第六章(2)
森の中で一本の木にもたれかかりながら、レイチェルはアウリュを待っていた。いつもの家ではない、初めて会った場所。彼ならここに来ると思った。
「ここにいたのか……」
「ふふっ、ちょっと遅かったわね。もっと早くに来るかと思ったけど」
音もなく自分の前に現れるアウリュ。いつだって、自分は待っているだけだったから、今回はちょっとした意地悪だ。
「レイチェル、お前に言わなければならないことが……」
「言わなくて良いわ」
彼が言い切る前に、レイチェルは遮った。驚きに少し目を見開くアウリュを見上げ、笑顔のまま告げる。
「知ってるから」
固まってしまった彼の手を取る。温かな手が一瞬だけ透けて、感触がなくなる。すぐ元に戻るけれど、間をおかずにまた透けた。
「馬鹿ね。こんなギリギリになってから言うなんて。間に合わなかったらどうするつもりだったの?」
「知って、いたのか……」
してやったりな顔で頷けば、彼はそれが秘密か、と聞いてくる。
だが、レイチェルは違うと首を振り、もうあまり重さも感じない彼の手を、自分のお腹に当てた。
「忘れないでアウリュ。たとえ消えても、私の心と……そしてここに、貴方は残るから」
今度こそ、アウリュは零れ落ちそうなぐらいに目を見開き、見たこともないぐらい慌てた。こんなアウリュを知っているのはきっと自分だけ。そう思うと、愉快でたまらない。
「う、生む気なのか?」
「あら、いけない?」
「魔王の……魔族の子だぞ?」
「私と貴方の子よ。ねえ、せっかくだから名前だけ考えて欲しいわ」
戸惑うアウリュに言い寄れば、彼はお腹に手を当てまま唸った。唸る魔王も珍しい。
「……ザンデル、はどうだ?」
「ザンデル。男の子の名前ね。私も男かなって思ってるの。強そうで良いわ」
きっとアウリュに似た子供だろうな、と思う。そうに決まっている。
レイチェルが想像して笑っていると、アウリュはそっと左手を持ち上げ、その薬指に何かをはめ込んだ。紅い、小さな宝石がついた指輪だ。
「これ……」
「俺の代わりに、これがお前と子供を守ってくれる」
そっと宝石に触れれば、アウリュと同じ温もりがした。その温かさに、我慢していた涙が溢れる。
「ごめ、んなさい。私と会ったばっかりに……貴方が、こんなっ」
「謝らなくて良い。俺も後悔などしていない。お前と出会えて、どれだけ幸せだったか」
いつもと同じように抱きしめられ、レイチェルは顔を上げた。魔族を象徴する紅色の目が、誰より優しくレイチェルを見つめている。
「レイチェル、愛している」
「っ、私もよ。愛してるわ、アウリュ」
低く心地の良い声と共に降ってきた唇。それを受け止めた瞬間、レイチェルを包んでいた温もりは霞のように消えた。
残った空気を全て集めるように、レイチェルは自分を抱きしめた。
こぼれる涙は止められない。それでも、空を見上げる顔には微笑みを作る。
「忘れないわ。貴方がくれたたくさんの幸せを、この子に伝えてみせるから」
そっとお腹に手を当て、誓う。それは、一人の妻として、母としての誓いだった。