診察室の恋人 / 桜の下で
「行っていいよ、遥ちゃん。冴木のこと、気になってるんだろ」
美百合を見送ってから、水瀬は遥にそう言った。送り出しかけて、ふと言葉が口をついて出る。
「ーーありがとう。君が冴木の傍に居てくれて良かった」
ずっと思っていた。なかなか伝える機会がなかっただけで。玲一のことを一番理解しているのは水瀬かもしれないが、一番信頼しているのは間違いなく遥だ。そしてそれこそが、玲一にとっては救いであり、何よりの愛情の証なんだろう。
水瀬では変えられない、玲一の決定的な部分を逃げもせずに受け止めてくれた彼女。友人として感謝していると、伝えたかった。
演技ではない、水瀬の柔らかな微笑みに。遥もふわりと笑みを返した。
「あなたもですよ、水瀬先生。あなたが一番、玲一を支えていてくれる、でしょ?」
彼女の言葉が嬉しくて、微かに笑った水瀬を遥が首を傾げて覗き込んだ。
「ーーでもそろそろ、水瀬先生にも甘える相手が居てもいいんじゃないですか。ああいう人なら、本当のあなたを知ってもきっと揺らがないと思いますけど」
「……っ」
不意打ちで、核心に触れられて。水瀬は息を飲む。
ーー研修医だった頃。先の見えない恋をした。命が消えると分かっている相手を。
未だに真剣な恋愛ができないのは、彼女を失ったせいなどと感傷に浸るつもりはない。女好きなのも、浮ついた恋愛体質も昔からだ。
けれどーーあの時の痛みは忘れない。
それからだ。患者に必要以上に踏み込まないように、『水瀬先生』を装い始めたのは。
誰にでも等しく優しい、誰も特別扱いはしない、ーー自分を守るために。
詳しく話したわけではないのに、遥は人の痛みに敏感なのかこういう時、鋭い。ーー玲一と同じように。
けれど最近は、水瀬も自分が変わりつつあるのを自覚していた。玲一と遥につられて地が出つつあるみたいだ。
「……そう、かな?」
ーー君たち二人みたいに、偽りない自分を、見せられるのかな?冴木が君に会って、変わったように、俺にもそんな相手が現れるのかな?
遥は水瀬が言葉にしなかった部分も感じ取ってくれていた。しっかりと頷く。
「だといいな、って私は思います。きっと、玲一も」
いつのまにか、玲一と遥の姿に憧れていたのかもしれない。
また一つ、鮮やかな笑顔を残して立ち去る遥の後ろ姿に。
「……ホントに、冴木が羨ましいよ」
水瀬は苦笑した。
***
午前の診察時間が終わった診察室。玲一は一人でカルテをまとめていると聞いて、遥は遠慮がちに診察室の扉をノックした。
「玲……冴木先生、居ますか?」
扉が開いた瞬間、中から伸びた腕が遥の身体を引っ張りこんで、
「キャ……!」
倒れ込みかけた彼女を力強い腕が受け止める。
「ーーやっと取り返した」
遥を抱きしめているのは、もちろん愛おしい旦那様で。優しく彼女を見下ろして、その唇にキスした。
「もう水瀬だろうと、誰にも貸さない。嘘でもお前が誰かの隣にいるなんて、
耐えられない」
妻の腰を抱きしめて身を寄せる玲一に、遥は苦笑した。
「もうしないわよ。美百合さん、私があなたの奥さんだって知ってた」
「あいつ、やっぱり馬鹿……」
呟いた玲一は、けれど思い出したように遥を覗き込んだ。
「なあ、さっきの久しぶりだよな。もう一回言って?」
「さっきの?」
聞き返して、気付く。
「……“冴木先生”?」
思い当たった遥がそう呼ぶと、玲一は彼女の腕を引いて診察台に座らせ、そのまま緩やかに遥の身体を押し倒しーー妖艶に笑った。
「高校の時みたいだな」
遥の頬を、玲一の指がなぞる。
ーー思い出す、あの保健室。
こんな風に、何度彼を見上げたことか。
場所が変わっても、恋人が旦那様に変わっても、未だにドキドキとさせられる。いや、今でも恋をし続けているのだから、当然かもしれない。いつまでたっても慣れないけれど、それも嬉しい悔しさだ。
「ねぇ遥。……ちょっとだけ、イケナイ気持ちにならない?」
玲一のたっぷりと色気を含んだ笑みに、遥は一瞬で真っ赤になる。
「……っ、だ、ダメだってば!玲一!」
「も一回言ってよ、センセ、って」
な、何プレイ……!?
遥は必死で玲一の身体を押し返す。
「さっき看護師さんにも呼ばれてたじゃないの!」
「あれ?妬いてくれた?でも他の女に呼ばれてもな。欲情するの、遥だけだから」
「な、何サラッととんでもないこと言ってるの!?」
どさくさに紛れて服の中まで入り込んだ玲一の手から、必死で逃れようともがきながら。けれど彼の優しいキスに、やっぱり勝てるわけが無い。囁かれる言葉は、どこまでも甘くて。
「愛してるよ」
「私も……」
そのまま彼の唇に、身を任せそうになってーー
“ガチャリ”
「冴木センセー……ええ!?」
扉を開けたのは、あの若い看護師マリカだった。二人の状況に気づいて、ーー次の瞬間には顔を真っ赤に染めて叫んだ。
「エエエッ!?あの、センセ!?」
「悪いけど、午後の診療開始時間まで立入禁止。今、大事なうちの奥さんを診察中だから。もちろんエロい意味で」
「きゃああ、ちょっと!何言ってるのよ、玲一!」
こちらも真っ赤になって慌てて逃れようとする遥に構わず、玲一は飄々と言ってのけた。
「だって色々我慢できない。なんかムラムラ……じゃない、モヤモヤするし。早急に治療が必要かと思われます、先生」
「先生はあなたでしょう!?気を確かに!」
仲睦まじい夫婦の姿に。
「あはは……お、お幸せに~?」
ーー新人看護師マリカはくるっと回れ右、黙って扉を閉じた。
あー、ビックリした。……けど、奥さん、メチャメチャ可愛かったなあ。
「冴木先生じゃなくて、冴木夫妻ファン、に変更しよ~」
***
後日ーー
「ねぇ、冴木何やってんの?診察室私物化したんだって?神聖なる仕事場で嫁といちゃつくとか、良いと思ってんの?」
コツコツとカルテをペンで叩きながら水瀬が玲一を咎めるーーが。玲一はチラリと彼を一瞥して、短く問い返した。
「で、本音は?」
「畜生羨ましすぎる!俺でさえ仕事場では自重してんのに!」
煩悩だだ漏れな親友を冷たい目で見て、玲一は掛けていた眼鏡を外す。
「ちょっと有害物質に汚染されてたから、緊急消毒しただけだ」
「そ、それは俺の事ですか!人を害虫扱いして……」
天に吠える水瀬に構わず、玲一は黙々とカルテをしまい込んだ。しばらく水瀬はそれを横目で見ていたが、彼の手が止まったところでぽつりと零す。
「……俺が彼女に、ホントに惚れちゃってたら、お前どうした?」
少しだけ、意地悪を含んで。ちょっぴり動揺させてみたくて。
ーーけれど玲一はふ、と笑った。
「ーー無いな。だってお前、遥のことより俺のことが好きだろ」
「ーーっ!!?」
あっさりと告げられた言葉に。
しまった!完全に、やられた!
思わぬ反撃に、動揺させられた水瀬は声をあげる。
「な、な、何を言ってるんデスか!可愛くない冴木より、可愛い遥ちゃんのほうがいいに決まってるもんね!」
「ああ、本気で遥に手を出したら、……地獄を見てもらうからな?」
にっこりと、それはそれは完璧な王子様微笑を浮かべて、怖い事を言ってのけた親友に。
「……最強だね、冴木……」
水瀬はデスクに突っ伏してーー笑う。
君たち夫婦には、完敗です。
***
それから何度目かの、春。
「玲一、見て」
「ああ、もう満開。綺麗だな」
手を繋いで桜並木を見上げながら、玲一と遥は微笑み合った。
この春、遥は大学を卒業し、母校の養護教諭になる事が決まっていた。
「やっと第一歩ね」
そう言って笑う遥を、玲一はとても愛おしげに見つめて。囁くように言った。
「ああ。ゆっくり進めばいいよ。ずっと傍で見てるから」
桜が舞い散る季節は、いつも彼女を思い出す。
隣に居る、大切なひとに巡り会わせてくれた彼女を。
そして降り注ぐ花びらに手を伸ばして。
愛する人とキスをする。
あなたは私の、大好きなひと。
fin.




