二つのカイ
依子はうたた寝のような、一瞬とも永遠とも言えるような瞬間を通り過ぎて、不自然な感覚を味わっていた。
見慣れた景色。デジャブのような感覚。
気がつくとそこは、自分が住んでいたアパートのキッチンにいた。6畳一間。それでも住むところがあるだけ良い。この時期、なかなか仕事も無いからだ。
8ヶ月にもなると、目に見えてお腹が大きくなってくる。それにしても体中が重い。これで臨月になってしまったら、どうなってしまうんだろうと思う。初産は大変だと言うけれど、大丈夫なのだろうか。自分はまだ24才なのだから、それでも楽な方だと思うのだけれど……。
「依子」
懐かしい声がする……。
「依子」
物思いに耽っている間に、いつの間にか夫の快が隣にいた。いつ帰ってきたのだろう?
「子供の名前。俺が決めていいか?」
あぁ、そういうことだったっけ。依子は口を開いた。
「あなたの子でしょ。もちろん良いわよ」
笑顔で答えた。
結婚する前に快が自分に言ってくれた言葉。『笑顔が好きだから……』だからいつも、依子は笑顔だけは絶やさないようにすることにしていた。
「あんまり、ありすぎの名前も面白くないからなぁ。すこしひねった感じがいいよなぁ」
「そうね。でも、ちょこっとだけよ。凝りすぎると誰も読めなくなっちゃうから」
「源氏名みたいになっちゃったら可哀相だしなぁ」
「そうね。うん。でも名前を決めていいか?って、聞いたってことは、なにかアイディアがあるんでしょ?」
「もちろん」
「聞かせて」
「俺の字を取って、かいり」
「かいり?200海里みたいよ。どういう漢字をかくの?」
快はすこしむっとした顔をしたが、すぐに気を取り直し自信を持って答えた。
「快晴の快に里で快里。快い里。ここは田舎だからな。快里が大きくなって都会にでても、いつまでも田舎を忘れないようにな」
「なんか良く分からないこと言ってるわねえ」
思わず依子は苦笑いをする。
「馬鹿だなぁ。自分の田舎があるってのは、自分のアイデンティティなんだぜ?」
「そういうものかしら……まぁ、そうかもしれないわねぇ。ねぇ。でも女の子の名前は?男の子だってきまったわけじゃないでしょう?」
「いや、男だろ。多分」
「どうしてわかるのよ」
「そりゃ俺が男の子が欲しいから」
「そんなの理由にならないわよ。女の子だったらなんて名前にするの?」
「そうだなぁ。快里と似てる名前がいいな。あいり、いいり、ういり、えいり……えいりにしよう」
「安易ねぇ」
「依入。依子の依の字は『え』って読めるだろ?どうだ。結構可愛いじゃないか」
「決め方はともかくとして、快里も依入もあんまり無い名前よ?快里は聞いた感じそれほど違和感ないけど、依入はちょっと……」
「アイリでも良いんだけどな。でも依入だとおまえの字もはいるしな、うんそれがいい?」
「案外考えてくれてるのね。私のこと」
「あったりまえだろ?決定。男の子だったら快里、女の子だったら依入。まぁ、男だと思うけどな」
「どうしてよ」
「おまえが妙に活発だからな。男の子が生まれる!って顔してるからさ」
「そんなので分かるのかしら」
信じてなさそうに会話しているものの、依子は何となく嬉しくなってきた。
「わかるさ。多分な。さて、仕事に行くかな」
「またオートバイ?」
オートバイ?いま、私、オートバイっていった……。
「バイクしかないだろ?クルマも売っちゃったしさ。生まれてくる子供のために、お金作っておかないとならないんだろ?」
嫌な感じがする。オートバイはだめ……絶対だめ……。
「そうね。でも気をつけてよ」
口が勝手に動く。行っちゃダメ。止めて。誰か止めて。そう思っているのに、言葉が出ない。
「あぁ。じゃあな。今日はちょっと帰りが遅くなるかもな。ついでにいいもの買ってくるよ、まってろよ」
依子は汗が首筋から落ちる感覚で目が覚めた。夢だった。
あの後、あの人は帰ってこなかった。警察からの連絡で駆けつけて、遺体を確認したけれど、直視もできないぐらいになっていて。赤いゴムボールのようになってしまった身体。
ただ、革ジャンの内ポケットには真っ赤になった私のための安産のお札(お守り)があって。お札の裏には、字が下手なあの人が一生懸命、筆で書いた「快里」という文字が書いてあった。
「今日はちょっと帰りが遅くなるかもな……まってろよ」
いつ?あなた、それはいつなの?




