうか?

 快里はそれが気になってたまらない。ただ、それを考え始めると、僕までここで倒れ込むことになる。とりあえず家に帰るまでは、このことは考えないようにしよう。


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