依子と誰か……
依入は英語の試験の準備を手伝うことになったので、英語教員室まで足を運び、テストを作っている先生の手伝いをしていた。
テスト前に大変なのは、生徒だけじゃなかったんだ。
あたりまえだがそう思いながら、コッソリと自宅に電話を掛ける。今日遅くなることをつたえたかったからだ。10回目のコール音を確認したあと、携帯電話の赤ボタンを押した。
お母さん買い物にでも出かけてるのかな?
電話に出ないだけで何となく心配になってくる。
しかし始めたばかりの仕事。全学年分の試験勉強の添削を手伝ったり、すでに添削が完了しているテスト用紙の印刷をしていた。
すっかり遅くなっちゃったなぁ。
仕事が終えて、クルマに乗る前に電話をしたが、やはり母が電話に出ることは無かった。何となく気が焦る。今日は仕事は休んでいるはずだ。電話に出ないのは、なにか事情があるのだろうけれど……。
お母さんに携帯電話、持たせておけば良かったな。
赤信号で待っている間、そんなことを考えていた。こんな時は赤信号が長く感じてしまう。
依入が家についたときは、7時を回っていた。周りはすっかり暗かったが、駐車場から家の窓を見ると明かりがついていなかった。
あれ?お母さん、いないのかな?
キーホルダーでクルマの鍵と一緒に束ねた家の鍵を持って、玄関にさし、回してみる。カチリとも音がしない。開いてたのだろうか?真っ暗な中で、リビングから声が聞こえてきた。
「……そう。それでね。今日、・イリがやっと先生になれたの。あの子、頭が良いし、面倒見がいいから、絶対に良い先生になると思う……」
そこには真っ暗な部屋で誰かと話している依子がいた。
「やっぱり?あなたもそう思うでしょ……。後は・イリがお嫁さんもらって孫でもできたら、私たちも一段落ってかんじね」
依入は暗い中、目を凝らしていた。椅子に座る依子。しかし反対側には誰もいない。うれしそうに笑顔で話す依子の顔が依入は少し恐ろしく見えた。
「でも、あなたには仕事、これからもがんばってもらわないとね」
依入はリビングの扉を開けて母を見た……。
「……だれ?」
依子が怪訝そうな目で依入を見る。
「お、お母さん」
「……」
依子は焦点が定まらないような目でぼうっとしたが、急になにか思い出したかのように、口を開く。
「あ。……依入。どうしたの?何かあった?」
「お母さん、いま、誰と話してたの?」
「誰とって。別に誰とも話してないわよ。だって、私一人じゃない」
「そっ、そうだけど」
母が今のことを覚えてないことに、嫌な汗が出てきた。
「あのさ……」
真っ暗な中で話す二人。どうすればよいのだろうか?こういうときには本人に気づかせる方がよいのだろうか?依入はそう考えながら唾を飲む。
「どうしたの?依入」
「えっと……聞いて良い?」
依入はそれでも聞きたくなった。『かいり』と言ってた?そういえば快里君の話をしたときから、病状はいっそうひどくなった気がする。
「なに?」
「私には死産だった弟がいたって言ってたけど……。なんて名前だったの?」
暗闇の中で沈黙が支配した。耐えきれないように依入は再び聞いてみた。
「ねぇ……」
「名前なんて、付けてないわよ。さ、もう遅いから寝るわ」
遮るように、自己完結したようなことを言いながら依子は席を立った。
「お、お母さん、まだ7時だよ」
「おやすみ」
依子はそのまま電気もつけずに寝室に入っていった。




