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快里の瞑想

「……………」

 消し忘れた居間のテレビの音が大きくざわめくと、次第に微かになり徐々に遠くなった。表の街路を歩く人の雑談。そして歩きながらため息をつく人。閉めが甘い蛇口からポタポタ落ちる水滴。

 どこからか聞こえる音達が『うわっ』と一瞬だけ存在感をアピールして次々と失われていく。電化製品が発する小さな羽虫のようなトランス音と、60ヘルツの蛍光燈の発振音が唸るようにブンと聞こえ始めると、瞬く間に繊細に消えていった。

 心臓の鼓動と血流が一定のリズムを刻んで脳を横溢(おういつ)していく。

 次第にサァーという耳鳴(みみな)りが存在感を増していき、やがてそれですべての音が消えていった。


 無音……


 確認するように目を軽く閉じる。

 (まぶた)がじんわりと赤く染まって見え、シロとクロの微妙な点滅がチラチラと瞬き、次第にクロが強くなった。

 ゆっくりと、か細く息を吐く。

 血管のような網目(あみめ)、ボウフラのような飛蚊(ひぶん)、閉じた目蓋(まぶた)の裏に涙が循環(じゅんかん)するせいで、天井の模様が微妙に映りこむ。それとも心に焼きついているイメージなのだろうか。やがてそれらの模様がコントラストを失ってすべて灰色になり、光も失い、瞬く間に黒さに包まれていった。


 闇……。


 無音無明。脳の中で何かと何かが強烈なコネクションを張る。それがものすごい勢いで動くと、波束(はそく)(ほど)けるようにちりぢりになってエネルギーを生み、はじけた。

 サイクル。水平感覚もなく突然回転して、光明に入り込むかのように幻惑が(おそ)う。そしてどこかの何もない点に集中した。

 イメージ上の1点。体積の存在しない点が、思念の上で存在し重圧が掛かっていく。その1点は重圧に耐えかねて(ひしゃ)げ、まもなくそこに穴があき、『何か』がはじけ飛ぶように炸裂した。

 浪波(なみなみ)と溢れてくる。それらは今日のでき事とともに、具体的な顔つきをしていった。



 今日会ったばかりの藤木先生の顔が、一瞬浮かんで語りかけてきた。髪が徐々に短くなっていき、声は次第に低くなり、どこかで聞いたことがある声になって僕に語りかけ始めた。何となく見覚えのある顔にモーフィングしていく。

 僕に向かって言葉をかけるがよく聞こえない。何だろう?聞いてはいけないような、あるいは聞かなくてはいけないような、どちらを選んでもだめなような、選ばなくてはならないような。

 静かに未来の僕の唇がゆっくりと動いた。

「お・ん・お・う・い・お・え・え・お・い・い・お・あ」

 おんおういおええおいいおあ?

 なんだろう?唇の動きが見えても、言葉が聞こえない。彼は首を振って、失望したような眼差しを僕に向ける。そして色を失って黒い闇に溶けていった。


 再び闇……。


 か細い声が聞こえる。ほんのわずか。しかし、無音のこの空間には揺り動かすようなメッセージに聞こえる。

 —ねんねんね。ねんねんね。かぁかととぉとはどこ行った?明かりが消えても夢見ても、あなたの隣についてるよ。—

 暖かい声。聞き慣れた歌。気がついたときには、耳に染みこんでいた。会ったことがない母さんの声だろうか。

 渦がすっと湧き、消えていく。記憶の糸が(ほど)かれて、また(つむ)ぐ。そんな設定の物語なら、昔からいっぱい読んだことがある。

 だけど、現実的に考えても僕はそんなことには無縁だ。気がついたときには親父も、兄貴も身近にいたのだから。母親の記憶もない。一度もあったことが無い人の記憶があるはずもない。

 でもなぜ、そんなことを考えたくなるんだろうか。

 快里は知らない間にいろんなことを考えていた。そして平衡感覚を失い、深淵(しんえん)が世界中を満たしていく。自分だけの思考が世界の全てとなり、体中の感覚を全て失っていく状態から避けれない状態になり始めていた。


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